美
美しくあれ! いつまでもいつまでも。美しくないものはみな消えていった。醜いものはただの無価値な肉塊に過ぎない。美しいものには永遠の繁栄を。そうでないものには冷徹な死を。だから美は……。
手段と目的の倒錯がそこかしこで起きている。それを自覚する術はほとんどと言っていいほどない。かつては美しくある事が目的であり、全てはそれに従属する手段であった。美しくあるために形を整え、服を装い、化粧を施し、像を呼び起こし、絵をなぞり、作法に則り、型を忠実に表現した。あの儀式の最中の異様な美しさはまやかしでは無かった。全てはあの美を顕現させんが為に。美とは作り出すものではなく、ただそこに在った。我らと共に。
それが今やどうだろう。かつての目的であった、美しくある事は無限に思えるほど遠くへ漂流してしまった。そして空いた玉座にどかっと目的として、美への手段が君臨する。美しくなるために美しくなるのであり、服を着飾るためだけに服は存在する。化粧をするためだけに化粧をし、像は像を、絵は絵を、作法は作法を、型は型を生み出すためだけに作られる。美しさとは「ある」ものではなく、「なる」ものへと変化していった。造られた美しさとはまさしく紛い物そのものだ。美しさとは生み出すものではない。造り出すものではない。神が創りたまひしものにケチを付けるなどというなどという振る舞いは言語道断である。
「美はここにあるというのに。これほど明らかなことはないとさえ言えるのに。それでもなお何故? 何の為に美しくなろうとするのだ? 」
「それは……そうするのが当たり前だからだよ。今や美は作れるんだ。そんな愚かなことを気にしてもしょうがないさ。くだらないことに注意を割いている余裕なんて一ミリもないんだ。ただ美しくあれ。とにかくそうすべきだ。誰かの為にとか、何かの為にとかそんなものは関係ない。強いて言うなら自分の為だよ。それが現代の我々を取り巻くスローガンなんだ。分かってくれるか。この目に見えない大きな手による圧力を」
「ああ……何となくは」
「不満か? 」
「いや……確かにそうか、そうかもしれないな」
「何が? 」
「元々美なんていう大それたものはなかったのかも知れない。……いや、あるはずがない。なかったのだ。遠い昔にも、果てしない未来にも、そして輝かしい現在にでさえも! 今ここでそれが分かった」
「でも、さっきあるって……あんなにも堂々と宣言してたじゃないか」
「あれは箍の外れた、気の触れた男の妄言だ。君は赤を信じているのか。赤々と染まったリンゴよりも明らかに真っ赤な嘘を」
「はぁ……」
「こんなにも醜い美なら初めからなかった方が随分とマシだ」
「それは……言い過ぎじゃないか? 」
「そうだ。その通り。これは極論に過ぎない。ただし、限りなく漸近している」
「どこにさ」
「美に。一点に収束するように思える美なんて嘘だ。それぐらいなら発散した方が何万倍も良い」
「それで良いのか? 君は美に魅入られたのではなかったのか? 」
「……」
「諦めるのか? 」
「諦めたわけではない。退けるのだ」
「何を」
「美を」
「……それで? 」
「それで……」
「そうすれば、君の言った通り美がどこかからかやってくるというのか? 未だかつて誰にも認められることのなかったあの美が。あり得ない。金輪際そんなことはあり得ないよ。ミミズが逆立ちしたってそんなことは起こらない。美が復活するって? 冗談も大概にしてくれ。ここにあるものが美じゃないなら一体何なんだ! 」
「……」
「手段と目的の倒錯が何だ。倒錯しているのは君の頭の中に違いない。『ある』と『なる』の区別が何だ。それが美に対応しているとでも言うのか。確かに君の言う通り美は消え去ったのかもしれない。今消えつつあり、今後段々と消えていき二度と姿を見せることはないのかもしれない。でもそれが何だって言うんだ! それが君を規定するとでも言うのか? 美しくあろうが、美しくなろうがどっちだって良い。もはやどっちだって構いやしないのだ。美しいものはすぐに分かる。ただし我々の仕方とは別の仕方で。だから……ここに美があるのだ」
それでも美しくあれ! たとえ美しいものがこの広い宇宙のどこにも見つからなかったとしても。