アリス・イン・ワンダーランド
酒を飲みながら本を読むといい感じに飛べる、と言ったのはどこの変態だっただろうか。
もちろん鵜呑みにしたわけではない。ただムシャクシャした気持ちを晴らしたかっただけだ。
同棲時に取り決めた不可侵条約を破り、洋平の部屋に突入した私は、本棚から本を適当に取り出し、硬くて冷たい床に寝転がった。
ストロングなチューハイを煽りながら古びた本を開く。アリスとかいう女の子が白兎を追いかけてワンダーランドに迷い込む名作、らしい。
よく手入れされているが、流石に刻まれた年月は隠しようもない。ページを捲る度に古本独特の香りが鼻をくすぐって、思わずくしゃみが出そうになる。
「あーもう……。洋平のやつめ……」
愚痴ったところで、聞いているのは家のどこかに潜んでいるゴキブリぐらいだ。
いつもより飲むペースが早いせいか、ぼんやりと霞がかってきた頭で今朝の出来事を反芻する。
『ちょっと! 久しぶりに休みが被ったのに、一人で出かけるってどういうこと?』
『ご、ごめん……。でも、どうしても欲しい本があるんだっ!』
そう言って、洋平は引き止める私を振り切って行ってしまった。隣町で開催される古本市とやらに。
いや、わかるよ。本好きだもんね。滅多にないチャンスなんだから、そりゃ食いつくよね。
でも、いくら何でも、クリスマスに恋人より本を優先するってどういうことなの?
「……私って何なんだろう」
ああ、駄目だ。何だか切なくなってきた。
パタンと本を床に置き、滲んできた涙を誤魔化すように交差した腕を瞼の上に乗せる。昔から嫌なことがあると、すぐに夢の中に逃げ込んでいた。
摂取したアルコールが私を眠りの世界に誘う。抵抗はしない。本能が求めるまま、まるで揺籠のような心地良さに身を任せた。
「……あれ?」
ふ、と目を覚ますと、そこは場末のスナックだった。何故、場末だとわかったかというと、飛び出して来た田舎のスナックに似ていたからだ。
忘れたくても忘れられない、ギラギラとした内装はムーディを通り越して昭和の趣を感じさせる。渋い光沢を放つダークブラウンの机の上のマッチには『スナックワンダーランド』の文字があった。
「あら、ようやくお目覚め?」
野太い声に体がびくっと竦む。いつの間にかカウンターの中に立っていたのは、優雅なマーメイドドレスを着た、ムキムキマッチョのおじさまだった。
「あの……あなたは」
「アタシ? アリスよ。ここのママ。そしてあんたはお客様」
アリスってあのアリス? 寝る前に読んでいた本の? どう見ても権三とか巌とか、そういう勇ましい名前が似合うんだけど。
「ちょっと! なーんか失礼なこと考えてなーい?」
私の表情を読んだのか、アリスと名乗ったおじさまが「んもう」と唇を尖らせた。
「最初にネタバレしとくけどね。ここはあんたの夢の中よ。深層心理っていうの? だからね、アタシはあんたの一部なの。アタシの言葉はあんたの心の声ってワケ。おわかり?」
おわかりになりたくない。
アリスの言うことが本当なのだとしたら、私の心の片隅にはこのムキムキマッチョのおじさまがいることになるじゃないか。
「ブッサイクな顔しないでよ。はい、これをお飲みなさいな。喉乾いてるでしょ」
「お水? スナックなのに?」
「寝落ちするほど飲んどいて、更に酒を要求するんじゃないわよ。あんた酒弱いんだから……忘れたの? 二年前の冬、調子に乗って日本酒を飲みすぎて寝ゲ……」
「あーあー! わかりました! 大人しく飲みます!」
私と洋平しか知らない黒歴史を知っている以上、アリスは私なのだと認めざるを得ない。ふふん、と勝ち誇ったように笑うアリスを睨みつけながら、ちびちびと水を飲む。
「……これ、夢……なのよね? 何でこんな夢見てるの」
「そりゃ、あなたが望んだからよ。……洋平ちゃんと喧嘩したんでしょ?」
グッと喉が詰まる。
「喧嘩……じゃないわよ。喧嘩にもなってないもの」
そう。あれは喧嘩じゃない。喧嘩というのは、感情と感情のぶつかり合いだ。
私が一方的にボールを投げて、キャッチされることなく躱される。業を煮やしてデッドボールを狙っても梨の礫。そんなものは喧嘩とは言えない。私はマウンドに立つ前からコールド負けしているのだ。
小学生の時からそうだ。私がどれだけ振り回しても、洋平はただニコニコして受け入れるだけ。昔はそれでも良かったけど、今はもどかしくてたまらない。
年々わからなくなる。洋平が何を考えてるのか。どうして私のそばにいてくれるのか。
「何でわっかんねぇんだよぉ!」
肩がビクッと竦んだ。声がした方――カウンターの左側を向くと、毒々しい色をした芋虫の着ぐるみを着た少女が、半分以上減ったロックのウイスキー片手にテーブルに突っ伏していた。
焦点のあっていない巨大な目玉のついたフードから覗く髪は見事な金色だ。指には髑髏や十字架などの尖ったモチーフの指輪がこれでもかと嵌められていて、いかにも「ロックかメタルかパンクにハマってます!」と主張していた。
「……ま、まさかあれも?」
「そうよ。あの子もあんた。あ、グラスに入ってるのはウイスキーじゃなくて麦茶だから。いくら夢の中でも、最近は規制が厳しいのよ」
「ええ……。世知辛ぁ……じゃなくて! 何であの子が私なの? 見てよ、この安っぽいスウェットの上下とボサボサの黒髪を。どこにもロックな要素ないでしょ」
「中学二年生の時、メタルにハマってたの誰だっけ?」
んふっ、と変な声が漏れた。アリスの言葉で、やたら髑髏モチーフのシャツやアクセサリーを身につけていたのを思い出してしまった。
あの頃は心の中のモヤモヤをとにかく吐き出したかったから、たまたま洋平に連れられて行った本屋の音楽雑誌を見て、「こんな世界もあるのか!」と開眼し、近隣のライブハウスを荒らしまくってたんだった。
相当のめり込んでいたのに、何で通うのやめたんだっけ? そういえば、夜な夜なゴツイ厚底ブーツを履いて出かけて行く私を見て、洋平が何か言ったような気がするけど……。
「何で覚えてへんのや、おばはん。あんな素敵な思い出をよお」
少女が威嚇するように私を睨む。
「いきなり方言全開にするのやめてよ。あと、あんたお口悪すぎ。とても私とは思えないわよ」
「何言うてんねん。私はあんた、あんたは私や。忘れてもうたなら、思い出させたる。見ろや、これ」
テーブルの上を滑って来たのは、ボロボロのお守り袋だった。『安全祈願』と書いてあるが、生地は色褪せたハンカチで、縫い目もガタガタ。明らかに手作りだ。同じものが私の部屋のどこかにあった気がする。
「これって……」
「洋平がくれたんや。考えてもみぃや。いくら老けて見えても、中学生のガキんちょが派手な格好して夜に出歩いてたら心配するやろがい。親にも見捨てられたあんたをそこまで気にかけてくれたん洋平だけやぞ」
そうだった。「僕も行きたいけど、チケット代が払えないから」って渡してくれたんだ。その上、ライブが終わるまでずっと外で待っててくれたんだった。
頭に雪を乗せてしゃがんでいる洋平を見て立ち尽くす私に、「楽しかった?」とニコニコ笑う姿に気が抜けて、きっぱり足を洗ったんだ。洋平だけには心配かけたくないと思ったから。
「……でも、それは子供の頃の話でしょ。今は別に私のことなんて……」
「そんなことないよ! 洋平くんは今も昔も変わらないさ!」
ドアを開けて颯爽と登場したのは、シルクハットを被った若い男性だった。
すらっと背が高くて、すっごい美形。服装こそ何の変哲もないスーツだけど、物腰が気品溢れているというか、まるでお伽話に出てくる王子様みたいだった。
王子様は白い歯を輝かせながら私の右隣に腰掛け、アリスに「君の涙を頂こうかな。美しいお姫様」とウインクして軽く指パッチンした。
「……これも?」
「そうよ。それもあんた。なかなかイケメンよねえ」
王子様にグラスを差し出したアリスが魅惑の微笑みを浮かべた。
嘘でしょ。私の心の中って、オネェとヤンキーと王子様で構成されてるの? 純粋な乙女はいないわけ?
頭を抱える私に、王子様はグラスの中の液体を一息で飲み干すと、キラリと効果音が出そうな笑みを浮かべた。
「君は本当に自分に自信がないね。ちょっと洋平くんがつれなかったぐらいで簡単に揺らいで。仮にも私が心の中に住んでるんだから、もっと堂々としてなよ」
「だって、一度も綺麗とか可愛いとか言われたことないし……。洋平が何を考えてるのかわからないんだもん」
「綺麗とも可愛いとも思わない相手と、十七年も一緒にいないと思うなあ、私は」
王子様から目を逸らして黙り込む私を見て、アリスが「そうよお」と援護射撃してくる。
「洋平ちゃんが本の虫なのは昔からじゃないの。他の女に目が眩んだわけでもあるまいし、大目に見てあげなさいな。三百六十五日あるうちのたった一日でしょうが」
「でも、クリスマスなのに本を優先されたら、私のことなんてもう飽きちゃったのかなって思うじゃん……」
「ああ、もう! クリスマス、クリスマスってうるさいわね! あんなもの、男と女がただちちくり合うための口実じゃないの! あんたね、世の中のお姫様が王子様を繋ぎ止めるためにどれだけ苦労してると思ってんの? 幼馴染だからって甘えてると、いつか痛い目に遭うわよ」
そんなこと、改めて言われなくてもわかっている。それでも、好きなのは自分だけじゃないかと思うと怖いのだ。
「洋平は優しい。優しすぎるの。だから、私に不満があっても黙ってるんじゃないかって疑っちゃうのよ。いつもニコニコしてるのも、向き合うのが面倒だって思ってるからかも……」
そうこぼすと、アリスはわざとらしいため息をついて、筋肉で盛り上がる肩をすくめた。
「まー、卑屈。我ながら嫌になっちゃう。……仕方ないわね」
言うや否や、アリスは背後の戸棚からティーポットを取り出すと、私の前に置いたカップに中身を注いだ。アリスの趣味……いや、自分でも気づいていない趣味なのか、やたら乙女チックで煌びやかだ。
『君はあの灯台みたいだね。北極星よりも鮮烈に、僕の行く先を照らしてくれる』
突然、洋平の声が聞こえてきてぎょっとする。アリスに促されてカップの中を覗き込むと、薔薇色をした紅茶の表面に浮かんだ映像が、映画のように滑らかに動きだした。
どこまでも広がる暗い海に浮かぶ灯台と、どんより燻んだ夜空――それは、とうの昔に捨て去った風景だった。
「――っ!」
頭の中に直接紅茶を注ぎ込まれたみたいに、過去の記憶が蘇る。
二十四年前、私はある寂れた漁師町に生を受けた。母親はお水、父親は多分客の誰か。物心ついた時にはうらぶれたスナックの一角で母親が客に愛想を振り撒く姿を見ていた。
どんな街にも夜の店はつきものとはいえ、世間の目は冷たい。
お優しいママに吹き込まれたのか、クラスメイトたちは私を惨めな子と蔑んだし、賢そうな顔をした教師たちも、いつも荒んだ目をしていた私を腫れ物に触るように扱っていた。
たとえ、放置子だの何だの言われても無視していれば良いものの、馬鹿正直に向かっていくものだから、私はいつも一人だった。
同じく一人だったのが洋平だ。洋平はいつもニコニコしていて、敵なんてどこにもいなさそうだったのに、私以上にみすぼらしい格好をして、みんなから遠巻きにされていた。
最初は何故かわからなかったけど、体が大きくなって世の中の道理がわかっていくにつれて、お婆ちゃんだと思っていた女性が施設の職員さんだと知った。言うなれば、私たちは世間に見捨てられたもの同士だったのだ。
気づけば私と洋平はいつもそばにいた。傷を舐め合うでもなく、睦み合うでもなく、ただ引き合う磁石のように寄り添っていた。中学に入った時も、高校に入った時も、周りが囃し立てる声を跳ね除けて常に二人きりでいた。
その関係が変わったのは、高校を卒業した日だ。自分の後を継いでもらいたがっている母親と、常連のおじさまたちの好色な視線に辛抱出来なくなった私は、今までコツコツ貯めてきたバイト代を握りしめて洋平を誘った。いつも遊びに誘う時のように。
『東に行くで、洋平! 一人じゃどうにもならんことも、二人なら何とかなる。私らはもう大人や。いつまでもこんなところに縛られんでもええんやで』
『僕なんかがついて行ったら足手纏いになるよ。僕じゃ君を幸せにしてあげられない。君にはどこまでもまっすぐ走って行ってほしいんだ』
いつでもどこでもついて来てくれた洋平が、初めて首を横に振った。それに焦った私は、震える右手を精一杯伸ばして必死に捲し立てた。
『お姫様扱いすんなや! 別にあんたに幸せにしてもらおうなんて思ってない。私があんたを幸せにしたるわ。だから、あんたはつべこべ言わずに私について来ればええんや。今までもそうやったやろ?』
『……わかった。僕は君について行く。たとえ行き先が地獄でも、僕はこの手を離さない。もし、これから先、君が心変わりしても、僕の気持ちは永遠に変わらないから』
まるで白兎みたいな真っ赤な目で、洋平は私の手を握り返した。
「……思い出した?」
アリスが静かに問う。壁に掛かった古びた時計がチクタクと時を刻む音だけが聞こえる。
あのあと、田舎から遠く離れた都会に根を下ろした私たちは、ただの幼馴染から恋人になった。寂しい夜を甘いホットミルクとたわいのない言葉の応酬で乗り越えられるほど、私たちは成熟していなかったのだ。
初めて洋平を受け入れた時の痛みも、ぬくもりも、ありありと思い出すことができる。なのにどうして、一番肝心なことを忘れていたんだろう。
「もうわかってるんでしょ。洋平ちゃんにとって、あんたは灯台なのよ。暗闇の中に浮かぶたった一つの光。あの時、確かに幸せにするって約束したじゃないの。なのに、ただのつまらないヤキモチで揺らいでちゃダメだと思わない?」
「……洋平は、私のこと好きなの?」
アリスたちが顔を見合わせる。そして、満面の笑みを浮かべて親指を立てた。
「当たり前やろ」
「当たり前じゃないか」
「当たり前よ!」
わかってる。これは夢。どこまでも都合のいい言葉。それでも、私の丸まった背中を押すのは十分だった。
音を立てて席を立ち、出口に向かう。その後を追うように、アリスの声が飛んでくる。
「ま、頑張んなさい。あんたはアタシ、アタシはあんたよ。心の声を大切にね」
カウンターの中で右手を振って笑うアリスは、ムキムキマッチョなおじさまではなく、あの日の私と同じ顔をしていた。
レトロなドアベルが付いた扉を静かに開ける。扉の外は光に満たされていて、とても目を開けていられない。
思わずギュッと閉じた瞼の奥で、必死な顔をしたエプロンドレスの少女と、真っ赤な目の白兎が手を繋いで駆けて行くのが見えた気がした。
「わっ、何だよこの部屋! 酒くさっ!」
聞き慣れた声にふっと目を開けると、見慣れた天井が広がっていた。
体には毛布。枕元には水のペットボトル。相変わらず手厚く面倒を見てくれる。
もー、と牛みたいに唸りながらガサゴソと後片付けを始めた洋平の背中をじっと見つめる。その足元には本が入ったエコバッグがある。
大量に買い込んで来たかと思いきや、予想に反して一冊だけだ。お目当ての品が見つからなかったのだろうか。
「……どんな本買って来たの」
「ん? ああ、これは君のだよ。僕からのクリスマスプレゼント」
「私に?」
洋平に支えられながらゆっくりと体を起こす。泥酔して寝落ちした割にあまり辛くないのは、夢の中で水を飲んだからかもしれない。
差し出されたのは、眠りに落ちる前に読んでいた本の絵本版だった。可愛いエプロンドレスを着た女の子が、白い兎を追いかけて走っている。
ページを捲ると、キノコの上でタバコを燻らせている芋虫やシルクハットを被った紳士がお茶会を開いている絵があった。
「小学生の頃、言ってただろ? クラスメイトに馬鹿にされるから、読みたくても読めなかったって。同僚の司書から、知り合いが古本市でこの絵本を売りに出すって聞いて、慌てて駆け付けたんだ。クリスマスなのに、君を放って出て行ってごめんね」
ああ、そうだ。確かに言っていた。本人でさえ忘れていた些細な一言を、ずっと覚えてくれていたのか。
王子様の言う通りだ。洋平は何も変わっていない。
変わったのは私。容赦なく過ぎゆく時の中で、いつの間にか走ることをやめてしまっていた。右手に宿る体温さえ手放して。
――でも、二度と迷わない。あの日の誓いを思い出したから。
「ようへい」
「なに?」
「結婚しよ」
洋平が呆気に取られた顔で私を見つめる。そして頬を染め、花が綻ぶように柔らかく微笑んだ。
「もちろんだよ。これからもよろしく、僕の有朱」
差し出された手を強く握りしめる。
もう離さない。私のお姫様。
女の子が王子様になってもいいよねってお話でした。
最後まで読んでくださってありがとうございました!
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↓登場人物まとめ
有朱
アリス。大人になるにつれて洋平を見失い、臆病になった。かなりのロマンチスト。クリスマスに拘るのは、何もしてもらえなかった子供の頃の反動。
洋平
白兎。子供の頃から有朱しか見えてない。いつもニコニコしているのは単純に有朱が好きだから。『つべこべ言わずについて来い』を愚直に守っている。
オネェ
心の声その①。配役的にはアリスの姉。有朱の『理想の大人』『冷静さ』の体現。
ヤンキー
心の声その②。配役的には芋虫。有朱の『走り続ける情熱』『燻る怒り』の体現。
王子様
心の声その③。配役的には帽子屋。有朱の『洋平を連れて行くと決めた時の覚悟』『ロマンチストな自分』の体現。