もう、泣くな
明日は鎌倉に入るという前夜。この日はキジを早々に射ており、ヒナギクもツキもそれが楽しみで仕方ない。路銀もあったので、長生は宿所を使うことも考えたが、犬がいるし、やはり、危険にも感じた。やはり、人の少ない山に入ることにした。
日没にはかなりの時間があるが、進むことをやめる。
「芋や香草もそこらにあった。みなで採りに行こうか」
少しの荷物を風通しのいい場所に置き、ヒナギクとツキを誘う。三つ葉などをむしり、芋を掘る。泥だらけになって遊ぶヒナギク。
「そこの川原で少し身体を洗ってこい。何かあったら、ツキに叫べ」
ヒナギクはうなずき、犬と川原に走る。その間に倒木を立ち木に渡し、風よけをつくる。火を起こすかまどをしつらえる。
「長生、気持ちいいぞ。お前も洗え!」
戻ったヒナギクが濡れた髪を後ろで結んでいた。美しい娘だと、思ってしまう。
その横で犬が身体を震わせ、水をはじいている。
なんとも平安な景色だった。
「そうさせてもらおう。火は起こしておいた。少し、見ていてくれ」
川原まで行き、顔を洗い、髪を水にくぐらす。何とも気分がいい。衣を脱いで、ざぶんと浸かる。手拭いで身体を拭く。キジを肉にし、芋を洗う。
多くの時間を使わずに、戻る。
「おお、よい男ぶりじゃ。長生は女子に好かれような」
ヒナギクが笑ってこちらを見ている。長生も笑うしか応じようがない。
「ツキも、キレイになった。ホンマ、お月様みたいな犬じゃろ」
その白い犬は後ろ足で耳をかいている。
鍋には湯が沸いていた。肉と芋を放り込む。
「おいしいんやろうなあ。楽しみやなあ」
ツキをなでながら、ヒナギクは鍋を見つめる。
「途中で味噌を少し購った。特別にうまくなる」
長生は荷物から小さくくるまれた竹の皮をとりだす。人の多い宿でこっそりと買っていた。そういう場所は逗留せずにやり過ごせば、人目は引かないものだ。
鍋が煮えてきたところで、ツキのためにある程度の具をとりだしておく。そして、味噌と香草を入れる。香りが広がる。
長生がいつものように大きな葉と椀に取り分ける。自分は今日の棒切れを手にする。
「食おうか!」
「いただきまーす!」
犬と娘が、それぞれの食い物に飛びつく。長生も棒切れで肉を口に持っていく。
「はぁー、うまい」
顔を見合わせて笑う。犬は食っている。
(うまいですわ。沁みわたりますわ)
本当にうまそうに食う犬だ。長生はこの時間が好きだった。
風よけの中で、ヒナギクは寝ているツキの背中をなでていた。長生が注いでやった椀の汁を口にし、彼を見る。
「こんなに幸を感じたことはない。私は長生と過ごす、この時間がよい」
今日で最後なのだ。明日はほどなく鎌倉だ。いや、鎌倉には深く入らない。その離れにある足利屋敷に着く。
「ヒナ様からいただく、格別のお言葉。長生は恐悦至極でござる」
そう笑ってやる。でも、ヒナギクは満足しない。
「長生、ツキはどうする気じゃ? ヒナの家来じゃ」
それについては思案していた。
「ツキはヒナギク君の大事なお犬ゆえ、ゆめ離すことなきように、そう、お伝えするつもりだが」
ヒナギクが安堵の顔をする。でも、すぐに不満な顔に戻った。
「長生は、どうするんじゃ? お前も家来で、しかも、友じゃ」
まっすぐにヒナギクが見ている。月明かりがその白い肌を照らしていた。美しく通った鼻筋の脇に、大きすぎる瞳が揺れていた。
「そうは言っても、ワシは腕っぷししか取り柄のない悪党じゃ。ヒナを送れば、そこまで……」
当たり前のことを返すしかない。でも、怒るヒナギク。
「そういう、当然至極を聞いているのではない!」
どうしたらいいのか、長生にはわからない。
「長生は、何も学ばないアホじゃ。何度も言うたぞ。そういうときは、相手の手を握れと」
そうだった。この娘の不安は、言葉ごときでなくなるものではない。
長生の手がヒナギクのそれに重なる。でも、ヒナギクは叫ぶ。
「そんなんでは足らん! 私はずっとひとりじゃ!」
また、驚く。孤独なのだ。当然だろう。でも、よく考えれば、自分もそうだ。だから、この娘と、犬との時間を幸せに感じてしまったのだ。
でも、ヒナギクは止まらない。
「私の生は寒いばかり! 暑くなったら焼き殺されるときじゃ! ちょうどようせい。このアホ長生!」
理解した。反射的に長生はヒナギクを引き寄せた。両腕の中に抱え込んだ。
ヒナギクが泣く。ただ、泣いた。
愛おしかった。長生はどうにもならない。腕の中の小さく、美しき命を、ただただ、大切に思う。
「なんや、長生の腕って、どんだけ長いねん。私ごときの命なんか、全部包めるやん」
そうだった。この娘の不安くらい、自分の両腕さえあれば、何とでもなるはずだ。
「私は小さい自分が嫌いやった。でも、はじめて、小さくてよかったと思うよ。長生が全部包んでくれる。暑かろうが寒かろうが、あなたの中で生きていられる」
ヒナギクはさらに長生に近づいた。彼の中に潜り込もうとした。
この両腕はこの命を包むためにあった気がする。それをしてこなかった自分を恥じる気分にさえ長生はなる。
小さな笑いが、無意識に出た。
何かが、心の中で変わった。
「なあ、関長生はそなたのために生きようか?」
ヒナギクは長生を離さなかった。そのまま、うんうん、とうなずいた。
「ならば、ヒナ、もう、泣くな」
また、ヒナギクはうなずく。
犬は顔を上げて見ていた。少しあくびをして、また寝た。