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老いた囚人の対話  作者: 美祢林太郎
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8 独房の中の散歩

8 独房の中の散歩


「おはようございます。いったい何をしているんですか」

「朝の散歩だよ。体を動かさないと体が固まるからな」

「あはは、そうかもしれませんね。でも、狭い独房の中で散歩なんて、面白いことを考えましたね」

「こんな狭いところでちょびちょび歩いたって、それを散歩なんて言う奴は誰もいないかもしれないが、これがおれにとっての散歩であり唯一の運動さ。毎日違った風景が見えるからな」

「壁ばかりの部屋で、風景が変わるのですか」

「心の中の風景さ」

「洒落たことを言いますね。それで毎朝、散歩をしているのですか」

「ああ、少しだけどな。意識しなければ、この狭い部屋の中では、体を動かすことはないからな」

「確かにそうですね。ぼくは監獄に入ってからは、あなたのように運動をしてこなかったので、体が歪んでしまったみたいです」

「おお、おまえさんは背骨が曲がり、足も弱っちいから、もはや鉄格子や壁にもたれかからないと、立っていられないのだろう」

「そうなんです。年も年ですからね」

「今からでも遅くないから、毎日少しずつでも運動してみろよ。おれと一緒に散歩をするか」

「遠慮しておきます。そんなに長生きしたいわけではないですから」

「おれだって長生きしたいわけじゃないぞ。死ぬまでは五体満足でいたいだけなんだ。死んで鮫の餌になるにしても、ガリガリのミイラみたいじゃ鮫に申し訳ないっていうものさ。鮫に喰われてペッと吐き出されるのも嫌だものな」

「鮫のことを考えてやっているんですか。これまた面白いですね」

「面白いだろう。単調な独房では、面白いことを考えるのが、何よりの退屈しのぎさ。人殺しが自分を食べる人喰い鮫の心配をしてやっているんだから、笑わせるだろう。でも、おれが先のことを考えられるのは、そのくらいのことしかないじゃないか。どうせなら、できるだけ若くて生きのいい鮫に食われたい、と願っているんだ。映画で有名なジョーズのモデルのホホジロザメもいいけど、頭が左右にハンマーのように突き出たシュモクザメも捨てがたいと思ってんだ。どちらも全長が6メートルくらいあるんだぜ。まあ、おれはおれを食べる鮫を選べないけどな」

「鮫のことを詳しいんですね」

「子供の頃、テレビで観て、覚えてんだ。鮫ってかっこいいよな。その鮫に食べられるなんてどこか運命的なものを感じるんだ」

「それこそこの八方塞がりの監獄で、先のことを考えられるなんて、あなたは立派です。こんな暗いところで、未来が見えるんですか。ぼくの頭は、悲惨な過去が走馬灯のように回っているだけです」

「ああ、悪いけど話はちょっと待ってくれ。散歩をすませてから、話の続きをすることにしよう。何周回ったかわからなくなったからな」

「回った回数を数えているのですか」

「ああ、そうでもしなけりゃあ、すぐに散歩をやめてしまうからな」

「この狭い部屋の中を毎日何周歩くのですか」

「100周歩くことに決めているんだ。一周10歩だから1000歩も歩くんだぜ」

「几帳面ですね」

「昔はこんなに几帳面ではなかったはずなんだが、独房に入って性格が変わってしまったのかな。娑婆では、時計があって数字を刻んでいてくれたけど、ここじゃあ、数字を刻むものは何もないからな。何時何分なのか、何日、何年経ったのか、さっぱりわからなくなった。気にかけなければ、そんなことはどうでもいいことだけどな。買い物をすることもないから、勘定もしなくなった。おれは数はどうでもいいと思うんだけど、数がなければ、時間が前に進んでいかないような気がしてきたんだ」

「前に進むですか? そう言えば、ここでは時間が前に進む感覚はありませんね。収監されてから、時間はずっと止まったままのようです」

「そうだろう。だから、算数が苦手だったおれが、ここで数を数えているわけさ」

「よくわかりませんが、ぼくより色々なことを考えているようですね」

「そんなことはないけどな」

「いずれにしても、独房の中の散歩とはなかなか粋ですよ」

「そうか。最近は、歩幅も狭くなったし、歩くのがゆっくりになったから時間もかかるようになったけど、人間の原点はやっぱり二足歩行だからな。死ぬまで歩きたいと思うようになったんだ」

「言われてみると、あなたの二足歩行はきれいですよ。ぼくなんて、最近は歩くことを忘れてしまいました」

「まずは鉄格子を持って、立つ練習をしてみろよ。リハビリをすれば、元に戻るかもしれないからな。あきらめたら終わりだぞ」

「ぼくは元大統領を襲った日に、すべてが終わったんです。時間の前後もどうでもよくなったのです」

「そうか。まあ、いいや。回った回数がわからなくなったから、終わるまで話はよそう。今50周目ということにしておくから、もうしばらく待ってくれ」

「ぼくは眠くなってきましたので、少し寝ます。散歩が終わったら声をかけてください」

「わかった」


「おい、散歩が終わったぞ。ぐっすり寝ているのか。それとも死んでしまったのか」

「生きていますよ。寝てはいません」

「そうか、寝ていなかったのか。まあ、おれもおまえも起きているのか寝ているのかよくわからない存在だけどな」

「どういう意味です」

「二人で互いの存在を確認しているけど、もしかすると、この対話はどちらかの夢の中での出来事かもしれないってことさ」

「哲学的なことを考えるのですね。これも散歩の効果ですか。まさか夢の中の出来事だった方が良いと思っているのですか」

「そんなことはないぜ。おまえが実際にいてくれた方が楽しくていいものな。人生でこれだけ話をした奴は、誰もいないからな。おまえの方はどうなんだ」

「ぼくは夢には逃げませんよ。ぼくは犯した罪から逃れることはできないのですから」

「おっ、偉い、偉い。それでこそ、おまえだ。ところで前回の話は何だっけ」

「さあ、何だったのでしょうね」

「互いに覚えていないのだから、別に前回の話の続きをする必要もないな。話なんて脈絡がなくたっていいんだから」

「そうですね。二人で話をしているのですから、互いがなんとなく了解すればそれでいいのです。話につながりなんか必要ありません。誰かに話を聴かれているわけではありませんし、ましてやぼくたちの話が録音されて後で誰かに聴かれるわけでもないですからね」

「そうだよな。ところで、おまえはどうして大学に入学しなかったんだ?」

「そう言えば、前回もそんな話だったと思います。覚えていたんじゃありませんか」

「そんなことはないんだけどな。つい、口をついて出てきたんだ。たまたま。偶然というところかな。それで、おまえの高校は進学校だったよな。おまえ、高校を卒業していったいどうしたんだ」

「専門学校に入学したんです」

「進学校の生徒にしては珍しいな。どうして大学に行かなかったんだ」

「ぼくの実力じゃあ、父親のような一流大学には入れなかったからです。高校時代、食べることばかり考えていて、勉強には手がつきませんでしたから」

「一流大学じゃなけりゃあ、大学じゃあないのか? プライドが高いな。それで専門学校を卒業して何になったんだっけ」

「授業料を払えなくて、すぐに専門学校を退学しました。何の技術も身に着けられませんでした」

「技術を身に着けるか・・・。そう言えば、おれはそんなことを考えたこともなかったぞ。おれも大工か料理人になったらよかったのか? おまえは何の技術を身に着けようと思ったんだ」

「コンピュータです」

「コンピュータ? 頭の良い奴は考えることが違うね。そんなのも技術って呼ぶんだ。そこを中退して、どうしたんだ」

「消防士の試験を何度か受けたんですけど、毎回筆記試験は通るんですけど、体力試験と面接で落ちるんです」

「そりゃあ、おれだってわかるよ。消防士を受けるような奴らは、みんなマッチョなんだろう。おまえなんか、ひ弱じゃあないか。いや、今のおまえじゃなくて、テレビで見た昔のおまえさ。あれじゃあ、そりゃあ落ちるよ。でも、どうして消防士になろうと思ったんだ?」

「単純に人の役に立ちたいと思ったんです。消防士は人のために役に立つことがはっきりしているでしょう」

「まあ、そうだけど、もう少し自分の適性というか体力を考えた方がよかったんじゃないのか。それで、その後は何をしたんだっけ」

「海軍に入隊したんです」

「やっぱり人のためになろうと思ったのか」

「いや、これはたまたま親戚の人が海軍にいたからなんです」

「そこに何年いたんだっけ」

「二年です」

「どうしてやめたんだ。訓練がしんどかったのか?」

「しんどかったのも確かですけど、男の世界だから色々ありまして」

「いじめられたのか?」

「まあ、そんなところです」

「だから言っただろう。体力がない奴がいくところじゃないって。おまえみたいな頭が良くて貧乏で不愛想な奴は、地元の市役所に勤めて、毎日数字だけを見る税務担当になったらよかったんだ。そうすると、今頃は子供の一人もいて幸せな家庭を築けたはずだぜ」

「そうですね。やっぱり地方公務員ですよね。どうしてぼくは高校を卒業してすぐに公務員にならなかったのでしょう。気づいた時には、年齢制限に引っかかって受験することが出来なくなっていました。公務員だけでなく、いつの間にか、どの民間企業においても正社員になることができなくなっていました。気づけば、この独房の中のように八方塞がりになっていたのです。ぼくは投げやりになったんでしょうね。毎日パチンコをし、酒を飲み歩き、金がなくなったら、返す当てもないのに消費者金融から金を借りていました。これじゃあ、母と同じです。いつからか、すさんだ生活をするようになっていたんです」

「その借金はどうしたんだよ」

「叔父が返してくれました」

「おまえもおふくろさんと同類じゃないか」

「お恥ずかしながら」

「街を歩いてて、幼馴染や中高の同級生と会うことはなかったのか?」

「すれ違っても、誰もぼくのことなんかわからないようでした。高校の同級生たちとは、すっかり別世界の住人になっていましたから」

「名門高校の卒業者は辛いよな。みんな生活の水準が高いんだろう。でも、おれもそうだけど、おまえみたいに社会の底辺にうごめている奴なんて、ごちゃまんといるんだぜ」

「ああ、わかっています。ぼくだって、公園のベンチで寝たことくらいありますからね。ぼくの傍に薄汚れた浮浪者が何人もいました」

「だけど、おまえが元大統領を射殺した時は、こざっぱりした服装をしていたじゃないか。実年齢よりもずっと若く見えたものな」

「そりゃあ、そうです。一世一代の晴れ舞台ですからね。テレビに映るだろうことは推測できましたし、居合わせた人たちがスマホで動画を撮ってSNSに載せることも予想できましたからね。ぼくは新しいTシャツを買って、マスクも新調したんです。顔がはっきりとわからないように長髪にしていましたから、気づく人はいなかったかもしれませんが、犯行の数日前にはわざわざ床屋にも行ったんです。浮浪者みたいな姿で人を殺すのは、殺す人にも失礼でしょう。床屋では髭剃りとシャンプーもしてもらいました。久々なので、とても気持ち良かったです。すっきりしたので、人を殺すことを一瞬忘れてしまったくらいです。人間は毎日他人に髭剃りとシャンプーをしてもらったら、世の中から人殺しはなくなるかもしれませんね」

「それはどうかわからないけど、おまえは変なところに義理堅いし、これから起こる周りの景色がはっきりと見えていたんじゃあないか。それじゃあ、警察に捕まって監獄に入れられることも見えていたんだろう」

「見えていました。ぼくを取り押さえる警察官に無抵抗なことも、あらかじめ決めていました」

「残されたおふくろさんや妹がどうなるか考えていたのか?」

「いいえ」

「元大統領の家族のことは、何か考えていたのか?」

「いいえ」

「そうだよな。そこまでの景色が見えていたら人は殺せないよな」

「すべての景色が見えてしまったら、人を殺すなんてできません。そうですよね」

「そうだろうな。おれの場合、何も考えていなかったけどよ」

「ぼくには殺害を実行するまで考える時間がたっぷりありました」

「よくもその時間の長さに圧し潰されなかったな。おれだったら耐えられないね。おまえは恐ろしいまでに執念深いんだ」

「執念深さも、あの一回で使い果たしてしまいました」

「そのようだな」

「明日から少し体を動かしてみようと思います」

「どうしたんだ」

「人喰い鮫にそっぽを向かれないようにするためです。ぼくは食べられるならばハンマーの頭を持ったシュモクザメがいいですね」

「そうか、おまえも少しは先を考えるようになったか。鮫に喰われるのは、きっと爽快だぞ」

「はい」


       つづく

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