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老いた囚人の対話  作者: 美祢林太郎
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2 絶海の孤島にある監獄

2 絶海の孤島にある監獄


 大西洋の赤道直下に全体が要塞でできたような島がある。それは岩礁に毛が生えた程度のごく小さな島なので地図を捜してもどこにも載っていない。絶海の孤島、という言葉がこれほど似合う島は、地球のどこを探してもそうはないだろう。要塞に見えるのは、実際は監獄である。Wはこの監獄の独房の中にいる。

 百年以上も前に、一人の囚人も脱獄できないように、この島に監獄ができた。昔、本土の監獄では、地面に長いトンネルを掘って脱獄した囚人もいた。ギャングの手下が親分を助けるために監獄を爆弾とライフルで武装して襲うこともあった。収容された政治犯を救出するために、暴徒となった市民が監獄になだれ込むことだってあった。以前は、そんな物騒な世の中だった。だから、死刑や終身刑を言い渡された受刑者のために、こんな絶海の孤島に監獄が建てられた。この監獄の周囲の海は一年中荒れているので、誰も近づくことができない。脱走も不可能だ。この島から脱走しようなんて根性のある奴がいるなんて、看守は誰も思っていない。定期的に食料を運び込んだり、たまに新しい囚人を送り込んで来るために軍艦が近くまでやってきて、そこからこの島までヘリコプターで空輸される。

 この監獄は面会謝絶で、入ったら終生外部の人間と接触することはできない。たとえ面会謝絶でなくても、ここの囚人に会いたいと思っている娑婆の人間は皆無であろう。監獄の職員たちは、衛星回線を使ってインターネットで外部と連絡を取っているが、囚人にインターネットを使う許可が下りることはない。

 この島の囚人は全員終身刑である。昔は死刑囚もいたが、何十年も前に死刑は憲法でいうところの基本的人権の侵害だということで、廃止された。囚人たちに仮出所はないし、これまで恩赦があったという話を聞いたこともない。だから囚人は全員この島で死ぬ。亡くなった囚人は、海に葬られ、そのことが本国に事務的に報告される。だが、葬るなんて言葉の響きはいいが、ただ岸壁から、二人の看守に手と足を持って、荒れ狂った海に放り投げられるだけだ。遺体はすぐに何十匹もの鮫に食いちぎられて、ほとんど何も残らない。普段はいないはずの鮫たちが、どうして察知したのかわからないが、その時だけこの島に現れる。

 Wは自分が死んだら鮫の餌になることを、心ひそかに楽しみにしている。自分の体が痩せ細っているとはいえ、鮫の空腹を少しでも満たすと思えるからだ。Wは、娑婆にいた時、他人の役に立ったという記憶がないので、たとえ相手が鮫だとしても、何かの役に立つのは嬉しいことだと思っていた。それに、実際はどうなるかわからないのだが、Wの勝手な空想では、鮫の鋭利な歯で自分の頭骨から背骨、腰骨、大腿骨までバリバリとかみ砕かれることになっている。このバリバリという音を想像するだけで、どこか爽快な気分になる。しかし、鮫の顎が人間の太い骨を粉砕する力があるかどうか、Wには知識がない。

 監獄は独房だけだ。コンクリートで囲われた狭い部屋には軋むベッドと何とも形容しがたい臭いの染みついた毛布、小さくてガタついた机、それに黄ばんだトイレがある。机の上には古びた聖書が乗っている。することもないWは、たまに聖書を手に取り、数頁捲って閉じる。かれはクリスチャンでもないし、聖書に救いを求めているわけでもない。ただの暇つぶしだ。

 朝昼晩と食事が決められた時間(多分そうだと思うが、囚人には時間感覚がない)に、この部屋の壁に拵えられた25センチ四方の小さな板の窓が開けられ、何の声もかけられずに、のそっと出される。食べ終わったら、窓を開けてのそっと返す。曲がりなりにも民主国家を標榜するこの国は基本的人権を尊重し、囚人にも三食がきちんと提供されている。

 看守とは、この独房に連れてこられた時以来、会ったことがない。病気になって苦しんだら、会えるのかもしれないが、Wはまだくたばりそうな病気に罹ったことがない。

 Wの入っている独房の前に狭い通路を挟んでもう一つ独房がある。この二つの独房が一つのユニットとなっている。Wの前にいる囚人とは、この何年間も話をしたことがない。大きな声を立てさえしなければ、囚人同士が会話をすることは、看守も見て見ぬふりをするようで、我々の前に看守が登場することはないし、スピーカーを通して注意されることもない。

 鉄格子の先にいる囚人は、いつもぶつぶつと独り言を言っているだけで、Wが話しかけても何の反応も返してこない。Wは別に孤独を気取っているわけではないので、目の前に人がいたら話をしてみたい。娑婆でWが話をしてこなかったのは、単純にかれの前に人がいなかったから話ができなかっただけだ。

 正面の囚人の声は、最初の頃はぶつぶつと呟く程度だったが、最近ではWの耳にも届くくらい大きな声になってきた。大きな声だが、何を言っているのか内容まではわからない。それらは意味をなすような文章にはなっていないようだったから、何一つ理解できない。それでもWは「おれ」とか「ごめん」とか「ばか」とか「おふくろ」とか、知っている単語には反応してかれに話しかけるのだが、その度に空振りになり、空しさだけが帰ってきた。

 深夜、正面の囚人が独房の壁をぶち破るような凄まじい声を上げ、Wは目が覚めた。あまりに尋常ではない叫び声なので、すぐに囚人が発狂したのがわかった。どこかで我々を監視しているのだろう、すぐに看守が二人入ってきて、抵抗して暴れる囚人の頭や腕や体を警棒で何度も殴り、首に当てたスタンガンでおとなしくさせ、独房から引きずり出して、どこかに連れて行った。看守は終始無言だった。あまりに一瞬の出来事だったので、看守の顔や体つきを覚えることはできなかった。囚人は、きっと海に突き落とされて鮫の餌になったのだろう。気が狂った奴や重病人は、生きたままで海に投げ捨てられる。

 もしかすると、男は発狂したふりをしたのかもしれない。そうすれば、海に葬られるからだ。かれは発狂したふりをすることで、死を選んだのかもしれない。孤独に耐えきれなくなったのか、それとも謝罪の気持ちが大きく膨らんだのか、理由はわからない。でも、看守にとって、発狂が嘘でも真でもどうでもいいことだった。この監獄では精神鑑定にかけるような回りくどいことはしない。たとえかれが狂ったふりをしたとしても、かれが死を願っていることは間違いないことだったからだ。死亡したか、死が間近に訪れているか、それとも死ぬことを望んでいるか、この種の人間以外、生きている人間を看守は決して殺したりはしない。殺人幇助はしても、殺人は犯さない。

 前の囚人がいなくなったので、Wの周りでは人の気配がまったくしなくなった。会話をしなくても、人の気配があるのとないのとではこんなに違うものか、とWは改めてそう思った。かれは膝を組んだり、歩いたり、寝転がったりと、落ち着きがなくなった。Wが引きこもりだった頃、部屋に誰がいなくても、かつて誰かが部屋にいた痕跡はあったし、安普請のアパートだったのでとなりの住人の気配も感じられた。それにテレビからひっきりなしに人間の声が聞こえてきた。そうしたことが、なくなったのだ。

 Wは監獄に入ってかれこれ20年が過ぎようとしていた。


            つづく

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