表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
老いた囚人の対話  作者: 美祢林太郎
2/16

1 Wという男

(この物語はすべて架空の話です。実在の人物や団体などとは一切関係がありません)


1 Wという男


 Wは社会の底辺で誰にも知られずに生きてきた。


 Wは生涯のほとんどを一部屋しかないアパートに引きこもっていたので、かれのことを記憶する者はほとんどいなかった。それでも、かれが42歳で殺人を犯した時は一週間くらい、殺人事件相応の露出度でマスコミに取り上げられはしたが、それ以上でもそれ以下でもなかった。今では、かれの殺人事件は誰からも忘れ去られてしまっている。

 事件当時、新聞記者がWの小中学校の同級生を捜して、かれらから聞き取り調査をしても、誰もかれのことを覚えていなかった。影の薄い人間とは、Wのような人間を指している。だが、Wでなくとも、中学校を卒業して四半世紀の間、同級生と一切顔を合わせずに何の連絡も取り合わなかった人間のうち、どれほどが同級生に覚えられているだろうか?

 それでも、Wが殺人事件を起こした頃は、申し訳程度にSNS上に同級生や近所に住んでいたと名乗る者の証言が載り、その情報を丸ごと引用した記事がいくつかの週刊誌に派手な見出しを付けて掲載された。それによると、かれは小学校の修学旅行で万引きをし、中学校ではサッカー部に所属して万年補欠だったこと、身の程知らずに学校一可愛い女の子に告白して失恋したこと、高校3年生の時に他校生数名にカツアゲされそうになったので所持していたナイフでその中の一人を刺したこと、等々だ。未来の殺人犯としてはあまりにしょぼい過去で、ナイフで刺したことで少しスパイスを効かせたつもりかもしれないが、残念ながらそれらはすべて嘘っぱちだ。Wはこれらのでっち上げを警察の取り調べで聴かれたが、とりたてて否定することもしなかった。だが、裁判の中では、残念ながら、こうした過去が取り上げられることはなかった。法廷にこの種の証人は一人も現れなかった。

 Wは小学生の頃は引きこもりではなかったが、金がなかったので修学旅行に行きたくても行くことはできなかった。中学校では、一年生の一学期にトータルで10日くらいしか学校に行かなかったので、クラブ活動に所属したことはない。サッカーが好きだった覚えはないし、テレビでサッカーの試合を観戦した記憶もない。サッカーボールに触った記憶さえない。小学生の頃、体育の授業でサッカーがあったのかもしれないが、誰からもボールをパスされたことはない・・・、はずだ。表だっていじめられていたわけではないが、必死でボールを追いかける同級生が、Wに気づかなかっただけなのだろう。かれはボールも追いかけず、運動場の片隅に気配なく立ちつくしていた。

 中学校に行かなかったのだから、当然女の子と接することもなく、失恋などしようにもできなかった。スポーツに恋愛、青春に付きものとされるこうしたある種の爽やかさは、引きこもりだったW少年にはまったく縁のないことだった。青春に関連するだろう断片を探そうとしても、どこにも見つけることはできない。それが巷で言われているように、甘酸っぱいものなのか苦いものなのか、味を確かめることさえできない。Wの手のひらには青春という果実はなかった。いったい誰が青春という言葉を発見したのだろう。こんな言葉があるから一部の若者は取り残されてしまう。

 中学一年生の時に10日しか登校していないのに、W少年は自動的に二年生になり三年生になった。毎年自分の知らないところでクラスに割り振られ、かたち通り席も最後尾の隅に設けられた。クラスの誰かが、「学校に来ない奴の席は無駄だから撤去しよう」と正論を言ったそうだが、クラスの誰もそれに対して反論しなかったらしい。それを言った奴は大学を卒業して、高級官僚になり、政治家になったらしい。

 ある朝、無人の机の上に、百円ショップで買ってきたチープな花瓶に、萎れかかったハルジオンが差してあった。担任が、気づいて黙ってそれを取り除いたが、誰がやったのか追求することはしなかった。誰も存在しない者のために波風を立てるのがいやなのだ。こういったことは、公判の際、弁護士やWの支援者から耳にしたのだが、Wは自分の知らないところで起こった昔話を聞いても何の感慨も起こらなかった。誰からも憐れんで欲しいとは思わなかったし、情状酌量を望んでもいなかった。

 中学の卒業式が近づいた頃、高校進学率100%を達成するために、担任が勝手にWの入学願書を書いて、どこかの高校に入学させられることになったらしい。Wを無理やり高校に進学させようとした張本人が、担任なのか、学年主任なのか、校長なのか、それとも教育長なのか、そんなことはWにはわからなかったし、そもそもそんなことはどうでもいいことだった。Wは願書が出された高校の存在も知らなかったし、実際、一回もその学校の門をくぐったことはない。高校の教師と会った記憶もないから、入学した記録がその高校に残っているのかも怪しい。そう言えば、Wは裁判の際、最終学歴が高校中退ではなく中卒になっていた。高校に一日も行っていないのだから、こちらの方が正確だ。曲りなりにも入学願書を出したことが明るみに出たら、その高校の在校生や卒業生に申し訳がない。それこそかれらにはとんだとばっちりというものだ。

 そもそも高校の授業料どころか入学金も払っているわけがないのだから、中学校の書類では高校に入学したことになっていたとしても、その高校の記録簿に入学した痕跡がまったくなくても何ら不思議ではない。さすがに高校が入学を許可するには入学金を払っていなくてはならないだろう。

 たとえ入学が許可されたとしても、高校は義務教育でないのだから、中学のように自動的に進級できるわけがない。だから三年生で傷害事件を起こすこともない。そもそもずっとアパートに引きこもっていたので、街中でワルと遭遇する機会はなかった。それにW自体は傷害事件を起こすようなワルではなかったし、非力で、突然訳もなくキレるような子供でもなかった。誰も覚えていない、存在感のない、ひたすらおとなしい子供だった。殺人以外は、法律に引っかかるような悪いことは何一つしたことはない。アパートの六畳間から出なければ法律を犯すことさえできない、そのはずだった。

 Wは六畳一間で生きてきて、生まれた頃から食べる物にも事欠いていたので、体は痩せて背も低くかった。運動することもなかったので、体力もない。子供の頃に体は形成されるようで、大人になっても体はひ弱なままだ。

 中学校の卒業アルバムに載ったWの写真が週刊誌に掲載されることもあったが、それも他人のものだった。かれは中学校の卒業アルバムには載っていない。もしかすると、Wは小学校の卒業アルバムから殺人事件を犯して警察で写真を撮られるまで、写真に写ったことがない。12歳から42歳の30年の間、写真が一枚もない。そう言えば、写真に撮られたことがないので、警察でどんな表情をしたらいいのか困った。薄っすら笑うと、もっと怖い顔をしろ、と警察官に叱られた。

 そう言えば、Wはこれまで履歴書というものを書いたことがない。履歴書がいるようなまともな就職活動をしたことがないから、顔写真も必要としなかった。

 Wのように過去の記録が薄っぺらい人間は、世間にありふれている。誰からも記憶されていない人間も社会には溢れるくらい存在している。そして自分の過去を振り返ろうとしても、そこには何のドラマもない、無味無臭、無色の日常しかない人間もいる。


              つづく

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ