15 水葬
15 水葬
看守が二人、独房に入ってきた。
「おい、本当に死んでるんだろうな」
「ピクリとも動かないから、死んでるんじゃないのか」
「一応、脈を見て見ろよ」
「脈を打っていないし、呼吸もしていなからない、間違いなく死んだんだ」
「このじいさんは、しばらく生きているのか死んでいるのかわからなかったからな。死んでいると思って体に触ると、体を動かすんだものな。何度驚いたことか」
「食事の時だけは起き出して、必ず食べてたものな。昨日の晩飯は食べたのか?」
「ああ」
「朝飯は」
「手を付けずに残してる」
「それじゃあ、晩飯を食べてから朝飯が出るまでに亡くなったんだな」
「そういうことになるな。死ぬのは朝飯前か」
「くだらん冗談を言うんじゃないよ」
「つい口から出てしまったんだ」
「このじいさん、結構な年なんだろう」
「随分老けて見えるけど、多分70歳くらいじゃないのか。はっきりしたことは記録を見ないとわからないけど、そのくらいのはずだ」
「何年くらいこの監獄にいるんだ」
「30年くらいにはなるんじゃないのかな。少なくともおれが25年前に着任した時には、すでにいたからな」
「そうか。こいつがこの監獄の最後の住人なんだよな」
「ああ、こいつが死んだから、この監獄もついに閉鎖だ」
「本土から離れていて、監獄の維持管理に金がかかり過ぎたからな」
「監視カメラが発達したし、受刑者にはみんなGPSのチップを埋め込むようになったんだから、脱獄なんてできないからな。こんな絶海の孤島に監獄がある意味なんて、もはやないのさ。もはや時代遅れってやつだ」
「そうだな。このじいさん、名誉の囚人ということになるな」
「どこに名誉があるんだよ。たまたまそうなっただけだろう」
「まあ、そうだけどよ。このじいさん、30年間ずっと独房住まいなんだろう。30年もよく気が狂わずに一人でいたよな」
「おれたちに話かけてくることも、一度もなかったしな」
「おれたちが話しかけても、何の返事もなかったじゃないか」
「本当に物静かな奴だったな」
「まあ、おれたちに迷惑をかけるわけでもなかったから、こちらとしては好都合だったけどな」
「こういう奴ばかりだと、看守の仕事も楽なんだけどな。囚人は自己顕示欲が強くて、甘ったればかりだからな」
「このじいさん、このところずっと小さな声でぶつぶつと独り言を言っていたけど、あれは頭がおかしくなった兆候だったのか」
「さあ、どうだったのかな。別におかしな行動をとっていたわけじゃないだろう」
「独り言を言う以外は、そうだな」
「でも、よくもまあ一日中一人でぶつぶつとしゃべり続けられたものだよな。やっぱり、孤独で頭がおかしくなったんじゃないのか。それとも元々変人だったのかな」
「殺人者に変人はないだろう。ただ極悪なだけだ」
「しかし、あのぶつぶつは誰かと2人で会話をしているように聞こえたよな」
「おまえもそう聞こえたか。あれは、どうみても一人二役で話をしていたな。二人の声色を器用に使い分けているように聞こえたものな」
「おまえもそう聞こえたか。おれは誰かもう一人独房の中にいるのかと思ったものだぜ」
「おまえもそうか。おれもそうだ。おれは独房の中にもう一人いるんじゃないかと思って、何度も覗き込んだぜ」
「おれなんか、独房の中に入って確かめたほどだぜ」
「結局誰もいなかったんだよな」
「夜なんか、幽霊とでも話しているんじゃないかと不気味に思ったこともあるぜ」
「おまえもか。おれ、背筋が寒くなることもあった」
「今思えば、一人二役だったんだよな。あれは一つの芸に達していたぜ」
「おまえ、こいつの話を聞きとれたか」
「小さな声でぶつぶつ言っているので、ほとんど何も聞き取れなかった。時々、「おふくろ」とか、「お母さん」って単語が聞き取れたけど、内容まではわからなかった」
「おまえもそう聞こえたか。おれも「おふくろさん」とか「お母さん」っていうのが、何度か聞こえたよ。こんな極悪犯でも、年をとったらおふくろのことを思い出すのかな」
「おまえ、おふくろのことを思い出すか?」
「全然思い出さねえよ。思い出そうにも、おれが物心ついた頃には、すでにおふくろは死んでいたからな。おふくろの思い出なんて何一つないや」
「おれのおふくろは今でも元気だけど、おふくろのことを考えるなんてまずないね]
「元気なら、たまにはおふくろさんに電話でもしてやれよ。おれはしたくてもできないんだから」
「そうだな。今度してみるか」
「こいつ、おふくろさんの夢でも見ていたのかな」
「ああ、生涯でこいつを愛したのはおふくろさんだけだったかもしれないからな。小さい頃は、ずいぶんおふくろさんに可愛がられてたんじゃないのか」
「まあ、そんなところか」
「女房はいなかったのかな」
「どうだろう。愛人ぐらいいたんじゃないかな。それなら、若い愛人の夢でも見た方がまだましだってものだけどな」
「そうだよな。どうせ夢を見るならおふくろよりは愛人の方がずっとましだな。それとも年を取ると色気は消えてなくなるのか」
「それじゃあ、淋しいな。おまえはまだ若い女が好きか」
「もちろんだろう。おまえは」
「そりゃあ、大好きさ」
「おれ、こいつから他に「大統領」とか「カルト教団」という言葉も聞き取れたけどな」
「ああ、おれもそれを聞いたことがある。こいつの口から吐かれる単語にしては異質だったから、不思議に思ったんだ。まさかこいつ、娑婆では大統領やカルト教団と何か因縁があったのか?」
「まさか」
「カルト教団はともかく大統領とは関係がないだろう。ない、ない、ない。絶対にない」
「どこかの政治結社にでも入っていたんじゃないのか。それとも、何代目かの大統領を熱烈に尊敬していたのかもしれないし」
「だけど、独り言の中で政治の話をしている風には見えなかったけどな」
「カルト教団にしても、宗教の話をしているようには見えなかったぜ」
「こいつ、どんな殺人事件を起こして、この監獄に送りこまれたんだっけ」
「さあ、おれは知らないよ。こいつの名前、憶えているか」
「覚えているわけないだろう。おまえは?」
「知らないよ。ここではE357という囚人番号しか必要ないからな」
「そうだよな。おれたち看守は娑婆でどんな罪を犯してきたのか、別に関心はないからな。監獄でおれたちに迷惑さえかけなければそれでいいんだからな」
「それにしても、こいつこんなに痩せているけど、三食きちんと食べていたよな」
「昨日の夕食も正座して、それは美味しそうに食べていたぜ」
「ああ、粗末な監獄食をいつもあんなに美味しそうに食べられる奴は、他には誰もいなかったよ。食べることが幸せそのものに見えたものな」
「娑婆ではよっぽど不味いものばかり食べていたんだな。それとも娑婆にいた時は食べる物に窮していたのかな」
「まあ、そんなところかもしれないな」
「お椀の内側にこびりついたポタージュを、指を使ってきれいに食べていたっけな」
「こいつ、床に落ちたパン屑まで指先を舐めて、器用にくっつけて食べていたぜ」
「そうそう。おれはそのいじらしい仕草が麦粒を啄むスズメに見えたものだ。あまりに一生懸命だったから、口に出してからかったりはしなかったけどな」
「こいつが食べた後は、食器やスプーン、ナイフが洗剤を使って洗った後のようにきれいだったものな」
「母親のしつけが良かったのか、悪かったのか、どちらかわからないけどな」
「殺人犯に、親のしつけがよかったわけがないだろう。そもそもどこの親が食べた後の食器を舐めろ、と教えるんだ」
「それもそうだな」
「それにしても、こいつは頭の中で誰と話をしていたんだろう」
「悪党仲間か」
「それにしては、二つの声はどちらも乱暴じゃなかったぞ。声を荒げることもなかった」
「それじゃあ、友だちか」
「悪党仲間以外に、まともな友だちがいたと思うか?」
「そりゃあ、いないな。すると悪党になる前の幼馴染か?」
「70になって、幼馴染の夢を見るか?」
「懐かしくなって、見るかもしれないだろう。子供の頃は、こいつだって普通の善人だったんだろうし、友だちの一人や二人はいたはずだ」
「本当にそうか? 子供がみんな善人だってわけがないだろう。生まれ持って性根の腐っている奴はいるからな。なんてったって、こいつは殺人者なんだぞ」
「おっと、口が滑ってしまった。確かにそんなわけがないな。子供の時だって、意地の悪い奴はいたな。殺人犯のこいつのことだから、子供の頃から相当な悪餓鬼だったんだろうな」
「そんなところだろうよ」
「それにしては、不思議なことに死に顔が安らかなんだよな。結構な善人面をしているじゃないか」
「そうだな。年を取れば、殺人者も善人面になるのか?」
「そんなことはないだろう。おまえもここでたくさんの囚人の死に顔を見てきただろうが、やっぱり死んでも性悪な顔がこびりついて剥がれていなかったぜ」
「そうだな。因果応報とはいえ、おれたちはあんな酷い顔で死にたかないよな」
「そうだな。そりゃあ、おれたちもそんなに良いことをして生きてきたわけじゃあないけど、殺人までは犯していないからな」
「おれたちは、はないだろう。おまえのことはいざ知らず、おれは何も法律に触れるような悪い事はしてこなかったからな」
「おれだってそうさ。まあ、人並に生きてきたんだ。死ぬときは安らかに眠りたいよな」
「本当にこいつの顔は安らかだな。殺人者の死に顔には見えない。こいつ死ぬ瞬間に回心でもして、神様に罪が許されたのかな?」
「こいつが十字を切っているのを、これまで見たことがあるか?」
「いや、ない」
「机の上の聖書を読んでいたか」
「いや、それもない」
「まさかおまえは、こいつが毎日対話していたのが神様だって言うんじゃないだろうな」
「そんなことは万が一にもありえないだろう」
「そうだろう」
「こいつ、食事を食べて満足して、こんな顔になったんじゃないのかな」
「そうだな。こいつがこんな良い表情をしているのは、食事を食べたからなんだ。食い物に感謝することは、大切なことなのかもしれないな」
「おれたちも、食べ物にもっと感謝しなければいけないかもな。どうせ死ぬなら、こんな顔で死にたいものな」
「そうだな。殺人犯でさえこんな顔で死ねるんだから、おれたちはもっと良い顔で死にたいよな」
「最後の食事のメニューも考えておこうぜ。おまえ最後の晩餐は何が食べたい」
「えっと、すぐには思いつかないな」
「おれは、やっぱり厚切りステーキかな。じゅわっと肉汁がしみ出してくるような奴だ」
「死ぬ前にか? 死ぬ前はステーキじゃないだろう」
「そうか、そうかもしれないな。それならおれも他の物を考えるとしよう。ところで、このじいさんの最後の晩餐は何だったんだ」
「ええと・・・。確か、ベーグルと、コロッケとミソスープだ」
「粗末だな。おれが死ぬ時は、いくら何でももう少し豪勢なものが食べたいな」
「おい、そろそろ運び出すか」
「そうだな」
「おれたちの長話は、こいつの良いはなむけになったことだろうぜ」
「そうだな。これまで監獄の死人の前でこんなに思い出話をしたことはなかったからな」
「よいしょっと。ここの飯だけ食べてたからか、軽いな」
「毎食全部平らげていたわりには、軽いよな。あんな粗食じゃあ誰も太れないか」
「そう言えばおれ、ずっと昔に、こいつにポテトチップスを差し入れしたことがあるんだ」
「そうか。そりゃあ、良いことしたな。こいつも喜んだことだろう。ここは食事以外に何も口にするものが出ないものな。おやつが出たことはないしな。差し入れも禁止だし」
「それが、こいつポテトチップスを一枚も食べなかったんだ」
「えっ、ポテトチップスの嫌いな奴なんてこの世にいるのか?」
「おまえもいないと思うだろう。おれは毒が入ってないから食べてみろって、一枚取って食べて見せたんだが、こいつはポテトチップスから目を背けやがった」
「ポテトチップスが嫌いなのかな? そんなわけないよな。何か嫌な思い出でもあるのか。たとえば、子供の頃ポテトチップスを喉に詰まらせて死にそうになったとか」
「こいつ、おれたちと何も口を利かなかっただろう。だから、理由はわからなかった。おれはしかたがないから、開けたポテトチップスの袋を詰所に持って帰ったよ」
「折角いいことをしたのにな」
「おい、弔い場所の断崖絶壁の上に着いたぞ。今日は見渡す限り雲一つない良い天気だ。葬式日和じゃあねえか」
「そうだな。別にこいつの日頃の行いが良かったわけじゃないだろうけどな」
「そろそろ、海に投げるか。いつものようにおまえが両腕を持って、おれが両足を持つでいいよな」
「ああ、いいけど、ちょっと待て。その前に儀式があっただろう」
「そうだ、そうだ。久しぶりだから忘れてた」
「海に撒き餌を撒いて、鮫をおびき寄せないといけない。しばらく死人が出なかったもんだから、鮫も近くにはいないかもしれないな」
「たくさん撒いてやろうぜ。こいつもでかい鮫に一口で食べられた方が気分がいいだろうからな」
「おっ、小魚がよってきた。それを狙って海鳥もきたぜ。ずいぶん賑やかになってきたな。もっと撒こうぜ。景気よく行こうぜ。餌を残してもしょうがないからな」
「ほらよっと」
「このまま少し待つか」
「そうだな」
「おっ、鮫たちのお出ましだ」
「結構な数がいるな。でも、小さいサイズの奴ばかりだな」
「あっ、でかい鮫がやってきたよ」
「どでかい鮫だな」
「ありゃあ、人喰い鮫のホホジロザメじゃないか。全長10メートルはあるんじゃないか」
「今日はガラガラに痩せたじいさんですまないが、残らず食べてやってくれよ」
「あいつに食べられるなら、こいつも本望だ」
「いくぞ」
「そらよっと」
完




