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老いた囚人の対話  作者: 美祢林太郎
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13 バスケットボールのパス

13 バスケットボールのパス


「それで、中学校には行ったのですか?」

「中学校は入学して少し通ったけど、給食がないことがわかったら、すぐに行かなくなった。いわゆる不登校という奴だな。おふくろは学校に行けとも言わなかった。所詮おれには無関心だったからな。おれみたいな奴は、小学校で不登校になってもおかしくなかったのに、給食があったという、ただそれだけの理由で通っていた。給食があるだけで、いじめにあってもへっちゃらだったしな。食べることは大事だよな。おまえもわかるだろう」

「そうですね、お金がなくて食べる物がなくなったら、絶望的になりましたものね。孤独とか何とかいいますが、食べるものがないことほど、悲惨なことはありませんでした」

「そうだ。絶対にそうだ。人間はまず食べることだ。食べることさえできれば、なんとかなるもんだ」

「給食が出なくて、どうしたんですか?」

「入学した当初は、給食の時間はトイレに入って、便座に座って給食の時間の終わりを報せるチャイムの音をずっと待っていた。同級生や先生もおれが弁当を持って来ていないのはわかっていた。だけど、誰もどうすることもできなかったからな。おれも中学生になると、米を買って鍋で炊くことをおぼえた。小学校の家庭科の授業か、それともテレビを観て覚えたのか、そこのところはわからないんだけどな。少なくとも、おふくろには教わっていないのは確かだ。自分でご飯を炊けるようになったんだけど、弁当に詰めるおかずが作れなかったんだ。今考えたら、卵焼きとウインナー、そこにレタスとミニトマトを添えれば十分だったんだけど、そんなこと全然頭に浮かばなかったな。少し頭を使えば、生きるのが楽になったかもしれないけど、頭を使うことを教えてくれる奴が周りに誰もいなかった。それを教えるのが母親の務めだろう。おふくろは何していたんだろうな。ただ遊んでいただけだ。いい年こいてね。厚化粧してさ。子供を放ったらかしにして、あれほど遊べるというのは、却って凄いことかもしれない、と最近になったら思うようになったけどな。おふくろはおふくろなりに良い人生を送ったのかもしれない。おれなんて、外で遊び回ろうなんて考えたこともないし、大人になってからもなかったな。まあ、いつ頃大人になったのかも、わからないけどよ。いまでも子供のままかもしれないし。70で子供はないか。言い過ぎた」

「それじゃあ、あなたは黙ってても食事が出てくるこの監獄に満足しているんですね」

「ああ、満足しているね。不満はないぜ。毎日、食事が提供されるのは有り難いことじゃないか。小学校の時の給食以来だ。少し我がままを言わせてもらえれば、あとはここにテレビがあれば何の文句もないな」

「ここの貧相な食事で満足しているのですか。さっき食べたものは、干からびて堅くなった小さな鯵の干物が一つに、ホウレンソウのおひたしとたくあん2切れ、それに冷えたパサパサのライス、それにほとんど具の入っていない薄い味噌スープですよ。これに満足しているのですか」

「十分じゃないか。それに毎日同じじゃないぜ。曲がりなりにも、いくら質素でも、毎日違った料理が出てくるじゃないか。おまえはこの食事の何が不満なんだ」

「たまには、ジュージューと音を立てる3センチくらいの厚さのビーフステーキが食べたいと思わないのですか。クラムチャウダーもいいですね。鯛の刺身も食べたいし、ウニの寿司もいいですね。デザートには、トロっととろけるようなピーチも食べてみたいですよ」

「何のことを言っているのかさっぱりわからないな。体験したことがあるものでないと、思い出すことはできないぜ。おまえは、おれと同じように貧乏で食べるものにも事欠いていたと言っていたが、本当はおまえ娑婆でいい目を見てきたんじゃないのか」

「いや、あなたが食べ物の話を持ち出すからでしょう。ぼくだってあなたと同じように貧乏だったんだから、たいしたものは食べていませんよ」

「それでもやっぱり、おれとは違うな。おまえの家には、金持ちのじいさんやおじさんがいたんだよな。たまには、その人たちがおまえたち母子を高級なレストランやスシバーに連れて行ってくれたんだろう」

「ほんのたまにですよ」

「おれには手を差し伸べてくれるような親戚や知り合いは一人もいなかったよ。でも、不満はないけどな。おかげさまで、ここの監獄の料理で満足できるんだからな。30年も満足できているし、これからも満足できるんだ」

「足ることを知っている人間は、却って幸せなのかもしれませんね」

「足ることを知っているって何なんだ。おれにはわからない」

「あなたは足ることを知っているわけではなくて、世間の事を知らないだけなんですね。こういう状況下におかれると、世情を知らないってことは、却って幸せなのかもしれませんね」

「おれのことを無知だって言いたいんだろう。無知で悪かったな」

「いや、無知を責めているわけじゃありませんよ。そもそも料理なんて知識ではなく、体験なのですから。知識として持っていても何の意味もありませんからね。ぼくが思い出すのは、脳ではなく鼻であり、舌であり、喉であり、胃なのですから。とにかく、ぼくの言い方がまずかったのです。謝ります。話を進めましょう。あなたは家に引きこもるようになって、中学校には一日も行かなくなったのですか?」

「いや、学校を休むようになって、学校の先生が最初にアパートに来てくれた日は、午後から学校に行った。そうしたら、授業は体育だった」

「また、ボロボロの下着を着ていたのですか」

「そうだけど、おれは体操着を持っていなかったから、普段着で体育をしたんだ」

「見学したんじゃないのですか」

「いや、おれも体育の授業に参加したんだ。その時間は体育館でバスケットボールをする時間だった」

「あなたはバスケをしたのですか」

「ああ、したさ。ただ、ボーっと立ってゴールの下にいただけなんだけどな。すると、何気なくボールを持った奴と目が合ったんだ。するとそいつがおれにニコッとほほ笑んで、おれにパスを寄越して、そして力強く「シュート」と叫んだんだ。おれはその声に誘われるように、ゴールに向かってボールを投げたんだ」

「それでボールはゴールに入ったのですか?」

「そんなにうまくいくわけないじゃないか。へなへなボールは全然ゴールに届かなかったよ」

「そりゃあ、残念でしたね」

「そんなものだろう。おれは痩せ細っていて、力もなかったからな。テレビドラマのようにかっこよくはいかないぜ。でも、なぜかあの時のことは鮮明に覚えている。同級生全員が、おれがボールを投げるのをじっと見ていたからな。スローモーションを見るように覚えているんだ」

「へえ、そうなのですか」

「そりゃあ、おまえは自分がシュートした毎回のことは忘れているだろう。なにせ部活で何千回も何万回もシュートしたことがあるんだろうからな。おれはあの時の一回こっきりだ」

「もしかして、あなたはぼくが中学生の頃、バスケットボール部に所属していたことをご存じなのですか」

「おまえはバスケットボール部でレギュラーでエースだったな」

「ああ、そんなこともありました。スポーツで汗を流していれば、家の不幸を忘れられましたからね。あなたはシュートできなかったことが、今でも悔しかったので覚えているのですか」

「いや、そうじゃない。そんなことより、おれにボールをパスを出してくれた奴のことが嬉しくて、今でも鮮烈に覚えているんだ」

「良いポジションにいたから、偶然パスされたのですよ」

「そうなのかな。それだけだったのかな」

「きっとそうですよ。他に何があるというのです。偶然かも知れないけど、あなたは良いポジション取りをしていたのですよ」

「そうだとしても、見るからにひ弱なおれがゴールできるなんて誰も思ってはいなかったはずだぜ。おれにパスをくれた奴が直接シュートすればよかったんだ。間違いなくゴールできたはずだ」

「まさか、あなたにパスした男の子は、あなたに恥をかかすためだった、と言うんじゃないでしょうね」

「そんなことはないさ。あの微笑は、今思い出しても一点の曇りもなかったからな。あの時パスしてくれたのは、おまえだ」

「ぼくがあなたにボールをパスした? あなたにほほ笑んだ? まさか、あなたはぼくの中学校の同級生だったのですか? 本当ですか?」

「中学校は数日行っただけだから、おまえが覚えていなくても無理はないさ。パスのことなんて、おまえは色々な奴に数知れない程パスを出したんだろうから、一回パスを出した奴のことを覚えていなくても当然だ。だけど、生涯に一回パスをもらった人間は、パスをくれた奴のことを生涯忘れないものさ」

「あなたは、ぼくの中学校の同級生だったのですか」

「中学校だけでなく、小学校も同じだった。おれみたいな存在感のない子供のことを覚えていないのは当然だ。だけど、おれはおまえのことをよく覚えているぜ。おまえもおとなしかったけど、どこか育ちの良さを感じさせる言葉遣いや立ち居振る舞い、それにクラスで一番賢かったし、スポーツもできた。それなのに出しゃばったところが一つもなかった。おまえのことは、クラスの誰もが一生覚えているんだ。そんなスーパースターのようなおまえが、存在感のないおれにパスしてくれた時の驚きと喜びがどれほどのものだったか、おまえにわかるか? わかるわけないよな。おれのことを歯牙にもかけていなかったものな」

「あなたの名前は・・・」

「Wだよ。いくら頭の良いおまえでも、名前を聞いても思い出すはずがない」

「W、W、Wだよね。ぼくにはずっと気になっている男の子がいたんだ。いつの頃かわからないけれど、ぼくの前からフェードアウトするように消えて行ってしまった少年がいたんだ。それがあなただったんだ」

「うまいこと言ってら。おまえがおれのことを気にかけていた? そんなバカな話があるわけないだろう。他の誰かだろう」

「いや、あなただ。間違いない。ぼくの前から消えて行った少年は他にはいないんだ」

「おれのことをどうして気になっていたんだ」

「だって、あなたの家は貧しかったでしょう。ぼくの家と同じ境遇だと思って、ずっと気になっていたのです。まるで、同志のように思っていたのかもしれません」

「それならどうしておまえはおれに声をかけてくれなかったんだ。一回も声をかけてくれたことがないだろう」

「声をかける勇気があったと思いますか? 子供ですよ。ぼくは家庭が貧しいところを外には全然出していませんでした。貧乏であることを知られるのが怖かったのです。当時は母が教団に献金をしていたので家には金がなくて、何も食べる物がなかった日だってあったのです。おそらくクラスのみんなは黙っていたけど、クラスの中にはぼくたちと同じように生活に困窮している子供が、何人もいたと思いますよ」

「そうか、それならどうしてそいつらは名乗りを上げてくれなかったんだ」

「子供は辛いんです」

「そんなクラスから、奇しくも貧乏由来の殺人者を二人も出してしまったのか」

「そうですね。二人も殺人者を出したのですね。同級生はショックだったでしょうね」

「いや、おまえのことは覚えていても、おれのことは誰も覚えていない。おれは勘定に入れられていないんだ」

「だけど、ぼくのようにあなたを心の支えにしていた人間も少なからずはいたはずですから。そいつらはみんなあなたのことを覚えているはずです」

「そんな人間がいたっていう程度にな。名前なんか憶えていないけどな。いや、僻んでいるわけじゃない。でも、同じ貧乏人でも遠巻きに温かい目で見てたおまえのような奴ばかりでなく、ほとんどの連中はおれをスケープゴートに使っていただけなのさ」

「たとえそうだとしても、人間は弱いものじゃないですか。今さらかれらのことを非難してもしょうがないじゃないですか。許してやりましょうよ」

「非難してやいないよ。事実を言ったまでだ。だけど、かれらはおまえやおれのように殺人を犯さずにのうのうと平和に生きている。あいつらは絶対におれたちより偉いよな」

「そうですね。かれらは偉いですね。ぼくはもう一度生まれ変わっても、誰かを恨んで殺しを働くかもしれない。かれらはぼくのように誰も恨んだりしなかったのでしょうか?」

「憎んだり恨みを持たないような人間はどこにもいないんじゃないのか。でも、それが殺人に向かうのはどこか違うんだ。殺人者がこんなことを言っても信憑性がないけどな」

「殺人者はどこかが違う・・・。いえ、どこも違いませんよ。かれらだって、もう一度生まれ変われば、殺人を犯すかもしれない」

「さあ、どうだろう」


     つづく

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