11 母、母、母、
11 母、母、母、
「こうなるとおまえのおふくろの生い立ちまで遡らないと、おまえのおふくろがカルト教団に入信した心の底はわからないというものだ。おまえのおふくろのような奴がいるから、世の中からカルト教団はなくならないんだ。おまえのおふくろがカルト教団に入信して、多額の献金をして一家が不幸になったのは、おまえの家の特殊事情じゃないってことだ。世の中にはそれなりにありふれた出来事だってことだ。たとえば、パチンコ狂いやブランド物を買い漁る女や、若い男に貢ぐ女なんてそこら中にいるだろう。そんな女は程度の差はあれ、みんな育児放棄をするんだよ。真夏のカンカン照りの時に、パチンコ狂いの母親に車の中に放置されて殺されなかっただけでも、おまえたちは有り難いと思わなけりゃあな。まあ、上を見ても下を見てもきりがないけどさ」
「そうですね。少しわかるようになりました。ぼくたち兄弟は母から殺されなかったから不幸だったんです。母がひとおもいにぼくたちを殺してくれればよかったのです。一番良かったのは、無理心中をしてくれさえすれば、ぼくたち一家の不幸は解決したのです」
「そうら、おまえの短絡思考が頭をもたげてきた。死によってすべてを清算しようとする悪い癖が」
「確かに、ぼくは自殺未遂をしたし、人殺しもした。だけど、死ぬこと以外に絶望から抜け出す手段はあるのですか。あったら教えてください。ぼくに救いの道はあったのですか?」
「おまえのおふくろは絶望しても決して死を選ばなかった。実際今でも死んでいないものな。彼女なりに必死に祈ってきたんだ。おまえたち子供を不幸のどん底に落とした代償に、彼女は祈り続けて生きてきたんだ。壮絶だと思わないか?」
「それは、それは、教団に騙されていたからなんです」
「彼女だってそんなことくらいわかっていたさ。それでも、必死に救われようとして、騙されているかもしれないと言う疑念を、必死で振りほどいていたのさ。おまえたち子供への愛も断ち切ろうとしていたんだろうよ。彼女には彼女の苦しみがあったのは間違いない。カルト教団に入信して、彼女は母であることを捨て、一人の人間になったんだ。おまえは魂を抜かれたと言ったけど、おまえたちが言うその魂はおまえたちに都合の良い魂だったんだ。おまえたちが慕う母の実像は、都合よくはできていなかったんだ。そのことをおまえは認めようとしなかった。おまえは自分たちを不幸に追いやる悪人として母親をとらえていたが、それはそうすることで自分に都合の良い母性の残像を守りたかっただけなのだ」
「母性の残像?」
「おまえが勝手に信じ込んでいた架空の姿だよ。本当の姿なんてそこにはないことくらいわかっていただろう」
「母は、母は、温かい家には、慈愛に満ちた母がいたのです」
「どうしておふくろさんを家から追放しなかったんだ。追放すればおまえたち子供には何の被害もなかったはずだ。被害さえなければ、おまえは教団とも関わりを持たずにすんだし、元大統領を殺すこともなかった」
「追放なんかできるわけがないでしょう。母を路頭に迷わすことなんて、できるわけがないじゃありませんか」
「おまえはおふくろに自分の方を振り向いて欲しかったんだ。おまえが自殺未遂を図った時、親戚の者が母親を呼んだのに、母親は韓国の総本山に修行に行ったきり、おまえに会いに戻ってこようとすらしなかった。その時、おまえは母親に捨てられたと確信したんだ。おまえがどれほど振り向いて欲しくても、おまえの方を振り向かなかった」
「いや、あの時は、母のことなんて何も考えていませんでした」
「おまえが生まれた時から、母親の愛情はおまえの障碍者の兄貴の方に向けられていた。だけどな、おふくろさんはおまえを十分に愛していたよ。親戚の連中もみんなおまえはおふくろさんに愛されていたと言っていた。だけど、おまえは愛情に対する欲が深く、それ故、自分への愛を疑ったんだ。子供はみんなそういうものかもしれないが、おまえは母親の愛を独占したかった。しかし、おまえは外面が良すぎたんだ。おまえはおとなしく耐え忍ぶことができる賢い子だと母は思ったんだ。おまえも子供心にそう演じることが母親を喜ばすことだと知っていた。おまえは良い子だったかもしれないが、素直な子じゃなかったんだ。屈折していたんだよ」
「兄貴は障碍者ですよ。母がそんな兄貴の世話にかかりっきりになるのは当然じゃありませんか。そんな母に対して、ぼくのことにもっと注意を払ってくれ、なんて言えるわけがないじゃありませんか」
「おまえ、寂しかったんだろう。本当はおふくろさんの愛を独占したかったんだろう。だけど、おやじさんが自殺をし、残された会社の慣れない経営で、おふくろさんはどんどん憔悴していったんだ。おまえだってそのくらいのこと、よくわかっていたんじゃないのか。いくら経済的に豊かであっても、おふくろさんの孤独は癒せなかったんだ。連続して起こる不幸は、次に何が起こるのだろうと、おふくろさんは不安に怯えていた。怪しい教団に入信したくなるのも無理がないことだ。怪しければ怪しいほど、教団から課されたワークが過剰であれば過剰であるほど、献金を急き立てられれば急き立てられるほど、気は紛れて、日々の精神は安定していったんだ。それがおふくろさんの中で神への信心と混同されていったんだろう」
「ぼくに母のありのままの姿を認めろ、と言っているのですか。ぼくは母を愛しているだけなんです」
「そうだ。おまえはおふくろさんを愛していたからこそ、おふくろさんを殺せなかった。それよりも何よりも、最後には、おふくろさんが神を捨てて、自分だけに愛を向けさせようと、一か八かの勝負に出たんだ。そして、殺人を犯すことで、永遠に母親の頭の中に自分のことを、記憶に留めてもらいたかったんだ」
「それでも尚且つ、あなたはぼくが母を殺せばよかったと言いたいのですか?」
「いや、そんなことは言っていない。おまえがおふくろさんを殺そうが、元大統領を殺そうが、おれの知ったことじゃない。おれが知りたいのはあくまでおまえがおふくろさんを殺さなかった理由だ。おまえだって、おふくろさんを殺そうと何度も思ったんだろう」
「いや、そんなことはありません」
「嘘をつけ。以前告白したことを忘れたのか」
「口から出まかせです」
「体が震えているぜ。そうなんだ。おまえは自分が母親を殺そうと頭に閃いたことを、瞬時に否定し続けてきたんだ。おまえの中で絶対行っていけない犯罪が、母殺しだったんだ。だから、おまえは元大統領殺しという遠回りをしてしまった。元大統領を殺したことで、社会は震撼とし大騒動となったが、おまえの周りは何も変わっていない。おふくろさんだって何も変わったところがない。おふくろさんの愛情はおまえに向かわなかったんだ。このおふくろさんの変化のなさが、おまえの屈辱なんだ。元大統領を殺した後で、おまえは母親に自殺をしてもらいたかったんだろう。おまえの罪の深さと世間を騒がせたことを、普通の母親のように、懺悔して欲しかったのだろう。それによって、おまえは母親の愛情を独占できると考えたんだろう。しかし、彼女がした事は、教団から指示された通り、一遍の謝罪文を出すことで終わった。おまえはそれを見ることができたのか?」
「見てはいません」
「きっと見るのが怖かったんだ。そこにはおまえに対する愛情の一かけらも感じられなかったからな」
「・・・」
「おまえのおふくろは、留置場に一回も接見に来なかっただろう。おまえの片思いに過ぎなかったんだよ。おまえを生んだからって、おまえを愛し続けなければならない理由なんてどこにもないんだからな。母性愛という言葉に頼るのは、よした方がいいぜ」
「母性愛ですか・・・。70になる男が聞く言葉じゃないですね」
「裁判では、毎回傍聴席におふくろさんが来ていたな。おまえまさか勘違いしていたんじゃないだろうな。あれも教団からの指図だぜ。教団のイメージアップを狙っていただけなんだ。おふくろさんはそれに利用されただけなんだ」
「法廷で、ぼくは母と一度も目線を合わせませんでした」
「おまえのおふくろさん、いったい何を考えていたんだろうね。おとなしくて、自分の意見を何も口に出さないから、何もわからない。孤独なのはわかるよ。もしかすると、もう人間を止めているのかも知れない。でも、普通の頭があったら自分の財産を全部教団に貢ぐことはないよな。バカの一言ですますわけにはいかないぞ。孤独だけで、不安だけで、自分の行為を正当化できるなんて思ってはいけないんだ」
「いや、あの頃ぼくが人並みに幸せだったら、恨みが起こることはなかったはずです」
「人並みか。おまえ高望みだよな。おまえが思い描く人並みな生活が出来ている奴は、世の中そんなにいないと思うぞ。程度の差はあっても、大方の奴は貧乏や病気や事故、人間関係に苦しんでいるんだ。それでも誰も恨んだりはしないし、ましてやおまえのように人を殺すことはないんだ」
「激しい憎悪を抱くほど、強烈な被害体験がなかったからですよ。ぼくは苦しんでいる人たちを含めて人並みの幸せと言っているんです」
「確かに、憎しみを抱くのも個人差があるからな。鈍感な奴もいれば、被害妄想の奴もいる」
「ぼくを被害妄想の人間だと言うならば、それはそれでいいです。別にどのような分類に入れられても構いません。あくまで憎しみは個人的なものです。少なくとも私は自分の犯した罪を自分で引き受けているじゃあありませんか」
「そりゃあ、そうだろう。間違いなくおまえが犯した罪だからな。他の奴に背負わせるわけにはいかないし、社会のせいにもできない。
社会は社会が考えろ。社会は誠実に考えるんだ。無関心のうちに、弱者を不幸にしてきたことをな。
だけど、考えてみろよ、自分が不幸になった時、不幸に陥れた元凶を言い当てるのは難しいものだぜ。おまえを不幸にさせた直接の当事者は、どう見てもおまえのおふくろだ。それをおまえは否定したかった。そりゃあ、何て言ってもおふくろだからな。眼をそらして憎みたくないのはわかる気もするぜ。だけど、おまえが誰か一人を殺すとしたら、おふくろだったはずだ。そうすれば、おまえはすべての因果を断ち切れたはずだ。そうだろう。まずは手元から始めよだ」
「母も被害者なんだ。あのカルト教団さえなければ、母だってまともでいられたんだ」
「本当におまえはそう思っているのか。思っちゃあいないだろう。おまえのおふくろはあのカルト教団がなくても、他のもっと過激なカルト教団に入信した可能性が高いはずだ。いや、きっと入信した。そもそも、あのカルト教団に入信する前におまえのおふくろさんは別の新興宗教に入っていたじゃないか。脱会したのは、あんな毒の薄い教団では満足できなかったんだ。ましてや、春の日に縁側で寝転がるような穏やかな伝統宗教に入信することは決してしなかった。おまえのおふくろは過激にのめり込むものが必要だったんだ。おまえのおふくろをカルト教団に誘った奴がいるかもしれないが、おふくろさんは大きな口を開けてその誘いを待っていただけなのさ。それがたまたまあのカルト教団だったんだ」
「ぼくの母だって、兄の病気や父の死で精神がおかしくなっていたんです。もし、母を幾重にも不幸が取り巻かなければ、決して宗教に頼ったりはしなかったはずです」
「たしかにおまえのおふくろの周りには不幸が次々に襲ってきた。しかし、亭主に自殺された女なんて世の中にごちゃまんといるぜ。おまえのおふくろはそれでもまだましだったじゃないか。亭主は高額の保険金をかけて死んで、それを手に入れることができたじゃないか。それにおまえたち一家は資産家のじいさんに面倒を見てもらって、じいさんが生きている間は経済的に何不自由なかったはずだ。それなのに、おまえのおふくろはじいさんから譲り受けた資産をすべてカルト教団に献金して、自分で不幸を雪だるま式に膨らませてしまった。誰がどうみても憎むべきは馬鹿なおふくろだろう」
「あなたはなおも母を殺せと言うのですか? 母を殺せばぼくたち一家は幸せになったというのですか? ぼくが母を殺していれば、ぼくは幸せになれたと言うのですか?」
「おまえがおふくろさんを殺して、それで幸せになれたとは言わないぜ。何が幸せかなんて誰にもわからないからな。もしおまえがおふくろを殺していたなら、おまえの精神は錯乱していたかもしれないしな。だけど、おまえは、密かにそして今でも、自分がどうして母親を殺さなかったのだろうか、と毎日欝々と自問していることを、おれはわかっているんだ。おれがおまえに投げかけている疑問は、おまえ自身が発してきた問いなんだ」
「わかった風な口を叩かないでください」
「おまえが母親を殺さなかった理由がわからない。おまえの話をいくら聞いても、おふくろさんの周囲をぐるぐる回っているようで、おふくろさんに到達することができない。本当は、おまえは一瞬たりともおふくろさんを殺そうと思ったことがなかったんじゃないのか?」
「母がいなくなればいいと思ったことは何度もあります。これは嘘ではありません。でも、母がいなくなれば、ぼくのこれまでの過去がすべて否定されて、ぼく自身が消えてしまうように思えたのかもしれません」
「おまえは母の死によって、おまえの再生を図ることができなかったのか」
「言われてみると、母の存在が大きすぎて、母なしの人生なんて考えられませんでした」
「母の存在が巨大になったんだな」
「母を殺さなかったのは、理由がなかったのではなく、ただ決断ができなかっただけなのでしょう」
「母を殺す決断か・・・。そんなのできるわけないじゃないか」
つづく




