呪いの本
「読むと、本が読者に話しかけてくるのよ」
そう言って彼女に渡された『呪いの本』は、一見何の変哲も無い、古本屋で100円で売られていそうな、少し古びた感じの文庫本だった。
タイトルは『異世界への扉』。
作者は知らない人だった。
特に惹かれるタイトルでもなかったが、有名な本ばかり読んでいると何だか『読書好きって思われたいがために読書している』浅い奴だと思われそうだし、誰も知らない本をこっそり読んで「お前の知らないことをこっちは知っているぞ」と密かに悦に入るのが趣味である卑屈な僕には、ぴったりの本だった。
それにしても、『呪いの本』……。
本が読者に話しかけてくる、とは、どういうことなんだろうか?
まさか本に口がついていて、話しかけてくる訳でもあるまい。正直期待はしていなかったが、何かが起こってくれたら面白い……そんな気分だった。
バイト帰り、家に辿り着くとすでに0時を回っていた。明日も朝は早かったが、部屋の中は蒸し暑く、寝付けそうもなかったので早速『呪い』に取り掛かることにした。
舞台は中世のヨーロッパ。
よく分からないが、主人公は現代日本から転生してきたらしい。魔法の力を手に入れて、未知なる世界を冒険する……という内容だった。どこかで見たような話だ。特に斬新な設定という訳でもなく、これでは悦に入れない……と、内心がっかりしながら僕はその本を読み進めた。
「これじゃ悦に入れない……」
『ん? 今何つった?』
「え?」
『どうしたの?』
『何か声が聞こえた気がしたんだよ……』
すると不思議なことが起こった。僕が思わず呟いた声に共鳴するように、本の内容が続いてしまったのだ。さらに、
「まさか……」
『うわぁ!? また声がした!』
『本当だ! 何処から……?』
「こっちの声が聞こえているのか?」
『ほら!』
『ぎゃあぁ!? おばけだぁ!』
頁をめくると、まるで僕の声が聞こえているかのように、登場人物たちが騒いでいる様子が描かれている。全くの偶然に過ぎないが、実に奇妙な気分になって、僕は食い入るようにその本を読みふけった。
『まさか……この本?』
そう言って彼らは、作中で、部屋の片隅に置かれていた一冊の本に注目した。
タイトルは『異世界への扉』。
作者は、知らない人だった。
舞台は現代の日本。
主人公は何処にでもいる卑屈な性格の青年で、ある日彼女に『呪いの本』を手渡される。何でもその本は、読むと読者に話しかけてくるのだという。アルバイトの後、彼が何となしにその本を読みふけっていると、奇妙な事実に気がついて……。
そこまで読んで、僕は気がついた。
ああ、そうか。
呪われているのは……本の中にいるのは、僕の方だったのだ。
こっちの世界が文字の世界で、今読んでいる本の世界が、本当の現実なのだ。
僕は……僕という存在は、現実には何処にも存在しない。
文字だけの存在なのだ。
その証拠に、これを読んでいる読者も、僕を単なる文字として認識しているはずだ。なぁ、そうだろう?
君の目の前に何が見える? 顔か? 体か?
いいや。きっと文字だけが、四角い枠の中に浮かんでいるはずだ。
試しに僕は『呪いの本』に顔を近づけた。すると、
『うわぁあっ!?』
『み、見られたッ!? 何かに見つめられた!!』
案の定、向こうの世界の住人が騒ぎ始めた。
「異世界への扉……」
この本の向こうに、この枠の外にもう一つの世界がある。
そう思うと僕は居ても立ってもいられなくなって、それでゆっくりと向こ
う側の世界に腕を伸ばした。