表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

【掌編】おばあちゃんの名誉

作者: 柳明広

 中学生の牧原由梨は、島田久子が嫌いだった。

 久子は由梨の母方の祖母であり、祖父が亡くなってからはいっしょに暮らしている。母とは仲がよく、仕事で両親の帰りがおそいときは、代わりに夕食の支度をしてくれる。由梨の味覚は、久子によって形作られたと言ってもよいぐらいだ。父も母もも料理はするが、久子には敵わないと由香は思っていた。

 料理に限らず、洗濯、掃除など家事全般を久子は嫌な顔ひとつせずこなしてくれた。由香も手伝うことはあったが、主導するのはあくまで久子だ。

 それだけ世話になっていても、由香は久子が嫌いだった。

 理由は至って単純。久子が醜いからだ。

 顔はしわだらけでしみだらけ。首まわりも両手もしわくちゃで、見るに耐えない。これが老化なのだと、いずれ自分もこうなるのだと思うと、ぞっとする。

 中学生の由香の身体からははじけんばかりの若々しさがみなぎっていたが、それが「老い」への恐怖心を増大させていた。

 こんな風にはなりたくない──

 心底、そう思う。

 もうひとつ、由香が久子を嫌う理由があった。久子が自分の「老い」を隠そうとすることだ。

 久子は特に理由がない限り、白い手袋をつけている。手のしわやしみがひどく、人に見られたくないからだろう。醜い年寄りのくせに、それを他人に見せたくないという浅ましさに、由香の嫌悪感はつのる一方だった。


 その日、父も母も帰りがおそかった。由香は家にいたので、久子とともに夕食の準備をはじめた。久子が年に似合わずてきぱきと料理を進めるあいだ、由香はテーブルを拭いたり、皿を準備したりしていた。

 久子の料理のレパートリーは意外と豊富で、和食、洋食、中華と、何でも作ることができる。ただ、組みあわせが少々おかしく、今日はオムライスに茄子の煮つけだった。オムライスならスープのひとつでもつければいいのに、と由香は思った。

 すでに作ってある茄子の煮つけを皿によそっていると、

「いたっ」久子が声をあげ、包丁をまな板の上に落とした。

 由香はあわてて久子に駆け寄り、「どうしたの?」と声をかけた。

 久子は「たいしたことないよ」とこたえたが、左手の人差し指と中指から血が糸のように垂れていた。血は流れ続け、床と、まな板を濡らした。

「大丈夫じゃない。手当しないと」

 由香は手近にあったタオルで久子の手を包み、居間へ連れていった。救急箱から消毒液や包帯を取りだす。

「手、見せて」

 ぶっきらぼうに言いはなつ。料理中はさすがに手袋をしていない。このまま消毒し、包帯を巻けば終わりだ。あとの作業をさせるのは難しいので、由香が引き継ぐことになるだろう。

 めんどくさ。

 久子にわかるように、舌打ちする。久子は申しわけなさそうに左手を出した。由香は久子の手を乱暴に取った。

 そのとき、手から違和感が伝わってきた。久子の手の平が、妙にごわごわしているのだ。しわくちゃだから、というわけではない。手自体が膨らんでいるように感じた。

 由香は久子の左手の平を見た。人差し指のつけ根から手首まで、対角線を引くように、火傷の痕がついていた。それも小さなものではない。手の平の三分の一を覆うような、大きなものだった。

「おばあちゃん、これ」

 由香は呆然とたずねたが、久子は何も言わず、「消毒と絆創膏、お願い」とだけ言った。

 その晩、由香がオムライスを作った。久子の火傷は、オムライスのような形をしていた。


 ある土曜日、久子は病院へ出かけた。高血圧気味なので、定期的に検査を受けているのだ。

 母が家にいたので、由香は思いきって、久子の左手の火傷について聞いてみた。

 母は、ああ、と何かを思いだすようにつぶやき、「あれは私のせいなのよ」とこたえた。

「お母さん、何かしたの?」

「由香よりももう少し小さいころかな。夕ご飯の手伝いをしようと思って、棚からお皿を出そうとしたのよ。でも背が低かったから、椅子に乗ってお皿を出そうとしたの。そうしたらバランスを崩して」

「落ちたの!?」

 母はかぶりを振り、「落ちなかった。お母さんが……久子おばあちゃんが咄嗟に支えてくれたから。お皿は何枚か割っちゃったけど」

そう言う母の口調は、少し苦しそうだった。

「お母さんはてんぷらを揚げていたの。私が倒れそうになったとき、右手で支えてくれた。でも咄嗟に動いたものだから身体が鍋に当たって、油の入った鍋が落ちそうになったの」

「大事故じゃん!」

「油が床にまかれていたら、火事になってたかもしれない。お母さんは右手で私を支えて、左手で鍋をつかんだのよ。そのとき、左手が熱い鍋と油に直接触れて……」

 母の声が小さくなる。嫌なことを思いだしてしまったせいであろう。

 久子の左手は、鍋と油に触れたせいで、あんなことになってしまったのだ。だから、いつも手袋をしているのだ。火傷で醜く膨れあがり、ひきつった手を隠すために。

 ──醜い?

 由香ははっとなった。久子の手を見たとき、由香は醜いとは思わなかった。むしろ今の話を聞いて、「名誉の負傷」だと思ったほどだ。

 由香は洗面所へ行くと、鏡で自分の顔を見た。しわもしみもない、きれいな若々しい顔。手の平を見つめる。そこも同じだった。

 あの火傷が名誉の負傷なら、久子の顔に刻まれたしわは、いったい何なのだろう。久子は身を呈して母を守った。それだけではない。祖父を支え続け、大人になるまで母を守り続けた久子が無傷のはずがない。

 由香に人生のなんたるかなどわかるはずもないが、誰かを守ろうとする人が無傷でいられるはずがない。醜いと思っていたしわやしみは、人生の苦労がつけた「傷」なのではないだろうか。

 由香は洗面台に手をつき、うつむいた。何て、自分は浅はかだったんだろう。しわやしみは醜く、唾棄すべきものだと勝手に判断していた。

 自分を恥じる。傷ひとつない身体など、何の価値もない。それは何もなしえていないのと同じではないか。傷、しわ、しみ……全てその人の人生なのだ。

「ただいま」

 玄関から久子の声が聞こえた。お帰りなさい、と母が応じる。

 由香は洗面所を出て、久子を真正面から見た。

 首を傾げ、どうしたのかと微笑む久子が、醜い老婆ではなく、戦い抜いてきた戦士ように見えた。


(了)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ