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歴史とDNA

シュメール人

作者: とびうお君

 もやもやしてあまり手をつけてなかった所だが、相変わらず専門的研究は無いが、インドや欧州など周辺の流れからなんとなく分かるんじゃないか?と思えてきた。そこからみるとシュメール人ってのはたいした謎じゃないのではないか?と感じている。


 インドと欧州はかなり近い動きになる。インドと欧州は大きく分けて先住民に農耕民と牧畜+金属加工民が違った時代に流入してきた歴史になる。後はインドは欧州に較べて最後の牧畜民が北部に偏った侵入となり人種的な勾配がはっきり出来てしまった点だろう。


 シュメールはこれらの動きと密接に関係している。


 シュメールといってもアッカド帝国を含む長期のメソポタミア文化で見ると何を語って良いのか?が不明瞭になるためアッカドを除いた初期のメソポタミア文明を築いた集団はどんな集団だったのか?って意味のかなり狭いシュメール人という定義にするつもりだ。


 大きな勘違いが一つ取れたのは、おそらくハプロで言うCやDは中東にほとんど居なかったと考えられる。じゃ中東には誰が居たのか?CFから分かれたFが多分中東の中心集団だと思われる。分かりやすくするためハプロで書いてるが正直ハプロは良くない。核DNAによる全体的な遺伝子の流れの方が向いている。


 分かりやすくするためハプロを絡めてるが元ソースになった情報は現代古代の核DNAの情報を元に私がハプロで翻訳して書いてる形になってる。


 当時のFがどういう人達だったか?で多分地域差はあるが、基本CDに近かったと思われる。要するにアフリカの現代の黒人に近かったと思われる。ただ肌の色は分からないが、当時の復元顔の1例を見たがあまり黒人らしくない。白人と黒人の間の様な良く分からない顔つき。さすがにメソポタミア初期の新石器時代となるとある程度顔立ちなどにも変化があわられる。


 ただ肌は間違いなく黒に近かったと思われる。ああいうものは北方の適応であり当時からずっと紫外線量が多い地域で白色化したと到底思えないので。


 じゃ縄文人はどうだったのか?で基本肌の色は北方で適応した集団との混血で決まる。その点北方とは言い難い日本はどうだったのか?でDNAから白人に近かったとあるので、適応していた可能性はある。混血だとすると、日本に入ってきた北方集団が現在のハプロから少なすぎる。アマンダン島に住むほぼアフリカ人と変わらない人達から適応的に変化しただろうと想定してるが、真実は分からない。


 現在残ってるハプロからもH、J、G。東南アジアで発達するKを除いたFの下位系統のハプロが多い。多分その構成は同様だろうと思われる。ただしJ1はかなり注意が必要だと思われる。J2に較べて明らかに北方に広がった集団であるため元は北方集団だったのじゃないか?と思われる。


 J1は北方のR集団との混血が多いため元はどういう集団だったのか?良く分からないが、私はJ1の色はRほどじゃなくてもある程度白かったと見ている。おそらくJ1集団であるアッカド人から見たシュメール人は黒い人達との文献が残っている。すぐに同化してしまうので、あまり残ってる情報は無いのだが。後時代的にRの移動が始まっている時期と後期に重なるためなんとも言えないと見ている。


 同じJなのにそうも違うのか?だとこれがなんともやっかい。例えば寒冷適応しなかった初期のアメリカ先住民の一部のQを父系にもつ個体は欧州人に近い骨格をしている。C2との混血によって今のアメリカ先住民の顔かたちが作られたため混血をしなかった純粋な集団の姿かたちは今一つ分からない。


 J1がR集団と混血してるのは間違いないのだが、中国人ほど南北の別集団が万遍なく混ざってるわけじゃない。J1はRたちほどじゃないが、北方に位置したためやや白くなったのじゃないか?と見てて、南方に残った集団がJ2になったと見ている。


 アッカド帝国として後々同化していくが、J1の集団はシュメール人からは省いてよいと思う。


 何故こうもJ1を省こうとするか?と言うと何故シュメールが謎の民族なのか?と言うと、今主流のアラブ人は多分このやや北方から来た民族で元は多分違う集団が住んでいたと見ているから。アラブ人は元から住んでいた人達じゃなくて、混血して現在のアラブ人として成立したと見ている。


 後々、オスマントルコの侵入により中央アジアに住んでいたR系も大量に入ってくるし、ヒッタイトなどもそうなる。元居た人達はそういった人達と違って黒っぽい人達だったと思われる。


 そしてそれは、欧州の地中海地方や、インドの南部もそれに近くなると見ている。欧州の地中海地方は人種的には完全にR系の強い影響で偏った白色化がされてしまったが、インドはそれが薄いためもとの人種の原型にまだ近いと思われる。かつ、ハプロにおいては欧州地中海沿岸にはR系とは違うハプロが多数残っていて、多分それが見た目は違うが元は中東から来た集団の末裔だと考えられる。


 ただGとJ2に関して、R集団の地域へ移住した牧畜民が居るため下位系統からある程度判断できるが、R系統の移住とともにインド南部に流入したGやJがあるため過去の集団の根拠とならない部分もある。もう1つインドは重要な点としてより原型のアフリカ集団に形質的には近いC集団の先住民がいた点で、これらの集団と混血した集団がインド南部の特殊性となる。


 そのためインド南部の肌の色の濃さそれらの集団の影響も強くて、R系の影響が少ないからとして現在の集団から単純には推測できない。


 ハプロを絡めないと、最初期農耕民であるレヴァントの影響はさっぱりわからないが。大きく分けて、イラン農耕民とアナトリア農耕民の混血の勾配で大体シュメール人は片付く。どちらかというとイラン農耕民の影響が強いのでは?と見ている。距離の近さから考えてになる。


 欧州は距離の近さからアナトリア農耕民の影響がどうしても強くなる。だが、シュメールはおそらくイラン農耕民の影響の方が強かったと考えられる。言語的にはとなりのエラム語とちかったとの文献がありイラン農耕民の言語じゃないか?と言われている。欧州の元になった草原集団は、イラン農耕民の色が濃いアナトリア農耕民との混血集団。


 羊の遺伝子から、東アジアまで広がる羊の系統を見るとアナトリア地域の羊を起源とすると見られていてイラン農耕民と混血した集団が牧畜を始めてロシアステップ草原に広がっていったとなる。ただごくごく遺伝的には小さな影響しかみられないため、DNAの痕跡から人類集団の移住があったのは確かだが、牧畜と言う文化の伝播の面が大きかったと見ている。


 適応的じゃないが、集団の顔つきには微妙に違いがある。元のアフリカ集団の原型を留めているアボリジニやアマンダン諸島集団のような例もあるが、中国南部の北方適応集団が南下する前の復元顔を見たが、遊牧民流入前の中東集団の顔つきとは違う。デニソア人などの混血が違いをもたらしたのか?その辺りは分からないが。


 複雑な地域の絡み合った混血集団となる前から地域ごとに集団の肌の色や髪の質、顔立ちが変わっていた可能性は高い。そもそもどこかの集団が変化し無いと混血して変化する事はありえないのだから、顔つきの地域差はいろいろ生じていたと思われる。


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