2日目 トラブル電話
火曜日の朝。悪魔の存在を信じるならば、2日目の朝でもある。
目覚まし時計は正常に稼働し、昨日というイレギュラーを除けば、いつもどおりの6時に目が覚めた。
体を起こすと、あちらこちらに痛みが走る。
具体的には腹部と右肩辺りに鋭利な物で刺されたような鈍い痛みがボディーブローのような痛みだ。
だけども、歩けないって程でもなく、我慢できないって程でもない。
同じ場所を同じように攻撃されなければ、日常生活に支障は出ないくらいのレベルだ。
ただ痛い事には変わりはない。朝のシャワーでヒリヒリと痛む場所を見てみると、紫色の痣になっていた。
神を乾かし、冷蔵庫からカット野菜を、冷凍庫のひき肉を、味噌汁を、ご飯を。
パーフェクトな朝食と同時にビタミン剤を摂取する。
身だしなみを整え、教科書を鞄に入れていく。
スマホに表示された天気予報は晴れ、降水確率は0%。
だけども明日からは雨が降るらしい。念のため、今日から折り畳み傘を入れておく事にする。
テレビを付け、ニュースを確認する。
くだらない政治の話題と混じるように、頻発するテロの状況が映し出されている。
『一週間前、カナダのバンクーバーで起きた複数人による同時自爆テロ事件。死者が92人に増えたと現地から発表がありました』
92人。今回のテロはかなり大きな被害となっているようだ。
一ヵ月前にロシアで起きたテロは13人、二ヵ月前のイタリアは11人だった所を見るに、今回のテロ事件には名前が付きそうだ。
どんな名前かは分からないけど、カナダはバンクーバーの92ですよ! とか、まぁそんな感じの語呂で死亡者数は覚えればいいだろう。
こんな頻発するテロがいちいちテストに出題されるのだから、学生の身分としてはたまったもんじゃない。
日本で起きたなら話は分かるけど、いちいち外国の出来事なんて気にしてなんかいたくはない。
どこぞのテロリスト集団の皆さまは、少しは限度と頻度という物をいい加減覚えて欲しい所だと僕は思う。
気づけば時刻は7時。
靴を履き、鏡の前で最終チェックを行う。
忘れ物、ナシ。特別行事、ナシ。
火元の確認、問題ナシ。天気、問題ナシ。身だしなみ、問題ナシ。体調、問題ナシ。
……全て問題ナシ。浮かんでいる一つ目の悪魔が見える事だけを除けば、何もかもが問題ナシ。
いってきます、なんて言葉は必要ないだろう。
無いモノとして扱う、それが昨日、僕が導き出した結論なのだから。
外に足を踏み入れ、鍵を閉める。
そのままエレベーターに向かい、正常に稼働している事を確認する。
朝のホームルームは8時30分。現在時刻は7時。片道15分に対して1時間30分を割り当てたのだから、絶対に間に合う計算だ。
大地震が起きようとも、大津波が発生しても、空から飛行機が落ちて来ても、遅刻する事はないだろう。
更に安全マージンを上乗せするのであれば、この町で通学途中に犯罪に巻き込まれる事はほとんどないから安心だ。
何故ならば、僕が今から行く場所は金持ち、権力者、実力者、そして超訳アリの人間しか存在する事を許されない学校、東京中央高等学校。
そんな場所の制服を着た生徒に関わるなんて事は、地雷だと分かっている場所をわざわざ踏み抜くような愚かな自殺行為と同じであり、更には見渡せばそこらかしこに設置された監視カメラと常に目を光らせる警備員と警察官が24時間体制で見守ってくれている。
ここは正義があらゆる犯罪者を排除する場所…… いや、正確に言えば「選ばれた人間」に刃向かう者は全て駆除する裁きの領域。
この周辺全てが学校の校庭のようなモノであり、つまりは最高レベルに治安が良すぎる場所なのだ。
最初はとんでもない学校に行かされてしまったなんて思っていたけど、異常な程に強固で強力な力が都合よく僕を守ってくれると思えばこれ以上頼りになる権力は存在しない。
このルールを作った人に、いまなら全力で頭を地面にこすりつけながら感謝できると思う。
そんな感謝の気持ちを持ちながら歩いていると、何の問題も無く、ガチガチに守られた大都会の中央、無機質な40階建ての超高層学校に到着した。
時刻は7時15分。
警備員以外の人がいない閑散とした校門に、僕はいつも通りに、何のトラブルを起こす事無く一歩足を踏み入れた ――その瞬間、僕の体が小さく揺れる。
―― ブーッ ブーッ ブーッ!
静寂の中、鳴り響いたのは警報や動物の鳴き声では無く、僕の右ポケットに入っているスマートフォンの振動音だった。
……普通の人であればなんて事のない普通の出来事だが、僕の場合は違う。
友人のいない僕は、友人の連絡先を知らないし、当然ながら存在しない友人からの連絡が届く魔法の道具を持ち合わせてる訳でもない。
よって、僕に連絡ができる人といえば親族だけという事になるが、その親族とやらも大して親しい訳でもなく、お互い緊急時以外には連絡をしない間柄。
つまり、その緊急時にしか鳴らない着信音が、ようやく計画通りに行動できたと確信できた瞬間に響き渡ってしまった。
僕にとっては、なんとも例えのしようがないような、そんな感情がぐるぐると蠢きだすようなトラブルだ。
――4秒息を吸い込む。4秒息を止める。4秒吐き出す。
この深呼吸の間に止まってくれればよかったものの、右ポケットはまるで僕の心臓のように大きく鳴り響いたまま止まらない。
降参するかのように、僕はゆっくりとポケットへと手を伸ばし、ディスプレイに表示されている着信名を確認した。
『 佐川 先生 』
……そういえばこの人がいたな、なんて肩透かしを喰らいながら、僕は電話に出た。
「……先生、おはようございます」
「おぉ! おはよう! 影人くん! いやいやごめんね、こんな朝早くに電話しちゃってさ! 今ちょっと大丈夫かな!? いや、こちらがちょっと待って欲しいかな! 今ちょうど夫の為に朝ご飯を作っている所でね!」
相変わらず元気の良すぎる先生は、まるで休日の学生かと思うくらいに朝から元気が良かった。
「……落ち着いてからまた電話してくれても大丈夫ですよ。今ちょうど学校に着いた所ですので、授業が始まる前ならいつでも大丈夫です」
「まだ7時になったばかりだよ!? ちょっと君は行動が早すぎるんじゃないかな!? まだクラスメイトどころか先生だって来てない時間だろう!?」
「……予習とかしたいんです。学校だと集中しやすいので」
「なるほどね! 私の時なんかは遅刻ギリギリまで寝てたのに君は偉いね! もし私に子供ができたらその姿勢は見習わせないといけないね! ……と言っても私は今、遅刻ギリギリの時間な訳なんだけどね!」
はっはっは! と笑いながら、先生はスピーカーから溢れる音量でそう言った。
「……ところで、なんで電話をしてきたんですか?」
「そうそう! そうだった! 実はね、急に出張が決まっちゃってね、来月の診断ができなくなりそうなんだよ! うちのアホ上司が腰をギックリやっちゃってさぁ! 急遽代わりにいく事になっちゃったんだよね!」
「……僕は別に、来月じゃなくてもいいですよ。予定は先生に合わせます」
二ヵ月に1回の通院、僕にとっては別に無くては困る物ではない。
家族を失った孤児の精神状況を確認する、いわば心の定期健診しかやらないからだ。
僕は別にやらなくても構わないのだけれど、過去に自殺してしまった人が何人か出てしまった以上は定期的に確認しなければならないルールになった。
そんな面倒なだけの決まり事だけど、心だけではなく体もついでに診断してくれるので、僕としては今まで風邪やインフルエンザ等にはかかった事がない点については亡くなった方に感謝しなければならない。
「私に合わせてくれるの!? そう言ってくれるとありがたいね! 実はね、今日にでもお願いしたい所なんだよね! 明日からはもう色々と準備が大変でさぁ!」
「……学校が終わったら行けばいいんですか?」
「おっけーおっけ! 助かるよ! じゃあ影人くんが来る頃にはちゃんと私は待っているからね! 寄り道はしないように! じゃあねー!」
まるでスポーツの実況なのかと勘違いするように一方的に捲し立てながら、先生は一方的に電話をかけてきて、一方的に電話を切った。
別に会話という会話をした訳でもなく、ただただYESと答えていただけだとは思うけど、なんだか朝から軽く疲れてしまった。
検診が今日になった事については、まぁ特に問題はないだろう。前にも同じような感じで予定がずれた事は何度かあった。
学生の身分が半ば公共のお金を使って1人暮らしをしているのだから、忙しい大人に予定を合わせるくらいの対応は学生として当然だ。
ただ問題なのは、僕の置かれた状況…… つまりは、なにやら悪魔のような存在が見えているような気がする感覚、気分、その他色々な要因が精神的な病気に起因しているのでは、という懸念点だけ。
……だけども、これも特には問題ないだろう。
僕は今まで問題を起こしてはいないし、成績もそこそこだし、学校にも毎日通っている。
模範的な生徒として評価されており、だからこそこの学校にも入学できたし、1人暮らしなんていう贅沢も身分不相応ながらできているのだ。
だから、問題はない。
僕が黙っていれば、問題はない。
先生が知らなければ、問題はない。
問題が無いという事は、僕はいつも通りに学校に行けるという事だ。
学生の本業は勉強なのだから、僕はキチンと学校にはいかなければならない。
……なんて事を考えていたら、嫌な事を思い出してしまった。
南条 香澄。
彼女に比べれば、通院の事なんて些細な問題にすらならない。
朝礼前か、昼か、はたまた放課後か。出会わなければいいとは思うけど、そんな楽観視は捨てよと僕の心の何かが囁いてくる。
放課後であれば医者の言葉を盾に逃げれる可能性がある…… いや、無い。無いな。間違いなく彼女の世界では障壁になってはくれないだろう。
彼女に会ったら最後、どちらに転んでも最悪が待ち構えている。
願わくは後遺症だけは残さないでくれと祈りながら、まだ始まってすらいない学校生活へ重い足を踏み入れた。