1日目 覚悟を決めた晩御飯
夕方15時。
冬の太陽は寒いのが苦手なのか、空は既にオレンジ色に染まっている。
多くの生徒が送迎車に乗り込んでいる中、僕は一人冬のコンクリートを歩いていく。
午後の授業は頭に入ってこなかった。たとえ入って来てたとしても理解できる訳がない。
事前に教科書を読み、ある程度の内容を理解しているとはいえ、それでも、それでもだ。
……強烈すぎた。昼の出来事は。
「お前の日常を片っ端からぶっ壊す」と突如死刑宣告をされたようなものだ。
そもそも「明日、話そうとしている事を言え」だなんて、意味が分からない。
心当たりがない。あるはずもない。僕の知っている事なんて物は、彼女レベルの人間であれば全て知り得ているハズだ。
そんな神のような人間が知らない事とすれば、それはもう、アレしかない。
昨日の夜、そして今日の朝に見てしまった幻惑。
名前は確か、リチュエルとか言ってたような気がする。
一週間、自分が見えている事に、悪魔を視えてしまっている事を悟られなければ、世界は崩壊すると。
正確には4人全員が逃げ切れば成功、1人抜けることにどんどん規模が小さくなっていく、みたいな話だった。
――僕は、頭がおかしくなってしまったのだろうか?
孤児になってからというもの、心臓が弱かった僕は頭のテッペンからつま先の細部に至るまで徹底的に検査をされてきたが、今まで頭に異常は見られなかった。
最近は健康であり続けた僕も、次の検診でとうとう引っ掛かってしまうのだろうか? しかもよりによって精神的な部分で、だ。
「君は家族を失ってしまった。だけども負けてはいけない。残された君は、家族の分まで幸せになるんだよ」なんて言葉を医者からうんざりするくらい言われ続けている。
毎度毎度、二ヵ月に1回の検診で毎回毎回言われ続けている。
「僕はちゃんと学校に行って、成績も上位ですので」と言って、通信簿を医者に提出するくだりも、もう何回もやっている。
……話を少し元に戻してみよう。
学校の支配者である彼女、南条 香澄さんに無理矢理にでも何かを伝えようとするのであれば。
つまりは、僕が知っていて、彼女の知らない事といえば「実は昨日から、悪魔が見えるようになったんですよ」なんて冗談くらいしか思いつかない。
僕は心の底から戯言だと思っているが、どう思考を張り巡らせてもコレしか答えが見当たらない。
だからこそ、僕のこれから行うべき事はただ1つ。そう、たった1つしかない。
――悪魔が、見えないふりをすればいい
……そんなふざけた空想物語をあの暴力特化型生徒会長に伝えられる勇気は僕には無い。
逆ギレして撃たれるか、逆上して蹴られるか、もしくは新しい武器が追加される未来しか先は無い。
……という事は、簡単な話だ。つまり、自分の中に潜んでいる悪魔、幻惑を無視すればいい。
仮に大きな病気が脳に潜んでいたとしても、来月の健康診断で見つけてもらえばそれでいい。
目下で重要な事は、僕がちゃんと学校に行ける事。明日待ち構えるトラブルを最小限に抑える事だけだ。
誰に似たのかは知らないが、あのマシンガントークで口うるさい悪魔の言葉を無視し続けてやればいいんだ。
たったそれだけ、数日だけ我慢すればいい。
……まぁ、そもそも悪魔なんて存在しないし、寝ぼけてた僕の妄想だって可能性も無くは無い。
だから玄関を開けても、誰もない可能性も無くは無い。むしろ高い部類に入ると思う。
あっと言う間についてしまった20階建てのマンション。
今朝動いていなかったポンコツエレベーダーの呼び出しボタンを押し、壊れていない事を確認してから慎重に乗り込む。
順調に10階まで到着。少し歩いて、扉の前へ。
鍵を開ける。ガチャリと音が響き渡る。
いるはずがいない。存在するはずがない。
テレビやゲームじゃあるまいしそんな話は夢物語のはずだ。
だけども、そこにはいた。
空に浮かぶ、紅い一目の女悪魔が。
長い銀髪をなびかせながら、何も言わず、ただただこちらを見つめてくる。
……これは何だろうか。ドッキリか何かなのだろうか。
それとも、本格的に僕の頭がおかしくなったのだろうか。
それとも、アレなんだろうか。
この世界に悪魔は元々存在するもので、それがたまたま僕の目の前に現れただけなのだろうか。
……見えてしまっている物を否定するように毎日決められた僕のルーティンを開始する。
靴を脱ぐ、着替える、手洗い、うがい。水を飲む。各学科の参考書をテーブルの上に広げる。
タイマーを18時にセット、静かに勉強を開始する。
カリ、カリ、カリカリカリ。カリカリカリカリ。
いつも通り、ペンの走る音が聞こえるだけ。
昨日と決定的に違うのは、悪魔が見えてしまっている事だけ。
聞こえはしない。昨日のような、今朝のような、大声で捲し立てるような声は聞こえない。
幻想と幻聴がセットになっていたモノが、単品になった。いい傾向だ。
……喋りかけたら、悪魔も喋るかもしれない。
とすれば、やはり話しかけない事が正解のようだった。
カリ、カリカリ、カリカリカリ。
午後の授業とは違い、いつも通りの速度で勉強が進む。
だけども、異様に喉が渇く。
何故なのだろうかと自分に問いただしたくなるような、異常な喉の渇き。
何かが、何かが僕の首に何かをくくり付けているかのような、そんな感覚――。
耐えられずに、そのまま冷蔵庫の前まで移動する。
チラリと、悪魔が視界の中に入ってしまったが、見えなかったフリをする。
コップに水を入れ、テーブルの前まで移動する。
水に反射されているのは、僕の姿だけ。
すぐ近くにいる悪魔はこれっぽっちも映っていない。
そんな現実と共に、自分でも驚くくらいに喉音を立てながら、一気に飲み干す。
……「もう限界だ、耐えられない」と精神が音を上げようとする前に、僕は英語の参考書を開き、頭を動かさずとも行える英単語を書き写す。
だけども、何も考えない単純動作の最中でも、しつこく頭に浮かんでくるある人物がいた。
雲の上に住んでいるような権力者、僕のような存在なんか指先一つでどうにかできてしまいそうな、あの生徒会長。
名前は南条さんとか言っていた。ハッキリ言って覚えたくも無いし関わりたくも無い。
僕は物騒な人達と関わらないように、つねに努力をしてきた。
成績は普通、無遅刻無欠席。交友は無いが、問題も無い。
虐めもない。喧嘩もない。全ての関係性をクラスメイト以下になるよう努め続けてきたはずだ。
100歩譲って家の中ならなんだっていい。何が見えてもいい。何が起こってもいい。
だけども、外はダメだ。学校はダメ。ダメだ。絶対にダメなんだ。
僕は何としても、学校にだけは行きたい。行き続けた。行き続けなければならないんだ。
カリ、カリカリ、カリカリカリ。
――1000人に4人、そこから僕は選ばれたらしい。一週間以内に誰かが僕を見つけ出さなければならないらしい。
仮に、仮にだ。この悪魔の言っている事を、南条 香澄が知りたがっている事だと仮定しよう。
不老不死、だったか? よく分からないが、その為に世界をかけた賭けをしているとか、そんな馬鹿げた話も真実だと仮定しようか。
カリ、カリカリ、カリカリカリ。
南条さんは日本で一位二位を争う大企業のTOPに立つ社長の娘。
単純に考えれば、つまりはそれ以上の権力を持つ存在が僕を探しに来ているという事に繋がる。
不老不死。なるほど、不老不死。
確かに、金持ちや権力者が欲しがりそうなモノではある。
対象が1000人いて、しかも世界中に散らばっている。
その1000人をある程度は特定できて、監視できる人間。
……ハハハ、なんだよ。そんな事ができたとしたら、それはもう世界を牛耳っているようなものじゃないか。いるのか? そんな人物が? 本当に?
カリ、カリカリ、カリカリカリ。
そんな夢物語のような権力者が存在すると仮定しよう。
「悪魔は、選別者にしか見えない」のに、どうやって探し出すのか? 1000人の中からどう見分けるか?
悪魔は昨日「会話をしている所を見つからなければいい」みたいな事を言っていたような気がする。
そう、ただ会話している所を押さえるだけでいい、確認できればいいと確かに言っていた。
……会話?
――瞬間、僕の背すじは大きく凍った。
理由は単純、あの悪魔は、昨日までは、今朝まではあんなに騒がしかった悪魔が、今は無言――。
あんなに五月蠅かったのに、今荷が気って何も喋らない。
まるでそこに存在しないかのように、物音一つたてやしない――。
……なんだよ。なんなんだよ。
盗聴器が仕掛けてあるとか、カメラが隠されて監視されているとか、そんな妄想の類は小学生で卒業したハズじゃないか。
医者から止めなさいと怒られたじゃないか。
何をいまさら、そう、何をいまさら思ってしまっているんだ。
テーブルの上に置かれた時計が、ピピピッと電子音を鳴らす。
18時、もう18時か。帰って来てからもう2時間以上が経過している。
18時に夕食を作り、食べる。それが僕の、ルーティン。
冷蔵庫を開け、ミックス野菜を取り出す。
冷凍庫からひき肉を取り出し、レンジで温める。
一食分の味噌をお椀に入れ、そのままお湯を流し込む。
野菜とひき肉を炒める。冷凍庫からご飯を出し、そのまま電子レンジで温める。
野菜炒めと味噌汁とご飯。栄養バランスを考えた、簡単で美味しい晩御飯。
バランスの良い食事は、体を健康に保つ秘訣でもある。
もぐもぐもぐ。シャク、シャク、シャク。
ようやく、バクバクと鼓動音が五月蠅かった心臓も落ち着きを取り戻し、いつもの日常が戻ってきた。
相変わらず悪魔だけは見えてしまっているが、それを除けばいつもの日常だ。
そう、除けばいい。簡単な話なんだ。
僕が話しかけなければ悪魔は話しかけてこないみたいだし、仮に話しかけたとしても無視を決め込めばいい。
それで怒ったとしても「監視カメラと盗聴があるかもしれない」で悪魔は納得するだろう。
悪魔に話は通じるのかどうかは知らないけど、常識を持っていたら通じる。いや、もう通じると信じるしかない。
……そういえば、あの悪魔は「いつでも、なんでも聞いてくれ」と言っていた。
なるほど、なるほど。流石は悪魔、といった所だろうか。
この状況を想定して言っていたのだとしたら、彼女は確かにとんでもない悪魔だと僕は思った。
……ただ、色々と悪魔的要素を差し引いても、急に話しかけなくなるってのは、なんというか、思いやりがありすぎると感じる。
本当にカメラがあって盗聴されているのであれば「おかえり」の一言だけで、僕を殺せたはずだ。
――そう、殺される。殺されるだろう。
不老不死なんかのために、勝手に全世界を賭けてしまうような連中だ。
僕1人なんかの命、野菜クズのように捨てられ、燃やされたとしても何の感情も沸かないハズだ。
むしろ「俺様の礎になれたのだ。感謝したまえ!」といった所だろうか。感極まってガッツポーズくらいはプレゼントしてくれそうではある。
食器を片付け、食後のお茶を入れながら、僕は思う。
これが現実だろうが、幻想だろうが、幻惑であろうが、死後夢見る世界であろうが。
――付き合ってみようじゃないか。
この世界の誰が不老不死になろうが、ドラゴンになろうが、神になろうが別に興味なんかない。
僕はただ、学校にさえ行ければいい。
それを妨害するのであれば、相手が生徒会長であれ、大企業の社長であれ、大統領であれ、神や悪魔であっても、だ。
貫き通す。
それが僕の、花村影人の生きる道だからだ。
勝ち目のない賭けではない。
少なくとも、あの悪魔の天秤だけはこちら側に傾いているようにさえ感じる。
きっとアレだ。中立とか言ってもあの悪魔は世界なんてどうでもいいんだろう。楽しければいいんだろう。
まぁそれでもいい。
仮に悪魔が世界の崩壊を望むのであれば、それに付き合ってあげようじゃないか。
僕は学校にさえ、行ければいいのだから。