2日目 ポチ。ポチ。ポチ。
火曜日の17時。へとへとになりながらマンションに到着する。
今気づいてしまったけど、まだ今週が始まって2日しか経過していない。正確に言えばまだ2日目の途中。
更に正確に言えば、日曜日を1週間の1日として計算すれば今日は3日目という事になるのだけれど、日曜日なんて高尚な存在をこんな物の1日目としてカウントするのはおこがましい。
だからここは前向きに2日目と数える事にする。些細な事だ。当たり前で些細な事だからこそ、今となっては大事にしたい。
当たり前を大事にしたい。そんな事を思ったのは今日が初めてなのかもしれない。
そんな当たり前の日常も、いつもより重たく感じる玄関を開ければ霧散に消えて無くなっていく。
悪魔、そう、悪魔だ。名前は確かリチュエルと言っていた。そんな悪魔が今、笑顔で部屋の中を浮遊している。
……なんだ、そもそもリチュエルって。何処の何語なんだろうか。日本語を喋れるようだけど、少なくとも日本人ではない事は確かだ。
長い銀色に輝く髪の下に妖怪のような紅い単眼、そして羽を4つ生やした日本人を僕はテレビですら見た事がない。
インターネットでも現れてはくれないだろう。だから彼女はたぶん日本人ではないハズだ。
外国生まれの悪魔の横をするりと通り抜け、手洗いうがいを済ませた後、いつも通りテーブルに参考書を並べる。
どんな酷い状況であろうと、予習と復習はしなければならない。
台風や地震が来てくれるのであれば行かなくて済むけど、残念ながらこの酷い状況というのは僕の身の周りにしか発生していない。
日本全国にこんな酷い状況が起きても困る所ではあるけれど、少なくとも不特定多数の誰かくらいにはこの苦しみを味わってほしい。ついでに共感もしてほしいと身勝手ながら願ってしまう。
カリ、カリカリ、カリカリカリ。
カリ、カリカリ、カリカリカリ。
なんだか、いつもよりペンの音が五月蠅く聞こえるような気がする。
いつもこんなに静かだっただろうか。
いや、僕はいつも1人だし、静かなのは普通の事であるハズなんだけど、なんだか、こう、外の環境音が必要以上に静かに感じると言うか、何と言うか……。
カリ、カリカリ、カリカリカリ。
カリ、カリカリ、カリカリ……カリ。
……落ち着かない。まったくもって落ち着かない。
いつもならこの時間が一番落ち着くのに、何かが引っ掛かって落ち着いてくれない。
カリ、カリカリ、カリカリカリ。
カリ、カリカリ、カリ……カリ…………カリ。
……わかったわかった。止めよう。もう止めよう。「考える事を止める」事を止めよう。
つまりは、気になっているんだ。なんで先生は悪魔の事を知っているんだろう? って疑問が、気になり過ぎてしょうがないんだ。
南条さんも、佐川先生も、悪魔の事を知りたがっているようだった。
僕だって知りたいと大声で叫びたい。「今から悪魔に話しかけて会話をしますけど、悪魔が見えないだけなのか、それとも僕の頭にしか存在しない幻想なのか、判断してください」とお伺いを立ててみたい。
「もう何発か頭にブチ込まないと分からないかしら? 白物家電と同じくらい丈夫である事を祈りながら歯を食いしばりなさい」
「影人クン、ちょっと先生と一緒に入院しよう。体の傷より、心の傷のほうが治るのが難しいものなんだ。だって見えないだろう? 見えないって事はまず傷の具合が分からないんだ。それに完治したのかも分からない。生きていれば多少の傷はつくけれど、同じ傷の深さでも人によっては重症の人もいるし、そうじゃない人もいるんだ。だからまず、先生と一緒に傷の確認をしよう。そう、確認。確認だけ。だから別に怖がらなくてもいいんだよ」
……みたいな、そんな感じにでも言ってくれれば気持ち的に助かるかもしれない。
いっそ笑い飛ばしてくれれば御の字だけど、どう考えてもこの2人は色々な意味で深刻と捉える未来しか見えてくれない。
……仮に先生以上の親しい人がいたとしても、話してしまった以上は関係者となってしまう。
関係者になるという事は、つまりはとんでもなく偉くてヤバイ人間から狙われる存在となってしまう訳だ。
仮にソイツが隣の部屋に住んでいたとしたらクレームでもつけてやる所ではある。だけれど、そんな場所に住んでいたらの話だ。住んでいる訳が無い。それは僕にも分かっている。
少なくとも、近くには住んでいない。そして、僕の手の届かない所にいるのだろう。それだけは間違いない。
つまりは、反撃ができない。
こちらから打って出る事ができない。するつもりもないし、できる力も持っていないし、やる勇気も持ち合わせてはいない訳だけど。
だけども、悪と戦う正義の味方ならできるかもしれないし、正義が問われる状況なら僕にだってできるのかもしれない。
そうせざるを得ない状況にでも強制的に置かせてくれたら、世界の命運を賭けた仲間の後押しとやらで僕にだって悪の親玉を倒せるかもしれない。
……ただ、冷静に状況を考えれば。
コチラは生き残れば多くの人を殺してしまう鍵の1人、相手は不老不死を手に入れるためのプレイヤー。
どちらが悪なのか? そう考えるとどちらが正義なのかが分からなくなってくる。
少なくとも僕が捕まれば多くの人が助かる。不老不死になっても誰も死なない。不老不死になって人を殺すのかもしれないけど、それは別に不老不死にならなくたって成し遂げる事ができるだろう。
……ただの学生が、平凡な生活を送っていたら、いつのまにか悪人にされている。
なかなかどうして、酷い人生だ。僕は普通に生きて、普通に学校に行きたいだけなのに。
悪い事なんてしてない。逆に良い事もしていないけど、世の中には救いようもないくらいに悪い人が大勢いるはずだ。
なのに、なんで僕が、僕だけが――。
……だめだ、何を考えようにも、僕の思考が愚痴を漏らして邪魔をしてくる。
その邪魔が無くても僕にできる事は何もなさそうだけど、少なくとも冷静に考えて精神的な物に対する対処方法なる物、つまりはポジティブに物事を捉える方法を考えついてもおかしくない年齢だ。
僕はもう高校生、義務教育は卒業したんだ。ついでに変な妄想で現実逃避する趣味も卒業しているハズなんだ。
テーブルの上に置かれた時計が、ピピピッと電子音を鳴らす。
18時、もう18時か。帰って来てからもう1時間も経過しているじゃないか。
病院で感じた15分、自宅で感じる1時間。時間の重みと言うのは、どうしてこうも勝手に容易く変化してしまうのだろうか。
今日はほとんど何も勉強は進んでいない。
だけども僕は、この時間にご飯を食べなければならない。それが僕のルーティンなのだから。
冷蔵庫を開け、ミックス野菜を取り出す。
冷凍庫からひき肉を出し、レンジで温める。
一食分の味噌をお椀に入れ、そのままお湯を流し込む。
野菜とひき肉を炒める。冷凍庫からご飯を出し、そのまま電子レンジで温める。
野菜炒めと味噌汁とご飯。栄養バランスを考えた、簡単で美味しい晩御飯。
バランスの良い食事は、体を健康に保つ秘訣でもある。
もぐもぐもぐ。シャク、シャク、シャク。
……はぁ、まずい。美味しくない。食べるのがめんどくさい。
実を言えば食欲なんて物はないけれど、食べなくては健康に悪い。体に悪い。
そんな味と心を誤魔化そうと、僕はテレビのリモコンを手にして、大きな赤いボタンを軽く押した。
いつのもアナウンサーが、どうでもいい原稿を感情の起伏を使いこなしながら読み上げている。
連続窃盗事件の次に美味しいパン屋さんの特集をしなければならないアナウンサーという職業に、僕は絶対になりたくない。
年収1000万以上貰えたとしても、よくわからん相手によくわからん笑顔を振りまかなくてはならないのであれば、年収を貰う前に僕の心は病んでしまいそうだ。
『続きまして、12.4世界同時多発テロの特集です。今も尚、世界中で発生しているテロの始まりと呼ばれているこの事件。背景と、真犯人に迫ります! さて、伊藤教授。9年前に起きてしまった、この世界同時テロの事なんですが――』
ポチ。
テレビの電源を切る。
ポチ。ポチ。ポチ。
念のため、各チャンネルのボタンを押して、テレビの電源が切れているか確認する。
ポチ。ポチ。ポチ。ポチ。ポチ。ポチ。ポチ。ポチ。ポチ。ポチ。ポチ。ポチ。ポチ。ポチ。ポチ。ポチ。ポチ。ポチ。ポチ。ポチ。ポチ。ポチ。
リモコンの電池を外し、テレビの電源が入らない事を確認する。何度も、何度も確認をする。
……はぁ、まずい。美味しくない。食べるのがめんどくさい。
面倒だけど、食べなければ健康に悪い。体にも悪い。
ますます美味しくなくなったご飯、どこかに消えた食欲。
だけども、僕はこのご飯を食べなければならない。
ついてない。本当についてない。
学校で暴力を受け、病院で脅迫を受け、残った平穏が我が家だけかと思いきやこの仕打ち。
一体、僕が何をしたっていうのだろうか。
目の前で面白おかしく浮かんでる悪魔に教えて貰ってもいいかもしれない。
「なんで、僕だけこんな目に?」 ……我ながらどうでもいい質問だ。だけども、質問する事が大事だと僕は思う。こんな状態は望んでいないし、嫌いだし、苦しいし、僕は助けを求めている。だからこんな事は絶対に止めて欲しいとお願いぐらいは直接したい。
お願いするだけなら無料だ。無料ってのはいい響きだ。僕にだっていくらでも購入できる。それが必要な物であれば尚更だ。
……人生には楽があれば苦もあるってことわざがある。そう、生きていれば浮き沈みが激しい時もある。
今日はとことん沈んだ。つまりは、明日当たり思いっきり浮かんでもおかしくはないって事になる。
バランス、均衡、平穏が大切だって事は悪魔でも神でも誰でも知っているはずだ。
だから、もう今日は何も考えないようにしよう。
22時まで勉強して、シャワーを浴びて、23時には寝ればいい。
もう決めた。これ以外の事は絶対にしない。今までもそうだったし、今日だってそうするつもりだ。
願わくば、願わくば金曜日の先生と出会うまで、少なくとも何も面倒な事は起きないで欲しい。
既に過ぎ去っている七夕に願いを込めながら、僕はいつも通りの生活リズムに戻る事にした。




