2、初日にお迎えに来たのは片眼鏡の紳士なウサギさん
3年前。
今日こそ言わねば。
夕食の準備をしている肉付きのいい母の背中を見てから時計を見上げる。
そろそろ父も帰ってくるはずだ。
リビングのテレビは動物のハプニング映像番組が流れている。
これから緊迫の時を迎えるにあたり、癒しにもなるこの映像はかなりありがたい。といっても我が家のテレビは基本的にニュースか動物番組、それがなければ他の情報系バラエティ番組で、ドラマなんかを見るにはあまり使われていないんだけど。
それもそのはず。我が家は三人が三人とも無類の動物好きで、『お留守番させるのは可哀想』『置いて行くなんて』と逆にペットを飼えないくらいのレベル。
そんなうちの両親は二人とも基本的に「のほほん系」だし、なんでもかんでも「こんなご時世だしねぇ」で済ませるタイプだから、家族会議勃発やら、激しい暴行を受けるというバイオレンス展開はないはず。
だからこそ余計に申し訳ないんだけど。
似たような番組が多いので、何度か見た事がある動画を眺めながら意味もなく醤油さしを弄ぶ。
北海道土産の液だれしない優れものアイテム。
すりガラスで出来たその感触を指先でなぞりながら、心の中で復唱した。
「就職浪人の可能性が濃厚になって来ました」
私はこの重大発表の日を今日と決めていた。
頑張った。頑張ったつもりだけどこの結果。
我が家は中流の、可もなく不可もない、ごく一般家庭。
少しの奨学金をもらったものの、教育ローンを組んでもらったし、母も週に数日パートに出てる。
そんな状況で就職留年という選択は無いわー。
ってこれ以上は欝々展開になりそうだからやめよう。
そこからはご想像の通り落っこちたわけですよ。
「ただいまー」って、いつも通り父が帰ってきて。
いよいよだ。
うおぉ、ドキドキしてきたぞぉー!ってなって、父がいつものようにダイニングに入った瞬間に。
落下する時の浮遊感。
ダイニングが丸ごとエレベーターになった感じが一瞬して、「は?」と思った次の瞬間ねじれた。
なにがどう、とか説明は出来ないけど何かが全体的にねじれた気がして、次に目にしたのは林。
いたのは森の中。
布巾を持って突っ立っている母。
ネクタイを緩める手のまま固まる父。
手に包み込むように醤油さしを持ったまま地面に座り込む私。
あれ、私、ダイニングの椅子に座ってたはずなのに。
ガサリと木が揺れる音がして、全員でのろのろとそちらを見ればそこにはぴょこりと揺れる長い耳。
不思議の国のアリスのウサギさんがいた。
ただし、でかい。
耳の先まで入れると2メートルを軽く越えてる。
ああ、ハロウィンか。
仕事帰りに時間がなくて、それでもハロウィンに参加したくてスーツ姿のままウサギのかぶり物を被った感じ。
そこは燕尾服が良かったけど、仕事帰りだからスーツ姿になるのも仕方ないか。
でもスリーピースのスーツをチョイスしたのは正解ですよ、お兄さん。
かなりオシャレに見えてるからね。
やたらと姿勢が良くて背筋がピンと伸びているし。
ちょっと日本人離れした体格もカッコいい。
鍛えてますね。お兄さん。
あ、もしかして外国の方かも。
白いお顔に赤い瞳。そこにはマンガなんかで見かける片方だけのメガネ。
胸元の内ポケットから取り出したのは鎖つきの懐中時計らしい。
演出も凝ってますな!
しかもそのかぶり物、めちゃくちゃリアルだし!
それ、もしかしてオーダーメイドだったり?
最近はハロウィンの仮装に恐ろしくお金を掛ける人もいるって言うしね、それだけお金を掛けたらそりゃなんとしてでも参加したいよね。
うわ、耳がピコピコ動いちゃってるよ、こりゃ大枚はたきましたなぁ。
よく見ると鼻がひくひく動くのに合わせて長いひげが上下に揺れるとか、リアルすぎる。
「ようこそ、お客さま方」
流暢な日本語を話す白ウサギの紳士はすっと目を細めた。
う・うわぁぁぁぁー!
リアルすぎて、我が家の総員は内心絶叫して目を見張り、確信した。
これ、かぶり物じゃねぇよ! 的な。
そして思う。
「なんていい夢!」
動物大好き日下部一家はあっさり陥落メロメロです。
それがこの世界に落ちて来た1日目の事ですわ。
今思えばアホ一家だったなぁ。