Prologue
よろしくお願いいたします。
記憶は移植できるのか。
記憶は脳に保管されている事は、多くの人が知っている。そして記憶は脳内を移動する事を、ある程度脳の仕組みを学んだ人は知っている。
また、臓器の移植によって味の好みが変わったり、一部の記憶がコピーされるといった例も、多少眉唾な話を含みつつ伝わっている。
「脳内を移動したり、臓器と共に移動するという事は、伝達する物質が存在するということでは?」
として、記憶の移植に挑戦した科学者は多い。
とある学者がマウスを使った実験を行い、マウス間で経口による記憶の移植に成功した、と発表したが、検証実験での再現が出来ず、「誤謬」として処理された。
それは随分と古い話ではあったが、一人の人間不信気味な少年に、強い目標を与える事となった。
「誰にも信用されず。一人ぼっちで悔しかっただろうな……」
人を信用できない自分を棚に上げた発言だったが、何故かその科学者だけは信用できる気がして、その心情を思うと涙がこぼれそうな程に胸が締め付けられた。
その時から彼は生物学へと没頭し、いつしか“孤独な天才生物学者”として名を馳せる事となった。
「おめでとうございます! 先生!」
研究室を構え、記憶物質の抽出に関する動物実験を成功させた彼は、唯一の助手である相馬エリから称賛の言葉を受けたが、少しも笑顔を見せる事無く、一瞥しただけだった。
「……まだ、成功したわけじゃない。君は見ているだけで、触らないように」
何度目かも憶えていない程言われてきた注意に、エリは俯き、小さく答えた。
人間不信を克服するどころか、彼は大人になってますます人を避けるようになっていた。
大学から押し付けるように寄越された彼女の事も信用できず、見学のみを許し、機材に触れる事を許さなかった。
彼女が来て、すでに二年が経っていたが、少しも心を許す気にはなれていない。
「私、占いとかおまじないとかが好きなんです。先生の今日の運勢は最高ですよ」
嬉しそうに語りかける相馬エリに対し、彼は反応を返さなかった。
話に乗って「男の癖に気持ち悪い」と思われるのも、占いを信じないと言って「ノリが悪い」などと言われるのも怖かった。
研究室の長に対して、そこまで言わないだろうなど彼女を信用する事も出来なかった。
なので、なるべく関わらず、話さず、目を合わせない。
何の説明もせず、黙々と自分で実験を繰り返し、記録をし、結果をまとめる。研究室が二人体制になってからも、彼がやる事は変わらなかった。
ただ、隣で見ている人物がいるか否かだった。
毎日、正月もゴールデンウィークも無くひたすら研究を続けた彼は、ようやく一つの結果へとたどり着いた。
“人間の記憶を抽出する”
脳内を移動し、一部は血管内を伝って身体の各部へ移動する物質。その中に脳内で記憶を移動させる物質を発見したのだ。
マウスによる実験に成功を見た彼は、いよいよ人体実験へと踏み込む。
それは禁忌と言えるものでもあったが、彼の為の実験室で秘密裏に行われる事であり、誰にも邪魔をされる事など無かった。
そのはずだった。
「先生。ご自分で試すのは危険です……!」
夜の実験室。帰ったはずの相馬エリが戻ってきた。
私服のままパタパタと駆け寄り、記憶抽出実験の為に脳内物質を活性化させる薬剤を自分へ注射しようとしていた彼を止める。
「昼間のご様子がいつもと違ったので、気になって……。とにかくおやめください。万一失敗すれば、先生の身に危険が!」
不安げな彼女の表情を見て、彼は怯える。
実験の邪魔をする理由を考えて、より彼女に対して不信感が募った。
「邪魔をするな!」
初めての怒声だった。というより、まともに言葉をかけたのが初めてかも知れない。
怯えて竦むエリから目を離し、注射器を自分の左腕にあて、少し戸惑いながら突き刺していく。
ぷっつりと皮膚を破る痛みを感じながら、ゆっくりとピストンを押し込む。
薬が回ってくると脳が活性化して古い記憶が次々と甦り、走馬灯のように脳裏を巡っていった。
「ぐぅ……」
頭痛にも似た熱さを感じ、うめき声を洩らし、汗を流しながら次の機材へと手を伸ばす。やる事はわかっている。何度もシミュレートしているので、間違いはない。
機材に据え付けられた椅子に座り、頭部を固定すると手元のスイッチを入れた。
首元に太い注射針が突き刺さり、さらに内側から伸びた細いカテーテルが血管内を辿って脳を目指す。
ここまで行けば、最早被験者に触れることすら危険になる。
それを知っているエリは、少しでも危険な兆候が出ればすぐに対応するため、じっと彼の姿を見ていた。
記憶物質の抽出が始まる。
その影響はまだ未知数な部分が多い。そのため、今回の実験ではほんのわずかな量を抽出しただけで止める予定だった。
「機材が止まらない……?」
「そんな……すぐに止めます!」
エリが慌てて機材に近づいたが、端末には停止させるための手順など表示されていない。完全に自分一人で組み上げた実験機材には、緊急停止装置など付いていない。
「先生……!」
どうしていいかわからず、涙をこぼして狼狽えているエリを見ながら、彼は初めて反省した。
「人を信用せずにいた結果がこれか……。君にだけは、せめて一人くらいは、誰かを信じて……」
彼が最期に見たものは、涙声で彼の名前を呼ぶエリと、淡々と彼の脳内から記憶物質を吸い上げる機材だった。
そして、彼が次に覚醒したのは異世界だった。
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