求められて間もない頃
ハローワークは今日も混んでいた。
町の風景はいつものように、茜色の彩色を羽ばたかせていた。どこかへと飛んでいってしまった一羽の小鳥。僕もあの鳥のように、自由へと飛翔することができたら…… ふとそう思った。ふと思っただけで、本気でそう考えているわけではない。
ハローワークの前には道路があった。二車線だが、車の往来は少ない。人間観察には持ってこいのエリアである。僕は歩道に設置されているベンチに座って、彼らの歩行する姿を見ていた。この時間帯だから歩道には会社帰りの人が多い。服装は皆同じだが、人の表情は一つとして同じものはない。もちろん、これは当たり前のことだ。でも、このベンチに座っていると、そんな当たり前のことがよく目につく。
木目が晒されたベンチで、僕は缶コーヒーを飲んでいた。コーヒーの匂いと味が、僕を支えているベンチの木理と重なって、異様な雰囲気を作り上げていた。ちゃんとした言葉で表現出来ないが、とにかく僕はこの雰囲気が気にいっていた。身体中がくすぐったくなるような幸福感が緊迫した心を包んだ。もう、そろそろ行かなければならない。怖がったところで何も始まらないのだ。
ベンチから腰を上げた。どこから来たのか、横風が僕を動かしてどこかへ連れていこうとする。きっと悪魔の誘いだろう。ハローワークに入りたくない僕の本心を見透かして、悪魔が僕に風を送ったのだろう。構うものか、僕は思った。確かに、本音を言えば、あんなところには出来ることなら入りたくない。これまで何回も僕はあそこに入ったが、上機嫌を手土産に帰ったことなんて一回もないのだ。あそこは怖いところだ。制御できないほどに狂った動悸がそれを示している。
僕はあからさまに深呼吸をし、あまりものを考えないようにした。道路も建物も、通行人もなるべく目に入らないようにして。たとえ目に入ったとしても、見えなかったと自分に嘘をつけばいいのだ。自分を騙すのは、ケーキを綺麗に四等分するよりも容易い。
僕は自動ドアの前に立った。
中年男性が僕の顔を見て、言葉を発した。
「今日もありませんね。求人情報は」
少し苛立ったような口振りだ。そんなに僕が厄介なのだろうか。まあ、確かに、僕はちょっと気難しいところがある。自分でこうと決めたら中々考えを曲げようとしないのだ。この性格のせいで今まで何人もの友人を無くしてきた。しかし、友人なんてものは結局、自分と同じ人種の人間である。類は友を呼ぶというが、あれがまさにそうだ。自分の分身みたいなものだから、居ても居なくても別に支障はない。
「どうされますか? 条件を絞らなければ、候補は多くでますが」
「いや、いいです」僕は手を仰いで拒否した。
僕は席から腰をあげると、待合室であるソファーの上に座った。夕日から延び出た光線が、自動ドアを突き抜けて僕の目の前に存在していた。ハローワークは今日も混んでいた。老人から若者。女性の姿も多く見られる。社会とはいったいどんな構造で出来ているのだろう。僕はふと思った。僕らが愛しているこの国。なのに国家の方は僕たちを愛してはくれない。これってどういうことだろう。
茜色の光が僕に何かを語りかける。必死に訴えているようだが、僕には残念ながら伝わらない。向こう側の言葉が分からないのだ。
僕は立ち上がった。疲れた体についた重荷を無理矢理払い落とすように。少しは払い落とせただろうか。僕は歩いて自動ドアに近づいた。ドアが開いた瞬間に、生暖かい風が僕の弱くなった身体を襲った。
ハローワークは今日も混んでいた。
はっきりしない天気が続いている。にわか雨も多い。こういう天気の流れが僕は一番嫌いだった。極端というのは聞こえが悪いが、ある意味分かりやすい利点があると思う。どっちつかずというのは精神的には一番辛い。
「今日はどうですか? 来てますか?」
僕は尋ねた。訊かなくてもすでに答えは分かっていた。
「そうですねぇ……」
彼はパソコンを使って、いつも通りの手順で調べ始めた。ぶら下げたネームプレートには「小泉」と書かれていた。
「誠に申し訳ないんですが、その条件ですと、ご希望通りになるのは難しいですね」キーボードから手を離し、小泉はこちらを向いた。「もう少し、条件を緩めたらいかがですか。こんな時代ですし、条件は最低限ものでなければ、厳しいと思いますよ」
「そうですか……」僕はため息混じりに言った。
「言っちゃ悪いですが、これじゃ理想の彼氏の要項を並べ立てる最近の女の子みたいですよ」
「はあ……」
「ともかくどうしますか? もう少し広くしますか?」
「いや、いいです」
「いいんですか」
「はい。どうしてもその条件じゃないと駄目なんです」
「そうですか……」
形式的な落胆を見せられた後に、僕は自動ドアへと向かった。今日も求人はなかった。多分明日も同じような結果だろう。
最近は時間の進みが遅い。だけど、一日の長さは短い。仕組みはよく分からないが、多分天の神様が僕の人生の方針を変えたのだろう。まったく、急な話だ。
僕は家のテレビをつけていた。昨日の夜に買った缶コーヒーを口にしながら――一人というのはこういうことを言うのかもしれない――別に、見たいものがあるわけではない。むしろテレビは嫌いな方だ。食ってばかりの有名人。体を張らない芸人。近頃は、人の悪口言って金を稼ぐ奴も現れてきた。
それでもなぜかテレビをつけてしまっている自分がいる。小さい頃からの習慣というのは怖いものだ。自分の意志に反して、自動的にリモコンを手にとってしまうのだから。なぜ僕は、こんな無駄な時間を過ごすためにここにいるのだろう。他に何か、自分のために出来ることは無かったのか?
陰日向をいったり来たり。僕はそういう生き物だ。
「今日もですか?」
「今日も、ですね……」
「そうですか」
僕は起立し、自動ドアの前に向かった。こういうものなのだと、僕は自分に言い聞かせた。
帰りの道で、寂しそうにしている夜のアパートを見つけた。僕は缶に入ったカフェインを口に含み、階段のところに座った。冷たい偏西風が僕を抱擁して、耳元にそっと声をかける。僕はどうしてか泣きそうになって、咄嗟に上を向いた。でも、駄目だった。上を向いても涙はぼろぼろ、ぼろぼろとこぼれ出てくる。生命を持った水滴が僕の首筋を伝って、心まで流れていく。一滴、一滴…… 徐々に水滴が溜まっていく。探していたそれを両手ですくう。一杯になった水溜まりを僕はひたすらに見つめていた。
アパートを離れ、国道を黙々と進んだ。ネオンと光の中心街。僕はそこを目指していた。
過ぎ行く風景が止まっているように見えて、僕は何も関心を持たなくなった。こんな感情を誰かに許してもらいたい。誰かに受け入れてもらいたい。一体僕の感情はどうなってしまったのだろう。
誰かに認められたい。誰かに尊敬されたい。名誉が欲しい。外では無欲や謙遜を振る舞って、内では密かに勝利のタイミングを見計らっている。でも、一人にもなりたがっている。僕はそういう人間だ。そうやって今まで、辛い人生の山脈を越えてきたのだ。
月光が見張る大都会。ここに来ると、僕は人が人でないように思えてきてしまう。人が多すぎるのだ。誰でもみんなかけがえのない存在だと言い聞かされて、それを必死に信じて、ここまで生きてきた。僕もその中の一人だ。でも、ここに来ると、その「かけがえのない存在」に疑問を抱いてしまう。本当に、ここにいる人全員が、みんな「かけがえのない存在」なのか? 誰か一人くらいはそれに値しない奴がいるかもしれないじゃないか。それは僕なのかもしれない。
でも、そう思い始めたら終わりだ。僕は頭のなかに住み着いた闇を放り出すと、ネオン街の道を突き進んだ。
名のついた通りには、今日も新しい曲が響いている。ストリートミュージシャンが歌う鮮やかな旋律のメッセージ。彼らの歌を聴いていると、ありふれた日常にも意味がそれぞれあるのだと思えてくる。綺麗事なのだけれど、その綺麗事にでさえ、意味があるように思えてくる。それはとても大事なことだ。それは…… とても大事なことだ。
僕は横のベンチに座って、しばらく向こう側にいるミュージシャンの歌声を聴いていた。人にぶつからないように上手く歩くのは疲れる。僕は家にいるときと同じように、立ち止まっていたいのだ。
ふいにやってきた眠気が僕の背中をさすった。花のように揺れた僕は、そのまま花園の中で意識を失った。視覚、嗅覚、触覚と順に消えていき、最後まで残ったのは聴覚だった。無名のミュージシャンの無名のメロディが、僕の耳に最後まで張り付いて離れなかった。
「今日はどうですか、求人きてますか」
僕は不安な顔で小泉に尋ねた。どうしてか、僕はまたハローワークに来ていた。
「きてないですね」彼は言った。腹正しさを圧し殺したような口調だった。
「はあ、そうですか」僕は同じような言葉を漏らした。いいかげん、いつまでこんな状態が続くのだろう。先の未来を想像し、少し怖くなった僕は立ち上がらずに、尋ねてみることにした。
「あんまり、欲張りすぎない方がいいんですかね」
「そりゃそうですよ」小泉は汗で濡れた額をタオルで拭った。「どこも今は厳しいですから」
「それはねえ、分かってるんですけど。どうしても譲れないところがありまして」
「譲れない、というと?」
「えっ」僕は聞き返した。
「だから、譲れないものですよ。あなたの」小泉はにんまりとした。
僕は全身から血液が無くなるような気分になった。譲れないもの? 何なんだ、それは。自分で言ったのに、それが思い付かない。具体的な例を提示出来ない。そんなこと、今まで考えもしなかったのだ。一回も。僕が返答に困っていると、小泉はまたにんまりとして、僕に言った。
「駄目なんですよ、それじゃ」
僕はびくついた。「駄目?」
「そうです。駄目なんですよ。あなたはその譲れないもののために多くの苦労を重ねている。私から見れば、それは愚かなことをしているようにしか思えません。そこまでして守っているものとは一体何なんですか? プライドですか? それともそれを許してしまうことによって起こってしまう様々なことについての恐怖ですか?」
僕はゆっくりと唾を飲み込んだ。ねばついた痛みが僕の喉を刺激してばらばらになった。プライド。恐怖心。そうだ。確かに二つとも、そうなのだ。
「その通りだと、思います。僕はずっと、怖がっていたのかもしれません」
「その怖がっているのを取り払ってはどうですか?」小泉が珍しく、優しい口調で僕に語りかけた。「どうですか、難しいですか?」
僕は激しく迷った。そんな実態のないものをいきなりどう判断すればいいのだ。第一、そんなものに易しいも難しいもないだろう。だけど、僕は答えを下すことにした。後でぼろがでるかもしれないが、その時はその時だ。僕は全身に寒気を覚えた。施設内のエアコンは機能していないから、やはりこの寒気は、僕から発しているものなのだろう。
僕は少し考えたふりをし、言葉を述べた。
「大丈夫…… だと思います。そいつも僕の提案に応じてくれたようですし」
もちろん嘘だ。でも僕は止まらずに続けた。
「奴は、多分、僕のことが嫌いなんだと思います。そうじゃなかったら、こんなことにはならなかったと思うし、でも、僕の方も悪かったのかな。奴の言葉を無視し続けていたから」
「謝りたい、ということですか?」
僕は黙って頷いた。
小泉は横のデスクにあるファイルを中にしまうと、穏やかな表情をして、僕の方を見た。もう、判断は下されているようだった。
耳に入ってくる小鳥のさえずり。
僕は目を覚ました。寝ぼけた目であたりを見渡し、驚いた。視界に映るのは、いつものハローワーク。そして無慈悲に感情が淘汰された、普遍の道。
僕は、ベンチの手すりに頭を乗せて居眠りをしていた。揺らぎ始めた『時の魔法』が、僕に真実を教えてくれる。木目の間から出てくる自然の香りが、僕を再び夢の世界へと導こうとする。僕は頭を振って、その催眠を解いた。
求められて間もない頃。最初に僕に求めに来てくれたのは、会社でも、企業でもなく、自分自身だった。自分を信じられなかった僕は、他人との圧力にも耐えることが出来なかったのだ。僕と相手との間を取り持つ斡旋役が必要だったのだ。
自分に求められて間もない頃。僕は自分に打ち勝つことだけを考えていた。自分を敵視して、それ以外のことは蔑ろにしていたのだ。僕は騒々しい虫の群れに、肌を見せないような生き方をしていた。それが普通だと思い込んでいたのだ。
でも、これからは違うのかもしれない。僕は立ち向かっていかなければならないのかもしれない。敵は内面にはいないのだ。小さいときから分かっていたつもりだった現実という波が、今になって、全く堤防が出来ていないことに気づく。愚かなことだ。心はそのままに、体だけが大人になってしまったのだ。
夢にも悪魔は潜んでいる。でも今回ばかりは、その悪魔に感謝しなければならないのかもしれない。僕に大切なことを教えてくれたのだから。
信号が青になり、横断歩道の白線が靴で埋められる。僕は思い切り起立すると、足枷が外れた時のような軽やかな足取りで、二車線の道路を渡っていった。
置いてきぼりにされた缶コーヒーが、ベンチの下で主人の帰りを待っていた。