2話
東京の夏は二〇五〇年も暑い。時刻は午後三時。窓からは、近隣のビルの隙間を縫って、白くくすんだ青空が見えた。幾分か進んだ温暖化の影響で、最近になって都内に進出してきたクマゼミがシャアシャアとうるさい。ワイシャツの襟は幾分か汗を吸って湿っている気がするが、袖をまくるには幾分か冷房が効きすぎていた。
ここは都内某所、僕らの所属する警視庁第十機動隊の収まる署だ。通称はシンボルマークの太刀から獅子王と呼ばれている。源頼政が都を騒がす怪物、鵺を退治した恩賞の太刀も同じ名前を冠しており、マークの由来もそうだ。格好はいいが皮肉にも感じられる。しかし、その通称よりも、一般にはキメラ機動隊とか呼ばれることのほうが多い。大塚のようなキメラ嫌いからは動物園とも呼ばれている。
【ヒューマノイド】中毒患者の事件から三日後、トラ頭の容体が安定したため、いよいよ取り調べが行われる。僕はマジックミラーをはさんだ小部屋からそれに立ち会う。
マジックミラーの向こう側、取調室の窓側には、先日のトラ頭がたくましい首と背を丸めて、パイプ椅子の上に縮こまるようにして座っていた。両の手は力なく膝の上で握りこぶしを作っている。雑居ビルの中で見せた威容は影もない。
「大戸さん、そんなに売人の情報を出したがらないのは何故です?」
「そーそー、言っちゃうと楽になるぞー?」
大戸と呼ばれたトラ頭の対面には、お気楽そうに言い放つジェフと、抜けるような低い声の大男が神妙な面持ちで座っていた。ジェフはワイシャツの袖をまくっているが、大男は背広をしっかりと着ていた。
「ここを出てからまた取引したいからですか?」
そう問う大男もまたキメラ症だった。しかしその容貌はいずれの動物にも属さない。顔の輪郭はボルゾイ犬に似ており、長毛の犬のような毛が生えているが、犬と違って鼻も同様の毛で覆われている。最も特徴的なのは後頭部から伸びる一対の炭酸カルシウムとコラーゲンの塊。すなわち角だ。全体を纏めて述べるのであれば、角の生えた羽毛恐竜、というのが妥当だろう。帳尻を合わせるかのように尻尾も太いものが生えているのだからピッタリな例えだと思う。トラ頭を見据える彼の黒い瞳は、かろうじてだが、確かに日本人なのだろうということをうかがわせる。黒いのだが、決して澱んだものではなく、晴れた夜のような落ち着きを持ったものだった。
大男は森本 金彦と言い、僕ら――キメラ機動隊第一分隊――の隊長をしている。彼はキメラ症のうちでは特殊なケースで、複合キメラ症とか呼ばれている、複数の動物を渡り歩いたようなウィルスが感染した結果である。聞いた話では、キメラ症ではレアケースにも程がある遺伝子を持っているらしいが、詳細は教えてもらっていない。
「……」
隊長の言葉を受け、ひと呼吸の沈黙の後、大戸はうつむいたまま小さく頷いた。
「おーい何言ってんだよー、オードさん、そんなんできるわけねーだろー。社会復帰できなくなっちまうぞ?」
ジェフが両の掌を天に向けやれやれと言ったように反応する。尻尾も同じようにくい、と天を差す。
「まあまあ、コンラート。そんなにすごいんですか。【ヒューマノイド】」
隊長はジェフを制し、大戸に尋ねた。
再び、しばしの沈黙。
「……ああ、すごいさ。半年前からヤってるがこれがないとどうにもならねえ」
大戸はようやく顔を上げたが、隊長たちからは目をそらし、マジックミラーの方、つまり僕の方を見た。彼にはおそらく自分自身の覇気のない顔が見えているのだろう。
「この姿が嫌になったこと、あるかい? あるだろ? そういうのが消えてなくなっちまうんだ。自由にできる。アレがあれば俺は万能なのさ」
大戸は背中を曲げた姿勢のまま、顔の前に出した自分の掌を見つめていた。毛の間に肉球が見え、指先には僕を引き裂こうとした爪。その手を二回、三回と確かめるように開閉すると、だらりと下げ、ため息をついた。同時に尻尾も垂れた
「……なるほど。幻覚、ということですか?」
「……」
具体的に聞こうとすると大戸は黙ってしまった。
「まあ、具体的なことはすぐにでもわかるでしょう。ただ、売人のことについて何も教えていただけないのであれば、ずっとこれは続きますし、なにより治療に移ることもできない」
三度、長い沈黙。ミンミンゼミの鳴き声が夏の暑さを助長する。
「……できることならよォ……あんなんナシでも生きていきてぇんだ……最初はバイトで言いがかりをつけられた腹いせだったんだ」
絞り出すように大戸は話しだした。拳を机に押し付け、うつむき加減に牙をむく。
「いつもどおりだったんだ、品出しして、レジに立って、唐揚げ棒売ってさ、いつもどおりの夜勤だったんだよ。それが初めて来たジジイの客がわめきやがった! 『ネコに店番させるなど衛生管理もクソもなってない』ってよ!」
せきを切ったように大戸のトラ頭から怒りが溢れ出した。声と声の合間には、大戸の腕力に、取り調べ用の机が上げる悲鳴が聞こえる。
「店側のマニュアルに従って手袋だってはめてたし、俺はもうあの店で四年も働いた古い方さ! だがアイツが喚いてネットに写真を流してから、俺は夜勤を外された! 収入は激減さ!」
目を見開き、怒号にも近い声で訴える大戸の表情は、獣というより人間のそれだった。
「挙句親のことまで罵られた!異常な親に違いないだとか、どうせまともじゃないだろうだとかな!」
キメラ症は確かに人間から生まれる正真正銘の人間のはずなのだが、見た目のこと、エイズにも似た性感染症でもあることから差別を受けやすい。
キメラ症は感染すると姿が変わる、というものではない。メカニズムが複雑なため理解されにくいのも差別の原因の一つだろう。メカニズムはこうだ。親がまず何らかの形でキメラ症ウィルスに感染する。親の体では一部の細胞で遺伝子のすり替えが起こり、他の動物の遺伝子由来の蛋白質が作られるため、拒絶反応を起こす。具体的には、慢性的にひどい風邪のような体調不良を起こす。すり替えは精子や卵子にも及び、そこからできた子供は動物の遺伝子が免疫の完成前からあるため、拒絶反応もなく、異形に、頑健に育つ。
マジックミラーのむこうの大戸も、その異形と出自で苦労したことだろう。
「……ああ、すまねえ、お巡りさんにこんなこと言ってもしゃあないよな」
気がついたように大戸は顔をあげた。申し訳なさそうな顔をしている。どうやら根は凶悪ではないようだ。
「いえ、大丈夫ですよ」
隊長は目線を合わせてゆっくりと答えた。ジェフは、口を真一文字に引き結んでいた。その青い瞳はいつものような気楽な光ではなく憐憫に曇っていた。
僕らキメラ機動隊はキメラ症関連犯罪取締のための部門だが、日本がキメラ症の雇用に関して寛容な方針を打ち出したため、諸外国からのキメラ症が流入してきたことに端を発する。流入してきたやつらの中には荒くれ者も多い。その対策と、キメラ症雇用のモデルとして様々なキメラ症を警察官として雇用したというのが設立の経緯だ。ジェフも日本に流れてきたうちの一人で、母国アメリカでは相当苦労した、というのを聞いたことがある。日本に帰化したのち幸運にもここに採用されたが、大戸の経緯には同情するところもあるのだろう。
大戸は、隊長の言葉に息を一つついて、続ける。
「そんな時さ、あのネズミ野郎と会ったのは。なんてことはない、飲み屋で向こうから寄ってきたんだ。妙に馴れ馴れしかったが、いいやつだと思った」
ついに大戸が売人に関する供述を始めた。隊長は変わらぬ黒い瞳で見つめている。ジェフはハッとしたように目の色を戻した。
「あいつぁ曽根って名前の奴だ。なかなかいい仲間がいねえのか、同類の俺にはベラベラと話してよォ、まるで友達でも出来たかのようだったさ。酔った勢いだったとは思うが、仕入の話までしてたぜ。バカだよな。吸う俺もバカだけどさ」
自嘲めいて大戸は笑う。相当売人の曽根と仲が良かったのか、一抹の寂しさをたたえた表情を見せたが、意を決したように次の言葉を紡いだ。思わず僕も食い入る。
「アイツが言ってた仕入れ場所は埠頭の倉庫だ。ありがち過ぎて笑っちまった」
大戸は目尻を下げて苦笑いを見せた。やはり人間臭い笑みだ。
「具体的な場所は?」
隊長が先ほどと変わらぬ声色で問う。
「たしか、クラ倉庫だかなんだかいう会社が協力してるとか言ってたな。これくらいさ、俺が知ってるのは」
もはや大戸は薬に未練を持っても仕方ないと思ったのか、椅子に完全に背を預け天井に向けて大きく息を吐いた。
「わかりました。ありがとうございます。確認ですが、クラ倉庫というのは間違いないですか? 何かの聴き間違えとか、そういうことは?」
隊長は今までどおりの、黒い玉のような瞳で問うた。
「いや、クラであってる。誓って間違いない」
大戸は隊長に二度向き直るとそう答えた。
「わかりました」
そう言うと隊長は目つきを変えた。黒い瞳が射抜くような光を帯びる。
「コンラート、関東一円のクラって名のつく倉庫を調べてくれ。あと曽根ってネズミのキメラ症も。苦手かもしれんが、一応同じ読みの漢字は片っ端からだ」
その視線を受けたジェフは、まるでスイッチが入ったかのように背筋を伸ばした。
「了解っ、早速始めますっ」
彼はハスキーボイスでそう答えると、早足で取調室を出て行った。
扉が閉まる音。
「あの大戸さん、ようやく話したわね」
同時に僕の隣で囁く女の声。驚いて振り向くと、そこには浅黒い肌に巻き毛の女が、腕を組んで立っていた。細いブラウス姿は背筋がしゃんと伸びている。
「うおっ、マリか、いつの間に」
「大戸さんがちょっと怒鳴ってた時くらい?」
いたずらめいた笑みを見せる彼女は小嶋 マリという。同僚の健常者の女性で医師免許取得者、そして、僕の恋人だ。
「ジェフを手伝いましょ。いつものことだけど、この手の仕事、彼一人じゃ心配だわ」
その言葉に僕は頷いて、彼女について部屋を出る。
廊下に出ると、ちょうどジェフが曲がり角のむこう、オフィスの方へ向かうところだった。尻尾があとを引くようになびき、見えなくなる。
マリと並んで歩く。僕よりふた回りほど背の低い、一六五センチほどの彼女は、仕事ではあまりスカートを履くことがない。ズボンの方が動きやすいからとのことだ。何の因果かわからないが、キメラ症関係の外科医だった彼女は自ら志願してここに来たらしい。一度理由を聞いたことはあるが、そのときは細かいことは教えてもらえなかった。
「クラ倉庫に出入りする曽根ってネズミ頭の男か。曽根の方は調べないとわからないけど、クラっていったら何か聞き覚えがあるな。クラ、クラ……」
僕は情報を整理し直して、記憶をたどる。思い当たる節は一つくらいだ。
「仮に漢字一文字の『蔵』なら最近準暴力団の指定を受けた『蔵組』があるけど、キメラ症関連の事件なんてあったっけ?」
準暴力団というのは、指定暴力団、いわゆるヤクザのような組織性はないが、集団的かつ常習的に暴力行為を行うものと、二〇一四年三月に定義された反社会勢力のことだ。大型の暴走族などのOB達の結束や人脈が前身となっている。飲食業や性風俗などの仕事をこなしつつ、詐欺やドラッグなど、裏の金を生み出す縄張りを暴力によって維持している。
「蔵組ねえ、キメラ症関連の事件は聞いたことないし、薬がらみの事件を起こせるほど大きい集団じゃなかったはずだけど?」
マリは顎に手をやり、考える。
「それに、仮にクラ倉庫なる会社が蔵組の隠れ蓑としている会社なら、蔵組が通常の暴力団並のかなり大きな力を持っているということになるわ。でも、調べてみないとわからないわね」
「そうだよなあ」
マリの言うとおり、指定暴力団はそれそのものの事務所のほか、社会に溶け込む上で隠れ蓑とする企業を作っていることがある。一方蔵組は事務所を持たない集団だ。人脈自体がチームの本体で、特定の事務所などを構えたりはしないが、全てそうではないと言い切れない。
角を曲がると少し先に第一分隊オフィスが見える。
「しかし蒸し暑いね、猛暑日だったっけ?」
廊下は冷房が効いておらず、まるで陽炎でも立ちそうな熱気がこもっている。少し歩いただけでも汗が吹き出そうだ。
「たしか最高気温三八度だった。ジェフも隊長もつらそうね、隊長は特に」
聞いただけでうんざりしそうだった。この間の雑居ビルの一件の日も、このぐらいの暑さだったが、よくあの中で大戸もあれだけ動いたものだ。隊長に至っては滅多に背広を脱がない。
「隊長、背広脱いでもワイシャツの袖まくらないもんなあ」
「家ではどうしてるのかしらね」
「一回聞いたことがあるけど、冷たい水のシャワーで大丈夫だってさ。ジェフもおんなじ」
「隊長はともかく、よく日本に来る気になったわね、ジェフも」
「あいつはさすがに薄着なんだって。なんでも来日当初は熱中症で倒れたとか」
「意外ね。体力ありそうなのに」
「でも最初の一年で慣れた、ってさ」
「そのときはどこにいたの?」
「新潟だって」
そうこう話しているうちにオフィスの前だ。
扉を開けるとほどよい冷気が迎えてくれた。窓際の奥の席ではジェフがコンピュータ端末でさっそく調査を始めていた。先ほどスイッチが入った時のような表情のままだった。ほかの隊員は別件でまだ帰ってきていない。牛頭のグスタフと獅子頭のコージは、暴力団同士の抗争を、傷害事件として追っている。事件にキメラ症も一部噛んでいるらしいからだ。やはり彼らも、大塚とはしょっちゅうかち合っているらしい。【ヒューマノイド】事件と無関係ではないのだろう。前の報告では、なんでも刀をもった人斬りがいるとの噂だが、これはヤクザの冗談にしか思えない。
「ジェフ、手伝うぞ」
僕の声にぴくりと反応すると、いつものどこか気楽な表情をもどした。
「あ、ケイシン、マリちゃん、サンキュー。結構それっぽいところがありそうでさ、リストアップするからちょっと待っててくれ」
「ジェフどうした? いつもとちょっと違うが」
「んー? 別に、大したことじゃねえよ」
そう言ってジェフは苦笑いした。普段はお気楽なジェフだが、やはり大戸の話にどこか思うところがあったのだろう。調書を見て、大戸が二十歳すこし過ぎの若者だったと知った時も、ジェフは一瞬だけ目つきを変えていたのを覚えている。自分の若い頃に重ねたのかもしれない。
「そうか」
僕は彼の向かいにある僕のデスクにつくと端末を点ける。
「ジェフ、これってリストの一部?」
印刷機から出ている資料を手にマリが尋ねた。
「あー、単にネットで検索かけただけのだけど」
「私これから調べてみるわね」
「あ、頼むー」
各々調査を始める。埠頭にあるクラ倉庫に、曽根とその仕入先、【ヒューマノイド】。もし倉庫の名前が蔵倉庫とかいう名前だったらとんでもないネーミングだが、危険なドラッグを元手にキメラ症から金を巻き上げようという魂胆があるならそれ以上にとんでもない。僕はキメラ症関連の犯罪データベースから関連しそうな事件について調査を始めることにした。
うるさいクマゼミに紛れて、今日初めて、ヒグラシの鳴き声が聞こえた。