1話
蒸し暑く薄暗い雑居ビルで、男と対峙する。
部屋にあった応接セットは粗大ゴミのごとく蹴倒され、本棚はひっくり返り、その中身をぶちまけていた。
自分にも聞こえるほどの呼吸を整え、間合いを図る。互いに、一足で一撃が入る距離だ。その間には、窓から入る光が部屋を舞う埃に反射している。
男の目付きが肉食動物のそれに変わると、一歩、鋭く踏み込んできた。
右の拳がこちらに向かってくる。体を反らし、なんとか避ける。援護のはずの相棒はまだ来ない。
左の拳がこちらに向かってくる。毛のびっしりと生えた手先に、獣のごとき爪が光り、それが僕の顔めがけて進んでくる。これは避けきれない。
背筋を電流が走り、腕にそれが伝わる。その腕で男の手首を払い除け、つかみ、そして全身の力で投げ飛ばした。
男は地面に激突せんというところで受身をとった。一八〇センチはありそうな体格の割に、ネコのごとく静かな着地だ。そして、体勢を立て直しつつ男は叫ぶ。
「畜生! いいとこの邪魔しやがって!」
僕も身構えて相手を見据えた。
男の口に並ぶ牙には、唾液が糸を引く。それが納まる頭は、木の幹ほどもありそうな太い首の上に乗っている。耳は頭頂部にあり、大きく薄い。全身は黄色と黒の縞の毛皮に覆われていた。まさしくトラ頭だ。
そしてその目は瞳孔が開いている。呂律も怪しく、典型的な麻薬中毒の症状を示していた。
「この、クソがぁっ!」
トラ頭はそう叫び、低い姿勢をとった。発達した広背筋と大胸筋を引き絞り、腕を振りかぶる。その先には五振りのケラチンの刃。
彼は地を蹴り、飛びかかってきた。
僕は同時に一歩踏み込む。
爪が振り下ろされる前に、左肩の一撃をお見舞いする。がら空きの右脇腹に肩が食い込み、トラ頭はよろめいた。その衝撃は、背骨を通じてこちらの脚にまで伝わってくる。
振り上げられたままのそいつの右腕、その手首を左手で捕らえる。二の腕に右手を滑り込ませ、掴む。腰を落とし、足を踏ん張る。そして、首を、肩を、腰を、尾を一気に旋回させ、今度こそ地面に叩きつける!
鈍い音を立てて、トラ頭は床に大の字になった。タイル張りの床が割れ飛び散り、本棚から零れたフォルダが、大ぶりな紙吹雪を吐き出した。一本背負いをもろに受けたトラ頭は激しく咳き込み、唾液を撒き散らし、戦意を喪失した。
雑居ビルの一室にはトラ頭の咆哮にも似た呻きが響く。それを気にすることなく、彼に手錠をかけた。
「トカゲの分際で……」
そう、彼に負けず劣らず、僕もトカゲのような容貌をしている。腕を含めた全身には緑色の、タイルのようなウロコがびっしりと生え、顔は前後に長く、口はトラ頭のそれより大きい。彼にも尻尾は生えているが、僕のはもっと太く長い。
「十三時二八分、被疑者確保」
ようやくひと仕事を終えた。窓からそそぐ夏の日差しは、空の色を溶かして青いようにも見えた。が、部屋は相変わらず埃っぽく、その乱反射が眩しかった。
結局相棒は援護に来なかった、そう思った瞬間だった。
「どっせーい!」
隣の部屋から相棒の掛け声が聞こえると、木製の扉を突き破って、ネコ頭の男が吹っ飛んで来た。それに続き、見事な飛び蹴りの姿勢でハスキー頭の相棒が飛び入ってきた。足先までが真っ直ぐと伸びた芸術的な動作だ。
「ぐわーっ!」
ネコ頭は何故か頓狂な叫び声を上げ、地面を転がり壁にぶつかると、気絶した。ちょうどその上にあった窓からは花瓶が落ち、ネコ頭の狭い額に墜落し、割れた。花瓶の中は干上がっていたのか、水が零れることはなく、代わりに枯れた一輪挿しがネコ頭の上に乗っかった。
相棒は地面に着地すると、すっくと立ち上がり、背筋を伸ばしてこちらに向き直った。青い瞳が窓からの日差しに光る。そして手を軽く挙げて声をかけてきた。
「お、そっちも終わってたか! ケイシン、お疲れ!」
「いいから早く手錠だ、ジェフ」
僕の名前は、小田原 景進。そして相棒は、ジェフリー・コンラート。あだ名はジェフ。
この部屋にいる僕らは皆、キメラ症候群というウィルス感染症で、生まれたときから人間の見た目をしていない。獣人というとわかりやすいだろうか、そういった見た目をしている。
「あーそうだった、よーし、十三時三〇分、確保ー」
相棒は低くかすれた、本当に冗談のようなハスキーボイスでそう言うと、ネコ頭に手錠を乱暴にかけた。
「いってぇ!」
ネコ頭はすぐに気がつき、毛むくじゃらの四肢をジタバタさせた。どうやら手錠に毛が絡まって何本か抜けたらしい。早急に捕縛して正解だったようだ。
「おいジェフ、また変なことすると始末書モンだぞ」
僕はトカゲ頭を両手で抱えて、相棒の破天荒さ、もといおバカさ加減にため息をついた。
「あー前もそんなことあったっけ?」
相棒は頭のてっぺんにある耳をぴくぴく動かしながら思い出そうとしている。青い瞳もあいまって、見た目に愛嬌はあるのだが。
「あーもう、いいから本部に連絡するぞ」
僕は顎の付け根、皮下に埋め込まれた無線のスイッチを押す。しこりが蠢くような感覚に続けて話す。
「こちら第一分隊の小田原です。被疑者二名を確保、【ヒューマノイド】中毒につき医療チームを含めた応援を頼む。どうぞ」
「了解、至急救急車一台を手配、応援を向かわせます」
骨伝導型の無線機から、頭に直接響くような返答が返ってきた。
しばらくすると、救急車とパトカーのサイレンがやかましく合唱しながら到着した。どやどやと、部屋に救護班と警官たちが入ってくる。
僕は手錠で捕縛していたトラ頭を、同じ署の警官に引き渡す。
「ご苦労、さまです」
彼とはほとんど面識がなく、たまに署内で顔を見るという程度なのだが、いざ話すとなるとどぎまぎされる。彼は健常者で、いわば普通の人間だ。平均的な日本人の体格をしており、一八五センチある僕からすると少し見下ろす具合になる。彼からすると僕のような容貌は威圧的になるだろうが、間近で見たことはないのだろう。視線をいろいろと感じる。
「やっぱり、気になるかい?」
試しに聞いてみた。
「え、あ、いや、その、そんなことは……」
やっぱり気になるのだろう。おとぎ話に出てくるようなトカゲ人間が背広姿で、自分にトラ頭のジャンキーを引き渡してくるのだから。ちなみにズボンのベルトは尻尾の上を通っており、尻尾は専用の穴を通している。
「大丈夫、慣れてるから。それよりそいつ、病院までよろしく頼んだよ」
「はっ、はい。ほら、こっちへ。まずは病院だ」
先程まで僕をねじ伏せようとしていたトラ頭は、先ほとは打って変わって、虚脱していた。取っ組み合いの結果、あちこち埃まみれだ。薬が切れたのか、口をぽかんとあけ、唾液が口の端から垂れている。そしてとぼとぼと、健常者の彼に引かれて、扉の方へと歩いて行った。足取りは左右にふらつき、尻尾はただの飾りのように、力なく揺れている。途中、一瞬こちらを振り向いて、うらめしそうな、悲しそうな視線を投げかけてきたが、僕はそれを見ないようにした。
僕は先程までの取っ組み合いでかいた汗をようやく拭いた。一応、汗腺は機能しているので汗はかける。
「また【ヒューマノイド】中毒者か。それも二人も。今月入って何人目だ?」
そうしていると、ネコ頭の方を引き渡し終えたジェフがこっちに来た。
「もう七・八人じゃないか? まだ八月の半分も過ぎてないのにな。先月は二人だろ?」
「多いよな。なんかヘンだ」
「僕もそう思う。こんなに出回るものじゃない。おかしい」
「うちも忙しくなってきたもんだな」
今月になって摘発が急増している新型麻薬【ヒューマノイド】は一部キメラ症の間で流行っている。古くは脱法ドラッグとか、危険ドラッグとか呼ばれていたものの一種だ。脱法、とはいっても【ヒューマノイド】の成分と作用は現在解析中で、判明しだいすぐにでも違法なものになるだろう。
「まったく、ケダモノ臭いな、ここは」
ふと、渋い声が響いた。トラ頭と入れ替わりに入ってきたのは痩躯に無精髭のくたびれた刑事だった。猫背のそいつは、健常者の刑事、大塚だ。
「応援に駆り出されたと思ったら、なんだ動物園のデコボココンビじゃないか、脱走か?」
大塚はタバコをふかすと憮然とした表情を見せた。面倒な奴が来た。
「てめぇオーツカ! また首突っ込みに着やがって、オメーの仕事じゃねーんだよ!」
「悪いね、大塚さん、ジェフの言うとおり、あんたの出る幕じゃないよ」
僕はこの痩せぎすの刑事が苦手だ。とっととお帰り願いたい。こいつはキメラ症嫌いで、それ絡みとなると管轄を超えてまで首を突っ込んでくる。
「おーそうだろうな。やることやったらすぐ帰るさ。ケダモノ臭くてかなわん。もっとも、さっきのネコ共がヤクザじゃなくて幸いさ。ヤクザでキメラなんて最低すぎる。お前ら、せいぜい猟師に狩られないよう気をつけな」
「大塚さんこそ、ヤクザに噛み付かれないように気をつけなよ」
皮肉に皮肉で返してやった。大塚はタバコを更にふかすと、そのへんにいる鑑識たちに声をかけ始めた。
彼は今、ヤクザ絡みの事件を追っているらしい。最近はヤクザ連中の抗争が際立っている。【ヒューマノイド】をはじめとしたドラッグは彼らの資金源となっているから、彼とはよくかち合う。正直うんざりしている。
猟師というのはネットで話題の海外の猟奇殺人鬼だ。キメラ症をよく狙うというのが特徴で、最近は日本に潜伏しているという噂があるが、真偽のほどは定かではない。
「くそ、またあいつか。なんだってここに」
「さて、ね。わからなくてもいいだろ?」
思わずため息が出てしまう。ジェフも同様だった。
「しかし、どんなクスリなのかねえ? あのトラ頭のジャンキー、えらくキマってたけど」
気を取り直すようにジェフが言った。トラ頭が気にかかるのか、耳が伏せがちだ。確かに僕にも、あいつは重度の中毒者に見えた。先ほどの取っ組み合いの中での獰猛さと真逆に、えらくおとなしく、しかもどこか、夢から覚めたような、そんな気分をたたえたあの悲しい目つきは、どこか異常なものを覚える。
「確かに今日のは重症だったけど、【ヒューマノイド】中毒はみんなあんなだよな。やけに元気がいいと思いきや、あっという間にべろんべろん。キメラ症ばっかが吸っちゃってさ」耳をピクピクとさせながらジェフはそう続けた。
「それはともかく、ジェフ、援護にこれなかったのはどうしてだ?」
「わりい、あのネコに手間取っちまった。やたら逃げ足早くてよ、部屋の中ちょろちょろ跳び回るもんだから」
「本当か。元体操選手のお前が?」
「まさかネコの見た目してるとは言え、仮にも人間のあいつが、壁に張り付いたりするとはな……」
半ば信じられないが、元体操選手で格闘に長けたジェフが手こずるのだから、本当なのだろう。キメラ症は、原因となるキメラ症ウィルスによって人間の遺伝子を動物の遺伝子と大規模にすり替えられており、高い身体能力を持つことがしばしばある。僕もジェフもご多分に漏れず、頑健な肉体を手に入れている。
「普通の警官だったらどうなってたことか、まあよかったよ、ケイシン」
「よくないよ、後一歩で顔の肉えぐられてたんだからな。相手が素人だったからなんとかなったけどさ。それに……」
「それに?」
「僕らにしか回されないからその話は無意味だろ」
「ああ、そうだったな」
そう、目には目を、歯には歯を、キメラ症にはキメラ症を。僕らは、キメラ症関連事件を一手に引き受ける警察の一部門なのだ。