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覆面ヒーロー

 あたしの家の近所には変態が住んでいる。

 そのことに気がついたのはつい、この間のことだった。


 学校帰りにネギのとび出たバックを肩にぶら下げた男とすれ違った。それになぜか違和感を覚えたあたしが後ろを振り返ると、そこには当たり前だがすれ違ったばかりの男が背を向けてのんびりと歩いていた。

 別になんら変なことはない。


 ――首から上が馬でなければ。


 何度瞬きをしても、変わらない。

 馬だ。どう見ても馬。馬男だ。

 オレンジ色の太陽が照らす住宅街に買い物バックを持った馬男。おかしい、絶対おかしいでしょ、コレ。

 異様な光景に振り返った体制のまま固まるあたしをよそに、馬男はアパートの敷地内へと入っていった。

 姿が見えなくなったところで、自分が中途半端な体制のまま固まっていたことに、はっと気がつく。金縛りが解けたあたしは数十メートル先の我が家へとダッシュで駆け込んだ。


「う、うううう馬! 馬男!」


 帰って来るなり叫ぶあたしを、お母さんは「あー、おかえりー」と呑気に出迎えた。


「ただいま……ってそうじゃなくて! 馬! 馬の頭した男が!」

「はあ?馬? 何言って……あ、それきっとフクダさんよ。今日は馬の被り物していたし」

「フクダさん……?」


 あっけらかんと答えたお母さんは綺麗に髪をひっつめて、パートに行く時の格好をしていた。確か今日はお休みの日だったはずなのに。


「それより、お母さんちょっと急に仕事に行かなきゃいけなくなったから、悪いけど留守番よろしくね、理緒(りお)

「あ、うん」

「カレー作っておいたから、時間になったら温めて食べて。(まなぶ)もそろそろ帰ってくると思うからよろしく」

「……分かった」

「ごめんね、いつも」


 そう言って眉尻を下げて笑うお母さんを玄関で見送った。

 晩ご飯はカレーかー。どうせならカツカレーが食べたかったなー……っは!

 結局、フクダさんって誰なわけ?



 結局、その日は馬男ことフクダさんが何者なのか何一つとして分からなかったが、あとでお母さんに聞いたところによると、ご近所さんで、あたしが初めて目撃した時に入っていったアパートの住人らしい。お母さん曰く「ちょっと変わった人」。


 え? ちょっと変わった人? だって馬頭だよ? どっから見ても不審者じゃないか。何でそんな平然としてんの?


 他の家族にも聞いてみると、弟の学曰く「面白いオジさん」、お父さん曰く「面白い青年」。

 面白いってなんだ。親子そろって同じ感想ってどういうこと。確かに見た目はちょっと間抜けな感じだったけどね、もうちょっと危機感を持とうよ。

 親が親なら子も子ってわけ? この似た者親子! お父さんは一家の大黒柱としてもっと、こう、他に感心を持たなきゃいけないところあるでしょ!


 ……だめだ、この家族。不審者をフツーに受け入れちゃってる。だって、あんな変な格好して街中歩くなんて、絶対変だ。怪しすぎる。

 あたしがしっかりしなきゃ。平和ぼけぼけな両親の代わりに何とかしなきゃ。


 ・・・


 あの馬男、名前は覆田(ふくだ)影面(かげつら)というらしい。……ヘンテコな名前。ホントに本名なのかも怪しい。あのアパートには今年の四月に引っ越してきたそうだけど、二か月も前から近所に不審者がいたなんて、全然気が付かなかった。


 まず、あたしは覆田サンが何者なのか調査することにした。あれだ、彼を知り己を知れば百戦あやうからずってヤツだ。たぶん。

 近所の人に話を聞いたり、彼を見かければ遠くから動向を観察した。

 けれどあの不審者の顔は一向に分からないままである。

 毎日のように何らかの被り物を装備しているのだ。その上、人前では絶対に外さない。しかもオシャレのつもりなのか日替わりで被り物は変わる。


 最初の馬なんてカワイイ方だった。


 そう思いながらドシャ降りの雨の中、あたしの前方少し進んだところに傘も差さず、こちらに向かって歩いてくる不審人物を見る。六月という雨の季節に傘を持たず出かけるなんてどうかと思うけど、それどころではない。

 あれは、紙袋……?

 水をたっぷり吸ったそれはその人物の頭にべったりと張り付いていた。紙袋は目元にしか穴が開いていないのか、心なしか息苦しそうに肩が上下している。こんな不審者は一人しかいない。覆田サンだ。

 ……取れよ、そんなに苦しいなら。

 そんなことを思っていると、ふらふらと歩いていた覆田サンがあたしの目の前で倒れた。ビタンッて、音がなるんじゃないかと思うぐらい勢いよくコンクリートにこんにちはしてからピクリとも動かない。……え、これ、ヤバいんじゃ。


「だ、だいじょぶですか?」


 返事がない、ただの屍のようだ。恐る恐る声をかけてみても何も起こらない。


「う……だ、だい、じょ……」


 指先が少し動いたと思ったらうつ伏せのままの覆田サンから蚊の鳴くような小さな声が聞こえてきた。なんて言っているのかは分からないけれど、取りあえず生きているみたいだ。

 よかった、屍じゃなくて。


 反応はあっても、うつ伏せに倒れたまま起き上がらない覆田サンの様子が気になって、側でしゃがみこんで顔をうかがってみる。……どっちが顔だ。

 ぐしゃぐしゃの紙袋のせいで、左右どちらに顔が向いているのか分からない。もしかしたら額を地面に擦り付けた状態なのかもしれない。そう思ってまじまじと観察をした。

 目があると思われる所に小さな穴がたくさん開いているのを見つけた。その下にはペッコリと窪んだ所がある。あ、窪みがなくなった。

 肩の動きと連動して窪みが出現しているみたいだ。

 こっちが顔なのか。


 ものすごく息がし辛そうだ。このままじゃあホントに死んじゃうかもしんない。


「これ、取ったらどーですか」


 紙袋だったこげ茶色の物体を指さしながら最もな提案をすると、それまでぐったりとしていた覆田サンが急に首を横に激しく振り出した。

 ビックリしたあたしは飛び跳ねるようにして立ち上がる。

 そ、そんなに取るのイヤなわけ。

 まだ首を振り続ける覆田サンと少し距離をとって、話しかけてみる。この激しさ、消えてしまう直前のロウソクの火みたいだ。このまま放置していたら死ぬ絶対。


「は、鼻と口あたりに穴開ければいいんじゃないですか……?」


 ピタ、動きが止まる。数秒そのままの状態が続いた。……ついに死んだ?

 と、思ったら、のそりと上半身だけ起き上がって震える手でいそいそと穴を開け始めた。雨に濡れているおかげか、ビリっと裂けることなく穴が開く。


「……っぷあ!」


 覆田サンは大きく息を吸い込むと、両手を地面についてうな垂れた。

 ゼーハー言いながら呼吸を落ち着かせようとしている。もう帰りたい。


「あ、ありがとう……助かったよ」

「はあ」


 バカだ。この人、絶対バカだ。


 思い浮かばなかったの? フツー真っ先に取ること考えるし、できなかったら穴開けようとするでしょ、フツー。

 そもそも、なんで梅雨に傘を持っていないの? そこからおかしい……いや、それ以前に紙袋を被っているのがおかしいから。


「なんで、そんなに取りたくないんですか、それ」

「えっ……」


 あたしの言葉が意外だったのか驚いたようにこっちを見て固まる。えっ、て言いたいのはあたしなんだけど。絶対、よく聞かれるでしょ。

 なぜかもじもじとし始めた。ちょっと気持ち悪い。


「……は、恥ずかしいから」


 雨音にかき消されそうな小さい声だった。


 ……え、本気で行ってるの? 今の格好の方が恥ずかしいと思うんだけど。

 気を取り直すように、コホンッと一つ咳をつくと、立ち上がった覆田サンは「気をつけて帰るんだよ」と言い残して雨が降る中、歩き出した。その足取りはふらふらとして頼りなかった。

 いや、あんたが気をつけろよ。



 このあとも覆田サンを度々目撃することになった。


 ある日はご近所のおばさま方の井戸端会議の輪の中に混じって、どこそこのスーパーはなになにが安いだのなんだのとフツーに会話をしていた。その時の被り物はファンシーな猫だった。


 またある日は近所のがきんちょ共の遊び相手になっていた。

 途中、被り物を取られそうになった覆田サンは取られないように両手で押さえて素早い動きで電柱の裏に隠れた。大の大人が震えながらそっと電柱の影から子どもたちの様子をうかがうように見る姿はすっごく情けない。がきんちょ共もその様子に困りながら覆田サンに謝っている光景は異様だった。ついでにその時の被り物はパンダである。


 そのまたある日はスーパーの特売戦争に参加していた。

 家庭の胃袋を支える主婦という戦士の前で、覆田サンは無力だった。弾き飛ばされてスーパーの床の上に崩れ落ちる。気分も落ち込んでいるようだった。彼の周りだけどんよりと暗い。この時は動物じゃなくてサングラスをかけたアロハなサンタクロース、略してグラサンタだった。季節外れも良い所だ。


 ……それにしても近所に馴染み過ぎだ。誰も通報とかしないの? 不審者の話とか聞いたことないし、通報されたこともないのかな。だから二か月もの間、存在に気が付かなかったわけか。大丈夫なの? この町。


 この数日で覆田サンについて分かったことと言えば、日替わりの被り物、近所に馴染んじゃっている、被り物を外すことをすっごくイヤがる。て、くらいで何者なのかまったく、全っ然、分からないままだった。



・・・



 学校帰りにいつもの道を歩いていると、見えてきた我が家の前でお母さんと話す覆田サンがいた。

 なんでいんの。

 遠くから観察はしてきたけど、あの雨の日以来、直接かかわるのは避けてきたのに。あんな変な人とはかかわり合いたくない。精神力がゴリゴリ削られるだけだ。

 ちょっと遠回りしようかな。

 なんて弱気な考えが頭の中をサッと横切ったけど、すぐに負けず嫌いなあたしが前に出てきた。

 自分の家に帰るのに、なんであたしが遠回りしなくちゃいけないの。

 ここで覆田サンを避けたら、なんだか負けるような気がして少しムッとする。

 大股でずんずんと家に向かった。


「あ、理緒。お帰りなさい」

「ただいま」


 お母さんがあたしに気が付くと、覆田サンもあたしの存在に気が付いたみたいだった。

 今日は牛かよ。

 ドッキンホーテなんかで見かけるちょっとリアルなヤツだ。しょーじき気味が悪い。

 そして手には透明なビニール傘。今日は朝から雨なんて降っていないのに、なんで雨の日に持ってなくて今持ってるんだろう。やっぱりバカなの?


「こんにちは」

「……こんにちは」


 目がギョロッとした厳めしい顔の牛は穏やかに挨拶をしてきた。例え、相手が変態でもあたしは礼儀知らずじゃないから、ちゃんと挨拶を返す。ムッとしたままなのはしょーが無い。


「あれ? 君……」


 あたしを見て覆田サンは牛の顎あたりに手を添えて何か考え始めた。いや、あんたの顎はそこじゃないだろ、絶対。

 お母さんが目で「あんた、何したの?」と訴えてくる。

 あたしは何もしていない。実に心外だ。なんで素顔をさらさないヤツが誰にも疑われず、町に溶け込めて、あたしは母親に疑われなくちゃならないんだ。世の中理不尽で不平等だ!

 あたしが世の中を嘆いていると牛が両手をパンッと叩いた。


「思い出した、君はあの時の子だね!」

「あの、うちの子が何かご迷惑を……?」

「え、いえそんな! むしろ逆です」


 覆田サンは慌てたように手を振りながら首も左右に振る。そのまま勢いで牛頭、飛んでかないかな。すぽーんって。

 それにしても気が治まらない。絶品シリーズの『絶品なめらかぷりん』を買ってもらわなくちゃ。それ以外は認めない。


「困っていたところを助けてもらったんです」


 助けた覚えはないけれど、この間の窒息死しかけていた時のこと? 覆田サンと接触したのはその時限りだ。


「あの時はありがとう。西島(にしじま)さんのところの娘さんだったんだね」

「はあ、」


 ギョロ目の牛にお礼言われてもなあ。……いでっ。

 どう反応していいのか分からなくて気の抜けた声を出すとお母さんに頭を叩かれた。暴力ではなんにも解決しないんだぞ、暴力反対!

 牛から笑い声が漏れる。……笑われた!


「それじゃあ、僕はこれで失礼しますね」

「ああ、はい。うちの子が本当にお世話になりました」


 お世話? お世話って何? された覚えがないんだけど。


「いえ、学君によろしく伝えておいてください」


 二人がお互いに軽く頭を下げると、覆田サンはアパートの方へと帰って行った。

 ……意味が分かんない。なんで学が出てくるの?

 ここにはいない弟の名前が出てきたことに引っ掛かりを覚えつつ、お母さんと一緒に家の中に入った。



 自分の部屋で制服からジャージに着替えてリビングに行くと学が帰って来ていた。

 相変わらずランドセルはソファーの上に投げ置かれたままだった。学校から帰って来てソファーに放り投げて遊びに行っていたんだろうけど、遊びから帰って来たんならちゃんと片付けて欲しい。

 まったく、だらしがないんだから。


「ちょっと学、帰って来たんならランドセル片付けなよ。いつも言ってんでしょ」

「うーん」


 ランドセルの横でテレビ画面に目が釘付けになっている学は話を聞いているのか聞いていないのか、生返事しか帰って来ない。

 テレビには学の好きなアニメのヒーローが写っていた。


「もう。CMになったら片付けにいきなよ」

「えー」


 今度は生返事じゃなくて不満たらたらな声が帰ってきた。


「ふーん……そういうこと言っちゃうんだー。せっかく部活で作ったパウンドケーキ持って帰って来たのに、学はいらないんだねー」


 ピクリ、学の体がちょっと揺れた。よし、反応あり。

 タイミング良く、画面にCMの前に入るアイキャッチが音楽と共に写った。

 学はそれとほぼ同時にランドセルをひっ掴むと飛び跳ねるようにソファーから立ち上がって自分の部屋へと駈けこむ。……現金なヤツだ。

 その姿を横目で確認したあたしはお母さんのいるキッチンへと向かった。


「ねー、おかーさーん」

「何? ケーキはご飯のあとにしなさいよ」

「うん、分かってる。それよりさ」


 晩ごはんの仕度をしているお母さんの背中に話しかける。

ちょっと気になることがあった。


「覆田サンって何しにうちに来たの?」


 もちろん、あの牛についてだ。


「覆田さん? ああ、実はこの間の大雨の日に学が傘を借りたらしくて、さっき返したの」

「こないだの大雨……」


 そういえば、あの日もすっごいドシャ降りの大雨だった。

 大雨と言える天気はあの日以降まだない。……もしかして。


「えっ! カゲちゃん来てたの?」


 ひょっこりとキッチンを覗き込んできた学は驚いた顔をしていた。けどすぐ不満げに口を尖らす。


「ちぇー。もっと早くに帰ってくればよかったー」

「学、お母さん大雨の日の朝、あれほど傘忘れないでねって言ったわよね……」

「あ! CMおわっちゃう!」


 自分の都合の悪い話題に変わったとたん、学はパッと顔を引っ込めてリビングに戻った。お母さんが「あっ、コラ!」と呼び止めたけれど無駄に終わる。

 あの日、覆田サンがびしょ濡れだったのって、学に傘をかしたから……?


「覆田さんに今度ちゃんとお礼を言っておきなさいよー!」

「はーい」


 ……まさか、ね。



 ・・・



「えぇーっ!」


 学の不機嫌な声がリビング内に響いた。

 さっきまで、寝起きでまだ眠そうに目をこすっていたのに、今はすっかり目が覚めたみたいだ。髪の寝ぐせはそのままにお父さんとお母さんを睨んでいる。


 日曜の朝、本当なら家族で映画を見にいく日だった今日の予定は崩れた。

 お父さんが急に会社に行かなくちゃいけない用事ができてしまったのだ。さらに、お母さんのお姉さんが今朝早くに自宅の階段から落ちて病院に運ばれてしまったらしく、お母さんはこれから病院に行かなくちゃいけなくなった。

 両親そろってのダブルパンチである。


「ごめんな、学。映画はまた今度行こう、な?」

「だって! 今日行くって、やくそくしたじゃん!」

「学、お父さんはお仕事なの、しょうがないでしょ? もう4年生なんだから、分かるわよね?」

「……だって、」


 下に俯く学の顔を覗き込むようにしゃがんだお母さんは駄々っ子の手を取ってジッと目を見つめた。


「それに、学は伯母さんが心配じゃないの?」

「…………」


 そんなことない、そう言うように俯いたまま一生懸命に首を横に振る学の頭をお父さんがぽん、ぽん、と軽く叩いた。

 いつもより遅い朝ごはん食べていたあたしは、グッと眉間にシワを寄せて下唇を突き出した梅干しみたいな顔の弟を見て最後の一口を飲み込むと、思いついたことを言ってみる。


「じゃあ、あたしと学で行こうよ」


 顔を上げて何度も瞬きを繰り返しながらあたしを見てくる学は梅干しじゃなくなっていた。

 お父さんとお母さんもあたしたち二人で行くという発想はなかったのか、ちょっとビックリしたような顔であたしを見る。


「……でも」


 くしゃっ。また梅干しに逆戻りだ。

 あたしと二人で行くのはそんなにイヤか。


 ――いや、学が言いたいことは分かっているつもりだ。家族みんなで行くことに意味があるのだ。

ここ最近は家族そろって出かけることがなかった。だからこそ学は今日を楽しみにしていたのに。


「そういえば学、ビーストロックの映画、もっかい見たいって言ってたよね」

「うん」


 ビーストロックとは、バンドマンの主人公が音楽と獣の力を使って悪の科学者ドクター(クロス)によって狂暴化した動物たちと戦う、という内容のヒーローアニメで学が特撮物以外で初めて好きになったヒーロー物だ。

 ゴールデンウィークに初の劇場版アニメが公開されて、その時にお父さんに連れて行ってもらっていたが、もう一度見に行きたいと大興奮で帰って来たのを覚えている。

 確か、夏休みいっぱいまでやっていたはず。


「見る予定だったのはまた今度みんなで行こう。で、今日はねーちゃんとビースト見に行こうよ。……ね、いいでしょ? お父さん」

「……そうだな、うん、いいんじゃないか? なあ、お母さん」

「そうね、今日は二人で行ってきなさい」


 両親の了承は得た。あとは学本人次第なわけだが……。顔を見る限り、元気になったとは言いがたいけど行く気はあるみたいだ。


「よし決まり。じゃあ、まずは洋服に着替えてその寝ぐせ直してきなよ」

「わかった」


 あたしの言葉に珍しく素直にこくりと頷いて学は部屋へと戻って行った。

 あたしは食べ終わった朝ごはんの食器を片付けるために立ち上がる。学の朝ごはんも用意してあげなきゃな。


「でも、二人だけで大丈夫か?」


 お父さんがからかったように笑いながら聞いてくる。

 むっ。


「あたし、もう中2だよ? 映画なんて友達とフツーに行くし」

「そうか、そうか!」

「ちょっ!」


 わしゃわしゃと乱暴に頭をなでられて、ぐりんぐりん首が回る。


「頼んだぞ、理緒」


 ……そろそろ、学と同じように扱うのをやめて欲しい。これでもお年頃の娘なんですけど。

 それでも撫でられるのは別に嫌いじゃないから、取りあえず今日は何も言わないでおくことにした。



 ・・・



 家から一番近い映画館はこの町の通称大通りと言われる商店街にある。自転車でも行けるけど今日はバスに乗って行くことにした。

 混んでいるバスに揺られながら商店街前の停留所で降りると、日曜日ってこともあってか大通りにはたくさんの人が行き交っていた。

 広告の入った風船を配るウサギだとか、ちんどん屋がいて平日より賑やかだった。


「学、手ぇ繋ご」

「……えぇ? やだよ」


 すっごいイヤそうな顔で拒否された。さすがに傷つくんですけど。このままじゃはぐれちゃいそうだから言ったのに……。

 学はあんまり大通りには来たことがないはずだから、はぐれたら迷子になってしまう可能性がある。ケータイはあたししか持っていないし。


「あーそう。迷子になっても知んないかんね!」

「なんないよーっだ! それより早く!」


 むっかつくー!

 朝のあの落ち込みようはどこに行ったのか、いつもの生意気全開であたしを急かしてくる。

 そんなに急かさなくても時間はまだあるし、チケットが買えないってことはないだろう。それに映画館は逃げない。


「理緒!」


 離れたところから誰かがあたしの名前を呼ぶ。

 映画館に向かっていた足を止めて人ごみの中を見回すと、大きく手を振ってこっちに来る二人の友達の姿が見えた。


「やっぱり理緒だ」

「今日は用事があるとか言ってなかったっけ?」

「ああ、うん、それが……」


 予定が変わって弟と映画を見に来たことを伝えると、二人の視線は斜め後ろにいた学に集中した。


「わー! 弟くん?」

「こんにちはー」

「……こんにちは」


 俯きがちに挨拶を返した学に友達二人は「かわいー」なんて騒ぐ。

 ……かわいい? この二人の目は大丈夫なのか。


 女三人寄れば(かしま)しい、なんて言うけど、女の子の会話というのはどこでも盛り上がるものだと思う。

 だから、話に夢中で気が付かなかった。


「……あれ? 理緒、弟君は?」


 そう友達に言われて初めて、学がいつの間にかいなくなっていたことに気が付いた。慌てて辺りを見回してもどこにもいない。

 ……うそ、どこいったの?


 心配そうにする友達と別れて、あたしは人の多い商店街を歩きだした。

 どこかにいるはずだ。そう思って人の間を見回しながら自分より小さい影を探す。

 けれど目に入るのは見知らぬ子供ばかりで一向に学は見つからない。自然と歩く速度が速くなっていく。

 なんであたしから離れたりしたの!

 イライラしてグッと下唇を噛んだ。

 ……そういえば、友達と話している時に学が服の裾を引っ張って、映画館に行くことを急かしてきたんだ。それをあたしは、まだ時間があるからって言って服を掴む手を振り払った。


 通りの端で立ち止る。

 二人で映画に行こうって、言ったのはあたしなのに。

 ――映画……、あ、映画。そうだ、映画館だ。もしかしたら映画館に先に行っているかもしれない!

 あたしは走り出した。


「すみませんっ」


 映画館の中に駆け込むと出入り口すぐにあるチケット窓口の前に手をついて中にいた係りの人に声をかける。


「ここに、このくらいの背の男の子が来ませんでしたか?」


 身振り手振りで聞いてみるけど、係りの女の人は困った顔をして自分が知る限り来ていないと言った。

 ……ここにもいないの?

 とぼとぼと映画館を出たあたしは途方にくれた。大通りに映画館はここしかない。学が行きそうなところの心当たりは他になかった。

 第一、学はここら辺のことは良く知らないはずで、遠くには行けないはず、だ。

 ケータイの時計を見るともう映画が始まる時間だった。

 どこにいるの。映画、始まっちゃうよ。


「どうしたの?」


 自分の足先を見ていると影がさした。優し気な声に顔を上げる。

 ――真っ白なウサギがいた。

 ビックリしたあたしはウサギを呆然と見上げたまま固まる。ウサギの手からはふわふわと宙に浮く一つの風船へ繋がる紐が伸びていた。


「学君は? さっきまで一緒にいたよね」


 聞き覚えのあるようなくぐもった男の人の声。もしかして。


「ふ、覆田サン?」


 こくりと可愛らしく頷いたウサギは次の瞬間、見知らぬ子供から膝カックンを喰らって地面に崩れ落ちた。風船が大空へ旅立っていく。

 この間抜けっぷり……覆田サンだ。

 誰か分かった瞬間、体の力が抜けた。



 ・・・



「え、はぐれちゃったの?」


 気が付いたら学とはぐれてしまったことを話していた。

 なんでだろう、なんであたしは覆田サンにこんなこと話しちゃったんだろう。

 この時のあたしは不審者だと警戒していたはずの相手だろうがなんだろうが、誰かにすがりたかったのかもしれない。……一人だとどうしていいか分からなかったから。


 覆田サンはあたしたち二人が一緒にいるところを仕事中に見かけたらしい。なのに今は一人でいるあたしを見つけ、不審に思って声をかけたそうだ。

 確かにあたしも目の前にいるウサギを見かけたけど、よく人が多いところであたしたちを見つけたな。


「た、大変だ。早く見つけないと」


 着ぐるみを着ていて顔は分からなかった(普段も見えない)けど、分かりやすくオロオロとする覆田サンはあたし以上にうろたえている。……なんだか頼りない、この人。別に、最初っから頼りになるなんて微塵も思ってなかったけど。思ってなかったけど!


 ずっと手に持ったままだったケータイが震えた。

 見るとさっき別れた友達の一人からだった。電話の着信だったから出ないわけにもいかず、オロオロし続けるウサギを横目に電話に出る。


『理緒!』


 通話ボタンを押して耳に当てた瞬間に大きな声で名前を呼ばれてちょっとビックリする。なんだか興奮しているみたいだった。


『弟君らしき子が大通りから一人で出てくの西口辺りで見たって人がいた!』

「……え?」


 まさか、彼女から学のことを聞くなんて思ってもみなかったあたしは一瞬、何を言っているのか分からなかった。

 あたしと別れたあと、二人も学のことを色んな人に話しかけたりして探してくれていたらしい。


「っありがと!」

『いいってことよ。わたしたちが理緒を取り上げたのがいけなんだし、まあ、アイスで手を打とうか。わたし、ポピコね』


 さらに便乗して「うち、あずきバー!」なんて小さな声が電話の向こうから聞こえてくる。

 友情に感激したとたんこれだ。現金なヤツらめ。……でも、ありがとう。

 けど、本当に大通りから出てしまっていたとしたら、状況はあまり良くない。探す範囲が広がったんだから。

 電源ボタンを押して、パタリとケータイを閉じると覆田サンがつぶらな瞳でこっちをジッと見ていたことに気がついた。


「この通りを出ていくのを見たって人がいるらしいです」


 一応、心配してくれた訳だし、話しておいた方がいいよね?


「それじゃ、あたしもう行きますね」


 早く探しに行かなくちゃ。本格的に迷子になってしまう前に。まだそんなに遠くへは行っていない、と思いたい。

 取りあえずあたしは西口の方に行こうと走り出した……出そうとした。


「まって! 僕も手伝うよ」


 何、言ってるんだろう、このウサギ。仕事中だったよね、確か。


「いえ、あの……」

「通りを抜けてしまったんだったら、探すのもっと大変だよね。人は多いに越したことはないと思うんだ」

「でも仕事中……」

「ちょうど上がりの時間だから、気にしないで。……それに、学君のことは良く知っているし、心配なんだ。だから手伝わせてくれないかな?」


 断ろうとしたあたしは、畳みかけるように言葉を並び立てる覆田サンに押される。引く気はなさそうだ。

 この人、こんな人だったんだ。もっと気が弱いと思ってた。さっきの頼りない姿はどこへ行ったのウサギさん。


「……お願いします」


 あたしはウサギに頭を下げた。



 ・・・



 学はどこへ行ったんだろう。

 なんで通りを出て行ってしまったんだろう。

 そう考えて、ふと、気が付いた。

 もしかして、一人で家に帰ろうとしてる? でも、お金は持っていないはず。両親からもらったお金はあたしが持ってるし。

 取りあえず、最寄りのバス停へ向かってみるけど、そこにも学はいなかった。

 もしかしたら、自分のお小遣いを持って来ていてバスに乗ったのかもしれなかったし、歩いていったのかもしれなかった。


 あたしは乗ってきたバスが通った道をたどって探すことにした。覆田サンには他の道を頼んだ。

 バスが通る道は広いところが多いけど、入り組んだところも通る。変な道に入っちゃっているかもしれない。

 バスに乗ってくれていればいい。あたしが家に着くころにはもう家にいてくれればいい。

 ……学に、何もありませんように。


 それでも、やっぱり姿を早く見たかった。もしかしたら家に向かっていないかもしれない。全く違うところにいるかもしれない。こうしている間にも泣いているかもしれない。ケガをしているかもしれない。 いろんな心配がグルグルと頭の中を駆け巡る。

 自然と進む足が速くなっていって、いつの間にか走っていた。

 一番心配だったのはこの道を歩いて帰っているかもしれないことだった。


 ――最近、ここらへんに野良犬が出るらしいよ。


 この間、自転車で大通りに行ったときに友達から聞いたことだった。

 子連れの母犬らしく、気が立っていて近づくと襲い掛かってくるらしい。これが本当だったら、この道はちょっと危ない。

 気持ちばかりが先へ行く。だから、足元を見ていなかった。


「っう……!」


 あたしは道端で勢いよく転んだ。最初、何が起こったのか分からずに足元を見ると、雨水を流す溝に左足を取られたみたいだった。足を突っ込んだところだけ蓋がない。

 なんでここだけ蓋ないわけっ?

 足を出して起き上がると右足の膝と左足の脛が擦り剥けて血が滲んでいた。

 情けないやらなんやらで、グッと喉のあたりまで熱いものがこみ上げてくる。自分でも歪んでいると分かるくらい顔に力が入る。


 それでも、ずっとそこに止まっているわけにはいかない。通りかかった人がこっちを見てくるけど話しかけられる前に歩き出した。

 歩き出すと左足首辺りが傷む。溝にはまった時に捻ったみたいだ。それにさらに情けなくなっていく。

 学、どこ……?

 弱気になっていた時だった。


 近くから犬の鳴き声が聞こえてきた。何か威嚇するような、怒ったような、そんな怖い声だ。

 ……学?

 小さかったけど、学の声もしたような、そんな気がした。

 あたしはまた走り出した。もしかしたら、そんな焦りが足を急かす。


 バスの通りを少し反れたところ、そこにずっと探していた学の姿があった。けれど、願っていた元気な姿はそこにはなく、小さく震えて前を見たまま固まって動かない。

 学の目の前には犬がいた。


 何も考えられなかった。気が付くと、学と犬の間に入り込んでいた。

 冷静に考えると、犬を余計に刺激する危ない行為だった。

 犬は突然の乱入者に驚いたみたいだったけど、噛み付いてくることはなかった。けれど牙を剥き出した顔がさらに険しいものに変わる。


「ね、ねーちゃん……?」


 後ろから学の声が聞こえた。それに返事をする余裕はない。

 こういう時ってどうしたらいいの……?

 目は反らせなかった。反らしたらその瞬間、襲い掛かって来そうな気がしたのだ。それに先に目を反らした方が負けってよく言うし。……なんかこれはちょっと違う気がする。


「後ろに下がって」


 犬をこれ以上刺激しないように小さい声で学に話しかける。

 取りあえず、距離をとることにした。少しずつ、少しずつ、後ろに下がる。

 けれど、距離を取ると犬もジリジリと少しずつ迫ってきた。なかなか距離はあかない。

 このままじゃ、埒があかない。どうにかしなくちゃ、ずっとこのままだ。いや、このままどころか犬が襲ってくるかもしれない。


「ねーちゃん……」


 すがるるような、不安いっぱいの震えた声があたしを呼ぶ。

 そうだ、あたしがどうにかしなきゃ。学のねーちゃんなんだから、あたしが学を守らなきゃ。

 くじけそうな心を奮い立たせて、一生懸命に考えを巡らそうとする。けど、この状況をどうにかできる考えなんて浮かばない。


 犬が低く唸ったあと吠えた。ビリビリと胸が震える。

 犬の鳴き声ってこんなに、怖いものだったっけ。

 先に動いたのは犬の方だった。

 いつまでも動くことのない状況に痺れを切らしたのか、グッと低い体勢になった犬を見て気が付いた。――来るつもりだ。


 もうだめだと思った。こんな近くにいて避けることなんてできない。

 目を反らさないようにしていたのに耐えきれなくなって目を閉じてしまった。自分に牙をむいて襲い掛かってくる獣を見続けることなんてあたしにはできない。

 目を閉じる前、飛びかかってくるのが見えた。瞼をギュッときつくつぶる。



 ………………………………。


 ……?

 すぐに来ると思っていた痛みは、なかなか来なかった。

 もしかしたら、命の危機に時間がゆっくりと感じているのかもしれない。目を開けたらすぐそこに鋭い牙があるとかイヤだ。そう思うと目を開けられない。

 けど、それもすぐに撤回することになった。


「……カゲちゃん!」


 学の声だった。希望がにじみ出るその声にはっとして目を開く。

 あたしの目の前には牙なんてなくて、代わりに白い壁があった。


「噛み付くのは、ちょっと良くないかなあ」


 やんわりとした言葉とは裏腹に犬の唸り声よりも低い声。思わずビクリと体が震えてしまった。


「もう、家に帰りなさい」


 はっきりと、力強く犬に向かって放った言葉は、分からなくても従ってしまう力でもあるのか、壁の向こうから「きゅいんっ」と情けない声が聞こえてきた。そして何かが走り去る音。

 状況が分からず、白い壁を見上げるとそれはクルリと回転した。

 白いウサギ……覆田サンだ。


「よ、良かった……。間に合った」


 さっきまでのはどこに行ったのか、情けないくぐもった声がウサギから漏れ出る。

中身がさっきと違ったらどうしようかと思ったけど、これは紛れもなく、覆田サンだ。


「カゲちゃーんっ!」


 あたしの後ろにいた学が前に飛び出して泣きながらウサギに抱き付く。それを抱き留めた覆田サンは学の頭をぽふぽふと撫でた。

 その光景を見たあたしは意地と根性だけで立っていた足の力が抜けて、その場にしゃがみこむ。何も考えられない。何が起きたのかも理解が追いつかない。


「だ、大丈夫…っ? もしかして、怪我とかしたの!」


 突然しゃがみこんだあたしにビックリしたのか慌てたように覆田サンが話しかけてくる。


「足、痛い」

「えっ……わあ! け、怪我してるじゃないか!」


 さらに慌てだす覆田サンをどこか遠くに感じながら、あたしはしゃがんだ状態からそのまま尻餅をつく。……どうやって立つんだっけ。



 ・・・



 西に沈んでいく太陽のオレンジ色に包まれながら辺りを見回してみる。いつもよりずっと高い位置から見るといつもの道も違う道のように感じた。

 あのあと、腰が抜けて自力で立ち上がれなくなってしまったあたしは覆田サンに背負ってもらうことになった。

 本当はイヤだった。けど、渋っていると学に「ワガママいうなよ!」と言われてしまって、急に自分が駄々をこねているような気がしちゃったんだよ。しょうがないでしょ。

 心の中で自分自身に言い訳をしながら、こうなった原因の一言を発した学を見ると、最初の落ち込みようから一変して、ちょっと機嫌が良さそうだった。

 そんな学を見ていて、ふと、疑問が浮かぶ。


「ねえ、学」

「なにー?」


 声をかけると首をひねってこちらを見上げてくる。


「なんで覆田サンって分かったの?」


 そう、なんでこのウサギが覆田サンと分かったのか、そこがちょっと気になった。

 頭だけ、何か被り物をしていたら彼以外にありえないとあたしは思うけど、今回の覆田サンはウサギの着ぐるみ姿だ。パッと見ただけじゃ誰か分からない。

 なのに学はあたしの前に現れた後姿のウサギを見て「カゲちゃん」と呼んだ。


「助けてくれたから!」

「……は?」


 自信満々にそう答えた学にあたしは思わず気の抜けた声が口から漏れた。


「ごめん、ねーちゃん意味分かんない」

「えー? うーん……と。カゲちゃんはさあ、オレがピンチの時いっつも助けてくれるんだ! だから、ウサギの正体はカゲちゃんしかいないって思ったんだよねー。オレってさえてるうー」


 良く分からないままだったけど、学が覆田サンを強く信頼していることは分かった。

 ……背中越しに覆田サンが照れているのが伝わってきて、ちょっとイラッとしたけど。


「やっぱり、カゲちゃんはヒーローだ! レインボー仮面!」

「レインボーって……」


 呆れた。この子の頭の中はどこまで行ってもヒーローのことしかないのか。それに、レインボーってなんだ。


「毎日色んなのかぶってるから、いっぱい色がある虹といっしょだろ」


 虹は七色しかないよ。


「あはは、カッコいいね、その名前」


 え、カッコいいの? これ。しょーじき言って、ださくない?


「でしょ? かっちょいーでしょ! カゲちゃんにあげる」

「いいの? ありがとう」


 ……ついていけない。

 覆田サンはすごく嬉しそうだし、学も嬉しそうに笑っている。

 レインボー云々に関してはついていけないけど……ヒーロー、ね。

ぷらぷらと宙に浮くケガをした自分の足を見る。


 …………血。

 そして学と繋がっているウサギの腕を見て、改めてさっきのことを思い返した。



 ・・・



 しばらく座り込んだままだったあたしは少しずつ抑えていた感情がふつふつとにじみ出てきていた。

 助かった。

 目の前で慌てふためくウサギに助けてもらった。


「ねーちゃん、オレ、オレ……!」


 あたしのケガを見て、止まりかけていた涙がまた学の目からあふれ出る。さっきは姿をちゃんと確認する余裕がなかったけど、ケガはないみたいだった。


 ……よかった。

 安心したら、にじみ出てきていたものが一気にあふれ出た。

 怖かった。……すごく、怖かった。

 自分じゃ、どうしようもなかった。何もできなかった。大げさかもしれないけど、死んじゃうかと思った。

 視界がゆらゆらと揺れ出す。鼻がつんとして熱い。


「ごめん、ごめんね学。映画行こうって、言ったのはねーちゃんなのに、学のこと、ほうっておいてごめんね」


 ぐすぐすと鼻を鳴らしながら言ったあたしの言葉に、学は勢いよく首を横に振る。


「ちがう、オレ、かってに離れて、ごめんなさいっ」


 言い終わったと思ったとたん、学はわんわんと声を出して泣き出した。

 姉弟そろって泣くあたしたちに、覆田サンはいよいよどうしたらいいのか分からなくなったみたいだった。

 せわしなくパタパタと動きながらあたしと学とを、首を振って交互に見る。その動きがパントマイムか何かみたいでなんだかおかしかった。


 思わず笑うと、目に溜まっていた水がボロリとこぼれ落ちて視界がクリアになる。学も覆田サンが面白かったのか泣きながら笑った。

 今度は笑い出したあたしたちに首をかしげつつ、覆田サンはあからさまにホッと胸をなで下ろした。本当に分かりやすい人だ。

 視界をジャマするものがなくなって、心が落ち着いてくるとそれまで気が付かなかったことに気が付いた。


 泣きながら笑う学をあやす、白いウサギの腕。その腕に浮かぶ赤色が目に入った。

 一瞬、心臓が止まったみたいな、イヤな感じが胸を占める。グッと息が苦しくなるのが分かった。

 その赤を注意して見ていると、じわじわと広がっていくのが分かった。


 ――血だ。


「……覆田サン、腕」

「え? ……あ」


 あたしが指さしながら言うと、覆田サンは今気が付いたような反応をした。学もそれに気が付く。


「カゲちゃん、大丈夫?」

「えーっと、……あははー。怪我してたのかー。気が付かなかったなー」


 心配そうに覆田サンの腕を見て問いかける学に本人は笑い飛ばしながら「大丈夫」を繰り返す。


「気が付かなかったくらいだし、全然痛くないから、大丈夫だよ、ね?」


 言い方が、ウソ臭い。気が付かなかったなんて、絶対嘘だ。本当だったら人として色々ヤバいと思う。


 …………あたしのせいだ。

 恐怖に耐えかねて目をつぶっている間に覆田サンが現れた。あたしが目を閉じる前、犬はもう襲い掛かってきていた。

 なんですぐに気が付かなかったんだろう。

 あたしの代わりに犬に噛まれて、ケガしたんだ。


「と、とにかく、早く帰ってお姉ちゃんの怪我の手当をしないとね!」


 あたしと学の視線に耐えかねたのか叫ぶように覆田サンが言った。


「カゲちゃんもね」


 すかさず学が釘を刺した。



 ・・・



 助けてもらった時、たしかにヒーローに見えなくも、なかった。……ような気がする。

 今だって、自分もケガをしているのに、何でもないような顔(常に同じ表情だけど)して、あたしをおぶっている。

 ……でも、長い耳がチャームポイントのウサギヒーローって、なんだかおかしい。

 思わず笑い出しそうになって、慌てて抑え込む。


「……? ねーちゃん、どうしたの?」

「なんでもないっ」


 学があたしの様子に気が付いたのか、不思議そうにこっちを見てくる。バレないように顔を引き締めて着ぐるみの肩に顔をうずめた。

 二度も覆田サンで笑うのはなんだかシャクだった。



 安定したウサギの背中の上で揺られながら、色々と考える。

 そういえば、この人仕事の格好のままだけど、いいのかな。このウサギ、仕事先のものなんじゃ……。しかも血で汚れちゃったけど、大丈夫なのかな。あと、野良犬に噛まれてばい菌とか大丈夫かな。今の日本には狂犬病はないって言うけど、大丈夫かな。


 なんだか色々と心配になってきて、覆田サンに聞こうかとも思ったけど、ケガを見つけた時みたいにはぐらかそうとしそうだから止めておく。はぐらかせてなかったけど。


「……ごめんなさい」

「……ん? 何か言った?」


 無意識にポロリと零れてしまった小さな言葉は、覆田サンにちゃんと聞こえなかったみたいだ。


「別に、何も!」

「そっか、」


 急に恥ずかしくなって、ごまかす。

 目の前にあるウサギ頭。初めてこの人の被り物に救われた気がする。これがなかったら絶対に聞こえてたよね。

 ………………。


「ありがと」


 さっきよりもちょっとだけ声を大きくして言った言葉に、覆田サンは一回身じろぎをしただけで今度は何も言わなかった。





 ――恥ずかしがりやの覆面ヤローは、ちょっと頼りないヒーローだった。



 ・・・



 ついでに、学が見つかったことをすっかり友達二人に教えるのを忘れていたあたしは、アイスだけじゃなくてコンビニスイーツも二人に献上することになった。

 ……つらい。


〈完〉


ここまでのご観覧、ありがとうございました。

……気が向いたら後日談を書くかもしれません。(ボソッ)

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