散るが花
一
真の闇では、人間の目には何も映らない。そこで活動出来るのは、幽鬼の類だけである。
「殿、着きまして御座います」
大松を掲げた従者が牛車の中の主人に声をかける。主人は、小さな声で「ああ」と答えると、牛車の簾をゆっくりと上に持ち上げた。秋の外気は少し寒く、もうすぐそこに冬が訪れているのを予感させる。吐く息こそまだ白くはないが、吹く風の肌寒さは日に日に増していた。
この男、名を藤原時久という。大納言を父に持ち、自身も頭弁であり、周囲から注目される人物であった。しかしどういうわけか、元服してから齢二十三になった今の今まで、浮いた噂が全く立たないので、それが世間では話の種になっている。「頭弁殿は堅物で、女には全く興味がないのだよ」と、影で嘲る者もいた。
しかし実際は、その時久にも、人知れず想いをかけた姫があった。
「……今宵も桜が美しく咲いているな」
時久は独りごち、中門に止められた牛車から渡廊下に降り立った。
月に照らされた桜は、冴え冴えと輝き、この世のものとは思えぬような、透けるような美しすぎる白であった。
「時久様、お待ち申し上げておりました」
いつから居たのか、時久の横には、灯りを手にした女房が一人。無表情な白い顔で立っている。闇に照らし出されたその顔は、まるで幽鬼のように美しく、恐ろしい雰囲気を醸し出していた。
「ああ、藤殿。お加減は如何だ」
「あい、相変わらずで御座います。ささ、姫がお待ちかねです。どうぞ」
藤と呼ばれたその女房は、にこりとも笑わずに時久を促す。
「そなた達はそこで待っていなさい」
「はい」
従者達にそう言うと、時久は藤の後に続いた。
暗闇の中に、彼の黒い直衣が溶けるように消えていった。
静寂に包まれたこの屋敷には、藤の他に、楓と呼ばれる女房と、梅鬼という女童、そして主人である姫君しか住んでいない。四人で住まうには大きすぎる屋敷である。しかしどういうわけか、常に細部まで掃除や装飾が行き届いており、いつ来ても落ち度は全くない。
そして、何よりも一番不思議な事は、いつ来ても桜が素晴らしい花を付けている事であった。真っ白な花弁は常に舞い散っている。しかし花は少しも減らずに咲いているのである。
「ここの桜は、いつ来ても儚げに咲いている。どなたが手入れをしているのだ」
時久の質問に答えようとはせず、藤は無言のまま、足早に姫君のもとへと導いていく。まるで、外界と隔絶されてしまったような空気が二人を包んでいた。
ふと、ある部屋の縁側で藤が足を止めた。彼女の持つ灯りに照らされ、簾の内側に姫君の姿が仄かに映し出されていた。薄桃色の唐衣に影が揺れる。
「姫様、時久様をお連れ申し上げました」
「あい。有り難う、藤」
鈴の音のような澄んだ声が言うと、藤は闇に溶けていくように姿を消した。
時久がぼうっとして藤が溶けていった闇を眺めていると、簾の内側からクスクスと含み笑う声が聞こえてきた。時久はハッとして、簾を挟んで姫君の前へ腰を下ろす。
「何故笑ってらっしゃるのです」
「ふふ。時久様がとてもぼうっとなさっているので、また藤に怒られたのかと思って」
「今夜は屋敷内を勝手に歩いたりはしていないですし、あの桜を一枝折ろうともしていないですよ」
時久は少し恥ずかしそうに笑った。
「藤って、わたくしにも容赦なく怒りますのよ」
「桜の君。貴方も藤殿に怒られたりするのですか」
時久は、意外だなあ、と言いながら、楽しそうに身を乗り出した。
「ええ。先日は、雨が降っていて、その雨風が気持ち良いので縁側に出ていたのです。そうしたら藤が血相を変えて」
「『まあまあ姫様! そのような所にお出ましになられては、お身体が濡れてしまいますよ!』とか?」
時久は声をわざと裏返し、藤の真似をした。
「まあ、よくおわかりになりましたね」
姫君が驚いて両手を頬に添えた。しかし、すぐに二人で笑い出す。鈴が鳴るような可愛らしい姫君の声に、時久は更に相好を崩した。
簾の中の姫君にいざり寄り、時久は優しく微笑む。すると、姫君の気配が、それにつられたように微笑み返すのがわかった。
「姫。私が初めて貴方にお会いした日を、覚えておいでか」
時久が問うと簾の内の姫がこくりと頷いた。
――時久が桜の君と出会ったのは、この年の春の事だった。
ある日、時久は宮中の用事が滞っていたため、それを終え、夜半帰路についた。
春霞のせいで、おぼろな月の光が辺りの風景を幻想的に見せている。霞む風景、おぼろな屋敷の壁、行く先が見えない道……牛車がどこの道を通っているのか、時久はわからなくなっていた。
牛車の窓からふと外を覗くと、月光に照らされた美しい桜の花が目に入った。雪を欺く色で咲く桜である。
どなたのお屋敷であろう。時久はそう思いながらぼんやりとその桜を眺めていた。
その時、屋敷の中から微かな琴の音が聞こえてきた。耳を澄ませて聞いてみれば、今までに聞いた事のない、美しい旋律である。時久は従者に車を止めさせ、暫しの間その旋律に酔いしれた。甘美で優雅で、そして哀切な不思議な曲であった。
誰が弾いているのか、時久はその人物の姿を見たいと思い、屋敷の中を垣間見た。すると、庇に小さく光る白い影が見える。おぼろな月の光と霞のせいで、輪郭がはっきりしない。
時久は更に牛車を屋敷に近付けさせ、その影に目を凝らした。
「桜の……精?」
それは、簾の内から出て、庇で月の光を浴びながら琴を奏でる、白く儚い、少女のような姫であった――。
「私が貴方を初めて見た時、本当に桜の精霊が琴を弾いているのかと思ったのですよ」
時久は徐に簾を手で持ち上げ、内側の姫君にいざり寄った。遮る物がなくなり、姫君の白い頬が月に照らされ、匂い立つように美しく輝いている。例えて言えば、あの桜の花のように。
「桜の君、今宵は二人で庇に出て、あの月を愛でませんか?」
「はい……」
小柄な姫君の体を抱き上げ、時久は庇へと出た。
月と花と、そしてこの姫君。優劣など付けられない程、この世のものとも思われない程、全てが美しく儚かった。
二
――宮中。
時久は仕事に追われ、丸四日宮中に閉じこめられていた。
「頭弁殿、どうなされました。浮かないお顔をされて」
右近という顔馴染みの女房に声をかけられたが、時久は心ここにあらずといった様子で、生返事をしただけで去ってしまった。
最後にかの姫君のもとへ行ってから既に六日が過ぎている。顔が出せない代わりに何度か文を贈った。しかし、昨晩出した文の返事が未だに返ってこないのだった。いつもならば、美しい花を添えた文がすぐに返されてくるのに、今回はこない。既に日が陰り始め、文を送ってから一日が経とうとしている。
時久は焦燥に駆られた。どうかしたのだろうか。姫君の身に何か起きたのだろうか。そう考えると、そわそわと落ち着かず、居ても立ってもいられなくなってしまう。
「時久、どうした。右近が心配していたぞ」
とある部屋で書き物をしていると、時久の友人である橘春人が、後ろから大声でそう言った。
「今日は朝から機嫌が悪そうだな」
「……うん」
沈みきった友人を目の前にして苦笑し、春人はそのまま時久の横に腰を下ろした。
頬杖をついたままため息をついた時久の横顔が、憂いを帯びて艶めかしく見えた。春人は心の中で、ははあ、さては……と呟く。
「時久、さてはお前、懸想したな」
「え!」
裏返った時久の間抜けな声が部屋中にこだまし、そのまま廊下へも響き渡った。廊下を歩いていた女房が、驚いて足を止めたくらいである。まるで動揺を隠そうとしない時久の反応が余程面白かったのか、春人は苦しそうに腹を抱えている。
「図星か」
春人はにやにやと嬉しそうに笑うと、時久に詰め寄った。
「相手は誰だ? その様子だと、叶わぬ恋かな。まさかお前、右大臣殿の所の嘉子姫に懸想したか。先日、俺も垣間見してきたのだが、あの方はとても美しかったなあ。だが、あの方はもうすぐ入内なさる。帝の奥方に手を出したら、とんでもない事になるぞ。あ、それとも、内大臣の姫の綾子殿に心奪わ」
「春人は飛躍しすぎだ!」
「ははは、悪い悪い」
春人は全く悪いと思っておらぬ表情。人の事情に首を突っ込むのが大好きで、しかも散々引っ掻き回したとて責任は取らぬ。時久はうんざりしているが、春人のそういう性格が嫌いではない。
「で、誰なんだ」
「……お前に言ったところで、どうにもならん」
「冷たい奴だな。教えろ。俺だって、親友のお前が心を懸けた姫の名くらい、知っておきたい」
不意に真面目な顔つきになる春人に、時久は気圧された。こういう時、春人という男はつくづくずるい、と時久は思う。
「……名は知らぬのだ」
「名を知らぬ?」
「ああ。俺は『桜の君』とお呼びしているが」
「……いずれのお屋敷の姫なのだ」
「………」
時久が言葉を詰まらせ、顔を背けると、二人の会話は途切れた。
春人は何か考え込んでいるように腕を組み、複雑な表情で眉間に皺を寄せている。不機嫌なのか、呆れているのか、それとも怒っているのか、何とも複雑な顔つきである。
時久も同様に眉をひそめていた。
「……実は、今まで何度も彼女のもとへ通っていたのだ」
妙に弱々しく時久が言うと、春人はパッと顔色を変化させた。
「なん……だ。もう成就していたのか。心配して損したぞ」
春人はそう言うと、力が抜けたようにごろんと横になった。この春人という男は、宮中にあってもこのような不作法な行動を平気でする。
「で、その姫君は美しい方なのか?」
「そ、そりゃあもう……美しくて、お優しくて、上品で……」
「そうか、そうか!」
恥ずかしそうに赤い顔をして言う時久を、春人は楽しそうに見ている。その顔は、からかっているというより、子どもを見守る父親のような表情である。
「まるで、桜の精のようなお方なのだ」
「ああ、だから『桜の君』なのか」
時久はこくりと頷いた。
「……だが、昨晩出した文の返事が、まだ返らないのだ」
「それで、あんなに不機嫌な顔をしていたわけか」
「………」
春人は満足そうに微笑むと、起き上がり、時久の肩を二度叩いた。そして何故かわざと大きなため息を吐くので、時久は訝しそうに彼を見つめた。
「お前は、女について、まだまだよくわかっておらんな」
得意気な春人の顔を眺め遣り、時久は不機嫌そうに唇を尖らせる。
「……そりゃあ、お前のようには女性経験は豊富じゃない」
「はは、そう怒るな」
「ふん」
馬鹿にされた気分になり、時久はそれまで以上に不機嫌な顔色である。それとは正反対に、春人は楽しそうに笑っていた。
「お前が最後にその姫の所へ行ったのはいつなのだ」
「……六日前だ」
「だったら話は早い」
春人は急になよなよとした手つきで自分の目を覆い、さめざめと泣く真似をした。
「時久様ったら、六日間もわたくしを放っておくの。きっと他に懸想した姫がいるのよ。あな悲しや、あな悔しやあ」
気味の悪い裏声で女の真似を始めた春人を、時久はただ呆然と眺めている。そんなことはお構いなし、春人は続ける。
「だから、文が来てもすぐには返事をしてあげないの。焦らしてやるんだから!」
「は、春人。気味が悪い……」
時久がそう言うか言わないかの時、廊下を行き過ぎる女房達が、小さくクスクスと笑いながら、彼らの様子を盗み見ていった。やはり女房に笑われた事は恥ずかしかったらしく、春人は仄かに顔を紅くして苦笑しながら、自分の膝をポンと叩いた。
「だからさ、姫はお前を焦らそうとしているのさ。今夜辺り行ってやれよ」
「だが、まだ仕事が終わら」
「そんな事は気にするな、俺が代わってやる! お前は少々真面目過ぎていかん」
物凄い剣幕でそう言うと、春人は時久にすぐ支度をするよう促した。こうと決めた春人は恐ろしく手際が良い。途端に女房達を集め、時久の身だしなみを整えさせ、家臣に事情を話して彼を送り出してしまった。時久は小さく、
「有り難う」
と呟いた。
もう外は寒く、冬に入っているような空気が漂っていた。
三
――夜半。
時久を乗せた牛車は、ゆっくりと小路を進んでいく。ごとごとと揺られながら、時久は焦燥感に襲われていた。
春人はああ言っていたが、以前にも五、六日顔を出せなかった事が何度かあったのだ。その時も時久はこまめに文を贈り、その都度すぐに姫君から返歌がきていた。今回に限って、姫君が自分を焦らそうとしているとは、時久はどうしても思えなかった。
しかし、悲観的に考えても、どうにもなるまい。時久は何とか自分の不安を抑えようと、春人の明るい顔を思い出した。
(そうだ。春人の言うように、桜の君は焦らそうとしているのだろう。俺を少しからかおうと思っておられるのかも知れん……)
そんなふうに、何とか自分を明るい思考に持っていこうとしていると、程なくして牛車がごとりと止まった。
「時久様」
時久は、屋敷にたどり着いたので呼ばれたのだと思った。しかし、従者の声色が尋常でない事に気付き、簾を荒々しくかきやり、外を見た。
「何事だ」
「さ、桜が全て……散っております」
従者は、まるでこの世の物ではないあやかしを見たように、唇を蒼くしていた。時久が慌てて屋敷の庭に見える桜の木を見やると、果たして、その者の言った通りに花が全て散っていた。
「姫」
時久は牛車から飛び降り、屋敷に入っていった。
灯りはない。真の闇である。
真の闇では、人間の目には何も映らない。そこで活動出来るのは、幽鬼の類だけである。
それでも時久は、暗闇の屋敷の中で、姫の姿を探した。壁に肩がぶつかり、柱に袖を持っていかれそうになりながら、時久は走った。
「姫」
返事はない。
いつもであれば、時久が屋敷に入ると必ずどこからともなく現れる藤の姿も、今宵はない。
「姫!」
欠けた月の弱い光に照らされる渡廊下に出ると、いつもとは違う、悲愴な雰囲気が漂っていた。
ふと時久が廊下の端に目をやると、小さな薄紫の花が落ちていた。
それは、枯れかけた一房の藤だった。
「藤……殿」
絞り出すような声で呟き、時久はその藤の花を静かに優しく拾い上げ、懐に押し付けて目をかたく閉じた。
頭の中にぐるぐると廻る恐ろしい想像が、彼を襲う。考えたくない事が、際限なく膨張していった。
姫君の身に何が起きたのか、わからない。しかし、何かが……。
「時久……様……?」
不意に、弱々しく時久を呼ぶ声が響いた。
「姫?」
「時久様、何故……」
弱々しく横たわる桜の君が、消えかけた灯火に照らされて闇の中に仄白く浮かび上がっている。
時久は無我夢中で走り寄り、彼女の体を抱き寄せた。
「何が、何が、起きたのだ」
桜の君の体は氷のように冷え切って、唇は肌とほとんど変わらぬ程白くなっていた。その様子に激しく動揺した時久は、気が動転して上手く言葉が出てこなかった。
「時久様。ごめんなさい……」
「姫」
桜の君の手を握り締め、時久は悲壮な表情を更に曇らせた。止まってしまうのではないかと思う程、心臓が激しく波打っている。
「わたくし、もう咲いてはいられないの……」
握られた手を握り返し、姫君は寂しそうに微笑んだ。
「姫、貴方は、やはり」
月の細い光が庇に降り注いでいる。その輝きが涙のように二人の頬に流れていた。
姫君は手を伸ばして時久の冷えた頬に触れ、微笑。
「春、時久様が桜を見ておっしゃったお言葉、わたくし今も覚えております」
「私も覚えているよ」
時久の目は既に濡れていた。涙がこぼれ落ちる一つ手前だった。
「時久様はこうおっしゃったのですわ。桜は散るのが一番美しいと思っていたけれど、この桜はこの咲き誇る姿が何よりも雅で美しい、と」
「ああ」
「わたくし、とても、嬉しかった」
「ああ、ああ」
何度も何度も頷き、時久は自分の頬に触れる彼女の手を握り締める。
「ですが、やはり……冬に桜は、似合いませんね……」
突然冷気が吹き込み、二人の顔に白い花弁のような物が流れてきた。それは、真白い雪であった。
それを見ると、姫君は苦悶の表情の中に笑みを浮かべ、一筋の涙を流した。
「やはり……桜は……散るのが自然……なのです………ね」
彼女の声が途切れた途端、強い風が横殴りに吹き付け、時久は思わず目を瞑った。
次に目を開けた時には、時久の膝や袖、そして床に、真白い桜の花弁が散らばっていた……――。
四
頭弁藤原時久が宮中に参内しない日が、かれこれ七日続いた。
馴染みの者達は彼を心配し、病にかかったのだと言い合って仏に祈った。特に、彼を話し相手として気に入っていた女御や、好意を寄せていた女房達の中には、私的に法師に祈祷させる者までいたという。
橘春人は、参内しない親友の様子を伺うため、連絡せずに屋敷へと向かった。
「時久はいるか。春人が来たと伝えてくれ」
時久の従者達にそう伝えると、彼らは首を横に振る。
「居ない? どこへ行った」
「桜の君のお屋敷へ」
「想い人の屋敷か。そうか、今宵は愛しの姫君の許へ……」
「………」
従者達は皆、目を伏せがちにして俯いていた。誰一人として、春人と目を合わせようとはしない。
「……どうかしたのか?」
彼らの様子がおかしい事に気付き、春人は怪訝そうに眉をひそめた。
「何が起きた」
「………」
「言え」
「………」
落ち着いているくせ、凄味のきいた迫力のある春人の声に、従者達も困惑した。暫くは誰一人口を開かなかった。春人は鋭い目で彼らを見つめている。
どれ程、そうして黙っていたであろうか。ある男が、とうとう口を割った。
「それが、その……桜の君が、亡くなられ……」
「……亡くなられた?」
思わぬ答えに、春人は目を丸くした。
否、予想しないではなったのだ。あの真面目を絵に書いたような男である時久が、宮中に出てこないなど、尋常な事ではないと春人も思っていたのだ。もしや、姫君の身に何かあったのか、と案じていたのだが、的中してしまった。
「……心配だな。誰ぞ、俺をその屋敷に連れて行ってくれないか」
澄んだ空には既に月が浮かび、下界に冷たい光を放っている。まだ満月にはならない、欠けた月である。
屋敷の外は身を切るような冷たい空気に支配され、吐く息は白い。その白い息が端から端から大気に散布していく。
時久は草木の枯れ果てた庭に一人佇んでいた。
「時久」
呼ばれて振り返ると、そこには春人の姿があった。春人は、時久よりも悲愴な表情を浮かべていた。
「春人……」
さほど驚いた様子も見せず、時久は虚ろな瞳で春人を見た。
「時久、どうしたんだ。皆が心配している。お前の身に何か起きたのかと」
「……すまない」
時久は俯き、目を閉じた。
時久は墨染の衣の裾を、両手で捲り上げていた。春人はそれを指さした。
「何だ、それは」
時久は少しだけ、その裾を開く。
裾の中には、白い花弁が入っていた。
「……桜か?」
「うん」
小さく吹き始めた風に煽られ、二、三の花弁が舞った。まるで、雪。
「桜の君は……」
その桜の花弁を見つめ、時久は青白くなった唇を小さく動かした。
悲痛な瞳で呟く時久を見るに耐えきれなくなり、春人は小さく相槌を打っただけで顔を背けた。時久も、一言呟いただけで、口を閉ざした。
段々と強くなっていく風に煽られた雲が、月を隠していく。だが、不思議と辺りは明るかった。
時久は、衣の裾を大きく広げた。
――ひらひら。
花弁が風に舞い上げられ、天へと登っていく。さながら真白い雪のように輝き、風に誘われ、空気に溶けていく。
「人の魂は、死して七日の間は、まだこの世に留まっていて、そしてあの世へ旅立っていくのだという」
舞い上がった白い花弁を見つめ、時久は誰に言うでもなく囁いた。
「きっと彼女の魂も、今夜、天へと――」
白く美しい桜の花弁は、時久の視線の届かぬ方へと流れ、消えていく。
全ての花弁が消えていくのを、時久と春人はずっと眺めていた。
月の消えた不思議な明るい空から、小さな白い結晶が舞い散ってきた。
雪であった。
「春人」
時久は、雪の降る空を眺めながら、春人を呼んだ。
「何だ」
「桜の君は、まことに桜の精であったよ」
「そうだったか」
「あの方は美しく咲いていたよ。春も夏も秋も」
「そうか」
「俺のために……」
「………」
空から視線を下ろし、春人の顔を見た時久の目は、赤く腫れていた。
「俺のために、これから咲くはずであった全ての季節を――命を削って……あの方は咲いていたよ……」
春人の肩に顔を押し付け、時久は声を上げて泣いた。
空から降る雪は、失われたあの桜のように白かった。
散るが花と人は言へども吾憂ふ
絶えて咲かざる君をおもへば……――
了
以前より平安時代を舞台としたお話を書いてみたかったのです。……が、時代考証など大分無視したり怪しい部分がございます(汗)ご了承下さい。