二話
「ティナ」
庭掃除を終え、騎士たちの溜まり場を掃除していたティナは、名前を呼ばれそちらの方へと体ごと視線を向ける。
どこか浮かれたような声音に、軽快な足音を乗せて将軍に真っ向から意見した男、シリジェレン=ユリフィルがティナに近寄る。
薄茶の髪に、垂れ下がった目尻。どちらかといえば美形に分類される男は、こんなところで無骨に剣を振るっているのが似合わないほどの優男である。
まして、あの将軍に楯突ける程の人物であるとはとてもではないが見えない。
「お父さん」
さらには、年端もいかない子供にお父さん、と呼ばれ相好を崩す有様をみては、彼が戦時下において、非常に有能な兵士であった、ということなど想像もできない。
だが、あの戦争からさほど時がたっていないせいなのか、彼の勇士、あるいは、残酷な一面を知るものも多い。そのどちらかというと陰湿で狡猾な手口から、どこまでも真っ向勝負の将軍よりも、彼を密かに恐れるものが多い、というのは無理もない話だろう。
そんな彼のあまりな態度の落差に、過去を知るものも知らないものも慣れないうちは愕然とするのが定番だ。十二分に扱かれた先ほどの新入りなどは、呆けた顔を晒しながら親子の姿を見つめる有様だ。
彼は今、第一部隊、と呼ばれる最上位の騎士団の隊長を務めている。
もともとは、あの鬼のような将軍が隊長を、ユリフィルが副隊長を務めていた。ニラノはそれほど高位ではないとはいえ貴族階級であり、隊長の職に任じられるに不足はない能力も有していた。
一方、ユリフィルの方はといえば、見事なばかりに平民あがりである。
いささかきな臭い仕事ばかりにその腕を貸していたら、いつのまにか副隊長に納まってしまっただけである。おまけに長い戦争において、上司が出世したおかげで彼までもが今の地位へと押し上げられてしまった。
それだけ、あの戦争における功績が高かったからなのだが、彼は今の地位を少し窮屈に思い、ニラノの出世を恨みがましく感じている。
「今日のごはんは?」
「お隣のおばさんにもらったお肉を仕込んであるよ」
「ティナはいい子だなぁ、きっといい奥さんになるよ!でも嫁にはやらないけどね」
その言葉に、幾人かの部下たちが笑いを押し殺す。
「なんだよ、僕のティナがいい奥さんにならないとでも?」
「隊長、それはいくらなんでも気が早すぎますよう」
「そうそう、ティナちゃんいくつですか?いったい」
子供のように口を窄め、あからさまに抗議の表情を浮かべた隊長に、からかいの言葉が続く。
確かに、ティナという少女は、まだほんの子供であり、どちらかというと貧弱な体は、少年を思わせないでもない。零れ落ちそうな程大きな目、品よく配置された小さな口、一つくくりに縛られた柔らかな髪が、かろうじて彼女を女の子らしく見せてはいるものの、その魅力はどこまでも子供としての愛くるしさ止まりである。そんな彼女を前にして、嫁に云々と言われたところで、失笑しかでないのはあたりまえだ。
「まあいいや、今もこれからもかわいいティナには手をださないように。出したら、わかってるね?」
隊長をまったく知らないものが見れば、さわやかな笑みに頬を染める女もいるだろう。
だが、彼のことを心底知っている彼らは、笑顔を引きつらせた。
「じゃあ、明日も訓練がんばろうねぇ」
完全に笑顔を凍らせた部下を尻目に、彼はティナの手を引き、うれしそうに帰宅していった。
「おはようございます」
「……ああ」
まったく挨拶とはなっていないが、あの泣く子もさらに号泣すると言われるマグヴァルン=ニラノの返答としては上出来なものだろう。
騎士が訓練へとやってくる時間よりも前に掃除を始めるティナと、新入りよりも早く来ては鍛錬を始めるマグヴァルンは、毎朝こうやって挨拶を交わしている。
始めは、明らかに子供であるティナが泣き出しやしないかとはらはらしていた従者だが、彼女が意外なほどあっさりとこの強面の騎士に慣れてしまったものだから、拍子抜けしたことを思い出す。
あれから五年たっても、彼女はいまだ子供のままだ。
ただ、伸ばされた髪だけが、多少は性別、というものを意識させないこともない。ただ、子供特有の現象なのか、時折ひどく高い熱を出し、親ばかたるシリジェレンを心配させることもある。それ以外はその愛らしい容姿を除けば、将軍ニラノがことさら気に留めるべき要素がある、という子供ではなかった。
だが、従者の予想を裏切り、わずかではあるがこのティナという子供は、鬼将軍の心のどこか、で認識せざるを得ない対象物となっていた。
「ティナちゃん、これから学校?」
「はい、午前中だけ」
戦争が終わったのち、子供たちへの教育が一番の財産となるだろう、というアルゴ新王のもと、王都から順々に教育施設が整えられていった。十六で成人となるまでの一定期間、国の子供であれば誰でも教育施設へと通うことができ、そこで最低限の読み書き、計算、歴史などを学ぶことができる。もちろんティナもそれに当てはまる国民であり、こうやって雑用をこなす傍ら、一般的な庶民が通う学校、というものへと通う毎日だ。
本来なら、ただの日常会話以上のものでもない挨拶程度のやりとりに、マグヴァルンが注意を払うことはない。常に寄った眉間の皺をさらに深め、従者を一瞥するのみだ。
しかしながら、本日の将軍はことのほか機嫌が良かったのか、ただの部下の一人、であるシリジェレンの子、ティナに気まぐれに声をかける。
「なぜ、おまえはそこへ通う」
珍しく口を開いた主を見つめ、従者はしばし呆然とする。
しかし、まったくもって足りないその言葉は、従者をしてもその意味を図ることができないでいた。
「あそこは、私には場違いです」
「資格があるのにか?」
だが、そんな従者を置いて、どうやら彼らの会話は成立しているらしい。
「お嬢様ではありません」
ここまで来てようやく、ティナとニラノの会話の意味がわかった従者が、開け放ったままであった口を閉じ、ゆっくりと口を挟む。
「ユリフィル隊長のご令嬢でしたら、十分なのでは?現に私程度でもあそこの卒業生ですし、隊長の武勲を知らぬものはおりませんでしょう」
「……ええ、でも、似合いません」
にこりと笑い、一つ頭を下げた後、ティナは彼らから離れていった。
「ティナちゃんだったら似合うと思うんだけどなぁ」
従者のつぶやきに、主は何の返答も返さない。
ニラノとその従者が指していたものは、貴族の子どもたちが主に通う学校のことである。一部隊の隊長であるユリフィルの娘ならば、それが許される立場ではある。
貴族、とはいえここはプロトア。
連綿と続く階級社会ではあるものの、隣国ローレンシウムほど厳然とした区別はつけられていない。もちろん貴族連中は家柄を尊び、それしか誇るようなものがないものもいる。だが、どちらかといえば戦後徐々に実力主義が基礎となっていった国家において、そのような輩は生暖かい目で遠巻きにされることも少なくはない。
まして新王は実力のあるものを抜擢し、優遇することで有名だ。
そこには既存社会からの反発はあるものの、戦争を終わらせた賢王子、そして力ずくで先王を廃した血塗れた王である現王に表立って逆らうものはいない。
終戦から五年。
人々のあの頃の記憶はまだ生々しい。
だからこそ、英雄の一人であるユリフィルの娘がそこへ通ったところで、歓迎されこそすれ、冷遇されることはないはずだ。と、そこまで従者は考えて、主がとっくに鍛錬へと入り込んだことに気がついた。
あわててその姿を視線で追う。
遠縁の家の子供、そんな縁でもなければ、もう一人の英雄、ニラノの剣技などを間近でみる機会になどありつけなかった、と、己の手にした幸せをかみ締めながら。