9 笑うアイツ
「ダメって……どういうことですか?」
美咲は真剣な瞳で問い返した。
私は頭をすっきりさせようとコーヒーをすすった。
目の前に鎮座まします御曹司が考えていることがまったく、まっったく、わからない。
「これで美咲ちゃんから連絡をしてもとの関係に戻ったとしても、貴俊はずっと、いつか美咲ちゃんを失うかもしれない、そのときはそれを受け容れようって思いながら接すると思う。それじゃ今までと何も変わらない」
そう言ってから真吾は小さくため息をついた。
「物分りが良すぎるんだよ。どんなに理不尽なことでも受け止めちまう。小さい時からわがままを言わないタイプだったけど、大人になるにつれそれに拍車がかかった。玲子ちゃんのことは『そっか好きな人いたのか』、美咲ちゃんのことも『そっか見合いしたのか』ってさ、受け止めちゃってんだ」
「懐の大きい人ってだけじゃないですかね、それ。ダメなの?」
「だって、おかしいと思わない? 普通、土下座は俺じゃなくてあいつがすることでしょ。連絡取りたければ会いに行くくらい、すればいいんだ。美咲ちゃんの家だって知ってるんだから」
――そうだ。
私はやっと、自分がずっと抱いていた違和感の原因に気付いた。
そう、この人が必死なのはいいけれど、なんでそれが貴俊さんじゃないのだろうかと。
毎日会社にやって来るこの人から逃げ惑っている間も、この人が土下座しているのを見下ろしていたときも、その後話を聞いたときも、そこには微かな違和感があった。
だって、必死で追う男と必死で逃げる女の間には、何もなかったから。
課長が疑わしそうな目を向けてくるのも無理はない。不自然だからだ。この追いかけっこは不自然だったのだ。本当は真吾さんと私でなく、貴俊さんと美咲がするはずのもの。
「……それは、私のことを……その、そこまで好きなわけじゃないということではないでしょうか」
美咲が俯いた。
「ううん。そうじゃない。美咲ちゃんは特別だよ」
美咲の言葉を、真吾は真っ向から否定した。
「あいつさ、普段はすごく冷静なんだ。がむしゃらに何かを求めたりするタイプじゃない。でも、美咲ちゃんのこととなると、明らかに理性よりも感情が先に動いてる。初めて会った時から違ったよ。泥酔してるのに美咲ちゃんを見た途端にシャキッとしちゃってさ」
たしかにそうだった。
そして美咲にだけ握手を求めた。
「でも、そんな自分の感情に戸惑ってるんだ。普段は感情に突き動かされるようなことないからさ、自分の感情を御しきれないことに混乱して、逆に奥に奥に押し込めようとしてる」
そう言ってから真吾は微笑んだ。
キラースマイル。正面から見なくてよかった。
「あいつ今でも「みさき」って言葉を聞くたびに面白いくらい動揺するんだ。月をみておいしそうって呟いてるのも聞いたよ。それってさ、美咲ちゃんが言ったんだろ?」
美咲はまた泣きそうな顔でうなずいた。
「あいつは本当に美咲ちゃんのこと大事に想ってるよ。一緒にいて思わなかった? 大事にされてるって」
「それは……思ってました。あんなに大切に扱われたのは初めてで、くすぐったいくらいでした。だからこそ混乱して……」
「あいつは大事にすればするほど、どんどん深みにはまっていくんだ。迷惑かけたくない、うざがられたくないって。遠慮のカタマリなんだよ」
それから真吾は少し考え込んだ。
「俺から話すべきじゃないのかもしれないけど……でも、貴俊を理解してもらうにはたぶんこの話をしといたほうがいいんだろうな」
そう言うと真吾は急に立ち上がった。
「コーヒー冷めたろ。淹れなおすからちょっと待って」
きっと、これから話そうとしていることは、倉持真吾にとって辛いことなんだ。本当に何となくだけど、そんな気がした。
真吾はカウンターの向こうのキッチンに立った。
パワーンッと金属を水が叩く音が聞こえてくる。やかんに水を入れているらしい。続いて、チッチッとガスに点火する音も響いてきた。
その小さな音が響く中、隣で何も言わずにじっとテーブルに視線を落としたままの親友が心配になった。
「美咲、大丈夫?」
「うん」
「今日いっぺんに聞かなくてもいいんじゃない?」
「ううん。ちゃんと全部聞きたい。消化するのはそれが全部終わった後にしようと思う」
仕事をしているときにすら見せたことのないほど真剣な表情の美咲は、凛としていてかっこよかった。
しばらくするとコポコポとコーヒーの落ちる音が聞こえてきて、それと共に部屋に芳醇な香りが広がる。きっと高い豆なんだろうなぁ。ブルマンかな。高い豆と言ったらブルーマウンテンしか知らない私だけど、きっと他にも色々あるんだろう。
真吾はコーヒーを入れたカップを私たちの前に置いてから椅子に座り、カップに口をつけた。
たぶん、落ち着きたいときにコーヒー飲むのが癖なのだろう。
「貴俊、小さい時に母親に置いてけぼりにされたんだ」
真吾はゆっくりと語りだした。
「貴俊の実家はね、今は俺の家と同じ敷地の中にあるんだけど、あいつが生まれた当初は違った」
あ、出た。
同じ敷地の中に複数の家があるという庶民には意味パプーな状況。
どんだけ広い敷地なのか。
「最初は貴俊と貴俊のご両親の三人暮らしだったんだ。でも、貴俊が四歳になるちょっと前にあいつの実の母親が出て行った。二度と戻ってこなかったし、連絡をしてくることもなかった。あいつの父親は…俺にとっては叔父でもあり会社の上司でもあるわけだけど…超仕事人間で、ずーっと仕事ばっかりしてたんだ。それに耐えられなくなったらしい」
そうか、お母さんが。それはきっと悲しい出来事だったのだろう。当たり前に両親と姉と妹に囲まれてわいわい育った私には、到底理解できないくらい。
「叔父が一人で子供を育てるのは大変だったから、貴俊を連れて実家に戻った。その後叔父が再婚して敷地内に新しい家を建てるまでは、俺と貴俊は同じ家に住んでた。だから兄弟みたいに育ったんだ。その後叔父が見合いして再婚して、あいつには新しい母親ができた。叔母はすごく優しい人で、貴俊に愛情をたっぷり注いでかわいがった。でもあいつは、その愛情を受け取りはしても、自分から何かを求めることはなかった」
失う怖さを知っているから……だろうか。
「あいつの母親が出て行った時のことを叔父は知らない。仕事から久しぶりに帰ったら家は暗闇だった。がらーんとした部屋に、一人ぼっちであいつが座ってたんだって。メモが残されてたからあいつの母親が出て行ったことだけはわかったけど、出て行く前にどんな会話が交わされて、どうして貴俊が暗闇の中で座ってたのか、結局何もわからなかった。貴俊は口をつぐんだままだった。四歳児なのに、泣きもせずにそこに座ってたそうだ」
唖然。
置き去り?
四歳の子を?
他人事ながら、怒りがこみ上げた。
「たぶんそれからだと思う。貴俊が異常に物分かりがよくなったのは。叔母に愛情を注がれてくすぐったそうにはしてたけど、どこかで諦めているような、失う覚悟をしているような感じなんだ。そんな中、今度は花嫁に逃げられた。花嫁が逃げた後、あいつはやっぱり広すぎるがらーんとした部屋に一人ぼっちで住むことになった。よく『広すぎる』って言ってたんだ、あのマンション。嫌でも思い出したと思う、母親に捨てられた時のことを」
心臓を抓りあげられるような感覚を覚える。
私も美咲も、無意識に胸に手をやって、そこをぎゅっと押さえていた。
――心ってどこにあるんだろう。脳みそかな。
そんなことを思ったことがある。
でも、辛い時にはどうしてだか胸を押さえたくなる。だからきっと、心はここにある。
「これからもずっと失う覚悟をして、遠慮のカタマリで生きていくなんて、しんどすぎるだろう。だから、その閉じてるところから出てきてほしいんだ。これが最後のチャンスだと思う。あいつがあれだけ執着する美咲ちゃんだからこそ、頼めるんだ」
――チャンス、何の?
目で問いかけると、真吾は力強く答えた。
「貴俊孵化大作戦」
何だ、それは。
私はコーヒーをぐいっと飲んだ。
「あのね、真吾さん。貴俊さんのことはよくわかった。そんな事情があるなんて知らなかったし、気の毒だと思う。でも美咲をあなたの願望に巻き込まないで」
ところが、次に口を開いたのは美咲だった。
「あの、私、どうすればいいですか?」
美咲が真吾に問いかけた。
「貴俊さんには幸せになって欲しいです。すごく優しくて温かくてこれまでも大好きでしたけど、今日の真吾さんのお話を聞いて余計に大好きになりました。それにちょっと切なくもなりました。貴俊さんには絶対に幸せになって欲しいです。私にできることがあるなら、お手伝いします」
美咲がきっぱりとした口調で言ったので、私はあーあ、と天井を仰ぎ見る。
美咲、あんた絶対変なことに巻き込まれるよ。
「あのさ…美咲ちゃん、貴俊との将来とか考えてた?」
真吾がにやりと笑った。
これは本当にニヒルなやつだ。やばい。
「考えていました。だからこそ、誤解して辛かったんです」
「貴俊もね、考えてたんだよ。だからさ、賭け、してみない?」
「賭け…ですか?」
「そう。どうせやるなら、最高に楽しい賭けをしよう」
あんたにとって最高に楽しくても、美咲にとって楽しいとは限らないのよ。私は心の中で叫ぶが、美咲が真剣に聞いているので口に出せない。
「……やります。私、賭けてみます」
「よっしゃあ。まぁ、勝ちはほとんど約束されたようなものだけどね。最高の舞台を作ろう」
そういって真吾は満足そうに伸びをした。
「ってことで、結婚式、しようぜ」