8 笑わぬアイツ
倉持真吾と私と美咲が会う約束をしていたその日、外は土砂降りの大雨だった。
真冬の雨は最悪だ。濡れて冷えて、体がぶるぶる震える。おまけに、ただでさえ扱いにくい髪の毛が湿気で暴れまわって、なすすべもない。
「いらっしゃい。どうぞ、入って」
場所は倉持真吾の家だった。外だと誰に聞かれるかわからないし落ち着かないからとの提案だった。
苦い記憶が脳裏をかすめる。
以前、一度だけこの場所を訪れたことがあった
。貴俊さんの結婚式の招待状を見つけてしまったあの日のことだ。
私と奴は互いに貴俊さんと美咲のお付き合いの進捗状況が知りたくて、頻繁に情報交換をしていた。その過程で、二人とも同じ映画が大好きだと言うこと、そしてこの御曹司の家には大きなスクリーンのホームシアターがあることを知った。
それでノコノコと映画を見せてもらいにやって来ていたのだ。
もちろん子供じゃないので男の人の一人暮らしの家に行っていいものかと多少は悩んだものの、「うち来る?」と問うた倉持真吾は明らかにただの映画好きの目をしていたし、女性には全く困らなそうな人だからまぁ平気だろうと、お邪魔することになったのだ。
スクリーンの部屋に巨大なベッドがあるのを見た時はさすがに多少動揺したけど、御曹司はささっとベッドをたたんでソファーにしてくれた。ちなみに、座椅子みたいにキコキコ調節する安いソファーベッドではなく、滑るように形を変えるハイテクなソファーベッドだった。まぁそんなことはどうでもいいんだけど。
映画鑑賞をし、観終わった後倉持真吾がコーヒーを淹れてくれている間、私は彼のDVDコレクションを物色していた。
映画の好みはかなり合うらしく、私の好きな映画がほとんどすべて揃っていた。ジャンルを問わず色々な映画を見るので、「ファンタジーが好き」とかいう語り方はできない。それなのに、たくさんのジャンルにまたがるバラバラに散らばったお気に入りが、大部分一致していたのだ。
奇跡。
まさに奇跡だと思った。
ここさえあればレンタルDVD屋に足を運ばなくて済むではないかと感動しつつ、観たことがなくて気になっていた作品を見つけ、棚から引き出した瞬間だった。
何か封筒のようなものが棚の上部から滑り落ちた。一目見て高級だとわかる白い封筒から中身がこぼれて広がる。個人的なものだろうから見ちゃダメだと思い、あわててそれをひとまとめに拾い上げたとき、封筒の差出人の名前に目が吸い寄せられた。
「倉持貴俊」と、連名でもう一つ、女性の名前。「飯塚玲子」
――これって……
貼られたシールは金色で有名ホテルの名前が刻印され、差出人は毛筆で丁寧に書かれている。
そうした形式の封筒には見覚えがあった。
じっと、封筒からこぼれ出た中身を見つめる。
ダメだとわかってた。
でも、二つ折りにされた固い紙を開かずにはいられなかった。
紙には、季節の挨拶に連なって『このたび 私たちは結婚式を挙げることになりました』という文字。その下に、またしても「倉持貴俊」と「飯塚玲子」。式の日付はちょうど一年前。
あの瞬間に私の中で湧き上がった感情は、言葉では説明のできないものだった。脳みその中で打ち上げ花火が百連発くらい上がってるような感じだろうか。あまりの衝撃に、その後倉持真吾と何を話したのかも、どうやって家に帰ったのかも覚えていない。家に着いたときには顔がぐちゃぐちゃになるほど泣いていて、一晩悩んだ末に震えながら美咲に電話を掛けたのだった。
「そこ座って」
倉持真吾に言われるまま、美咲と並んでダイニングの立派な椅子に腰かけた。淹れたてのコーヒーからゆらゆらと湯気が立ち上っている。その湯気の向こう、向かい側に倉持真吾が座った。部屋は暖かくて、雨に濡れた私たちの冷えた体を包み込む。
「美咲ちゃん、久しぶり」
「いえ、あの……押し掛けてしまってごめんなさい」
美咲の声は消え入りそうだ。
「いや、来てくれてありがとう。さて、どこから話せばいいかな」
倉持真吾はそう言って深く息を吐く。
「とりあえず、貴俊の結婚式のことから話そうか」
美咲がこくりとうなずく。
「これが、ハルカちゃんが見つけた招待状」
テーブルの上に差し出されたのは、あの日私が見たままの封筒だった。
「中身を見たければ確認してもいいよ。倉持貴俊と飯塚玲子の連名の招待状だ」
美咲は下唇を噛んで首を振った。
「……去年の秋だ。式は予定通り始まって、指輪の交換も終わったところで――」
美咲が息をのむ。
「男が一人、式場に乱入してきた。それで花嫁を連れ去った。連れ去ったって言っても無理矢理じゃなく、まあ多少強引だったにせよ、花嫁はついて行った。婚姻届はまだ提出してなかったから結婚は空中分解。貴俊はただただ呆然としてた」
あまりの衝撃に、美咲は言葉を失っている。
「見合いで出会ったとはいえ一度は一生を共にしようと思った相手だったわけだし、さすがにショックだったと思うよ」
倉持真吾は腕を組む。
「んであいつ、お人好しだからさ。乱入してきた相手の男との結婚を認めてあげて欲しいって花嫁のご両親を説き伏せた。すったもんだあったんだろうけど、結局二人は結婚することになった。その知らせが貴俊に届いたのが、あの日――美咲ちゃんと貴俊が初めて会った、今年の三月だったんだ。だからあいつが珍しく泥酔してた」
美咲は黙って奴の話を聞いていたが、その丸い瞳から涙が一粒零れ落ちた。
「わたし……何も……何も知らなくて……」
倉持真吾は美咲の涙にも動揺する様子はなく、黙って小さなハンドタオルを差し出した。
――ちょっと待て、今それ、どこから取り出した?
美咲が泣くことを予想していたみたいに、当たり前のように出てきた。
本当に隙のない男だ。
感心するとともに、出遅れたことへの敗北感も抱いた。美咲の涙をふくのは私のハンカチであってほしかった。……なにこれ、ちょっと気持ち悪い。
「非は貴俊にある。もっと早くに美咲ちゃんに話すべきだったと思うよ。ただ……あいつは、間抜けだって思われたくないって言ってた」
「間抜け……?」
「結婚式で赤絨毯の上に取り残された男なんて間抜けだって、貴俊はそう思ってたんだ」
一瞬、本当に一瞬だけど、真吾の頬がぴくりと動いた。奥歯を噛みしめたのだと思う。会話は真吾と美咲の間で進んでいたので、私はなんとなく正面に座った真吾の表情を観察していた。
「そんな。貴俊さんは何も悪くないのに」
「そうなんだよ。でも、何も悪くない貴俊が結局一番貧乏くじを引いたんだ。心ない噂も随分流れたし、あからさまに嘲笑うような奴も少なくなかった。ゴシップネタは有閑マダムの大好物だからね」
そう言ってから真吾はすっと一枚の写真を差し出した。
「これ、玲子ちゃんとその旦那。二人に頼んで写真送ってもらったんだ」
「あ……この人……」
「美咲ちゃんが貴俊のマンションの前で見たのって、この二人じゃない?」
「……たぶん、そうです」
真吾は目を閉じ、すっと息を吸い込んだ。瞼がかすかに震えている。
この御曹司でもこんな顔するんだ。完璧なそのルックスが崩れたその一瞬は、なぜか私をほっとさせた。
「あのね、あのお人よし…馬鹿だからさ、頼られると断れなくて。九月の半ばくらいにさ、玲子ちゃんが訪ねてきたんだって。詳しいことはよく知らないけど、旦那と喧嘩したんだかなんだかで。それであいつ、泊めてやったの。玲子ちゃんを」
ちょ、ちょっとそれって…私が口を開こうとすると、真吾がそれをあっさりと制した。黙って聞け、という目。
「でもあいつ、くそ真面目だから。玲子ちゃんが訪ねて来たのはもう真夜中だったんだけど、俺のとこに電話かけてきたんだよ。泊まりに行っていいかって。俺もその時は詳しい事情聞かなかったから知らなかったんだけど、玲子ちゃんの様子から、別の場所に行けって言えるような状態じゃなかったんだってさ。それでまぁ結婚後新居になる予定だったマンションだから玲子ちゃんも勝手がわかってるしって、自分の部屋を貸すことにして、自分は俺の部屋に転がり込んだの」
お人好しにもほどがある。
「玲子ちゃんと同じ部屋に一晩居たってあいつは何かするような奴じゃないけど、それでも、同じ部屋で過ごすってだけで美咲ちゃんに対する裏切りだからって。結局一週間弱くらい部屋貸してたんじゃないかな。その間、あいつは俺の家と会社を往復し、一回だけ玲子ちゃんに話を聞きに夕方家に戻った以外はここで生活してた。それから玲子ちゃんの旦那…こいつ、片瀬って言うんだけど、片瀬に会いに行って、仲直りしろって言って、自分の住所教えたの。美咲ちゃんが目撃したのは、この片瀬夫妻の仲直りの現場だと思う。日付もわかるよ、九月二十日。ちなみにその日、貴俊は片瀬に会いに行ったあとはこの家で仕事してた」
真吾はあの左右非対称のひねるような笑いを浮かべたが、目はちっとも笑っていなかった。何かに怒っているように見える。
貴俊さんのお人よしっぷりに腹が立った…?
いや、違う、この人が腹を立てているのは、貴俊さんを裏切った玲子さんと、苦しめたこの旦那だ。
表面上はどんなに穏やかに見せても、この人は怒ってるんだ。私が愛と勘違いしちゃったほど大切に想う貴俊さんを傷つけた二人のことを、この人はまだちっとも許していない。
チク、と胸が痛んだ。
私も貴俊さんを傷つける元凶になったんだけど。
表に出さないだけで、やっぱりこの人は私に対して怒りを感じているんだろうか。
「とりあえず、最大の誤解はこれでとけたかな?」
真吾はゆっくりと深呼吸した。
「私……あの……」
美咲が肯定とも否定ともつかない声を出した。
「まだほかにもあるなら、全部吐き出しちゃっていいよ。この際だから、絡まった糸を全部ほどこう」
「貴俊さんと電話でお話ししてる時に、後ろで女の人の声が聞こえたことがあったんです。お風呂に先入るとか何とかって」
「それ、いつ頃かわかる?」
美咲はごそごそとカバンから手帳をとりだした。ぱらりとめくる。
「お芝居の少し前だから……多分六月の下旬ごろだったと思います」
お芝居ってあれか。私と美咲で見に行ったやつ。あの頃美咲は貴俊さんと付き合い始めたばっかりですごく楽しそうだったのに。そんな悩みを抱えていたとは。私は一体何を見ていたんだろう。
「ああ、それ間違いなく茜だ。あいつの妹。家飛び出して貴俊の家にいたんだ」
「妹さんだったんですか。私はてっきり……」
「浮気してると思った?」
「いいえ。私が浮気相手だと思ったんです」
美咲の言葉には、さすがの真吾も驚いたような表情をした。
「有楽町のホテルの前できれいな女の人と一緒にいるところを見かけたこともありましたし」
え……有楽町ってお芝居の日?
ホテルの前なんて通りかかったっけ。
あの日お芝居の後私は美咲と一緒に駅まで歩いて、貴俊さんを待つという美咲を置いて電車で帰ったんだった。その道すがら、きっとホテルの前を通りかかったんだろうな。
で、美咲と同じものを見ているはずの私は何も気づいていなかったと。
駅でバイバイするとき美咲がちょっとこわばった顔をしているような気がしたけど、貴俊さんに会うので緊張してるんだなぁくらいに思っていた。
本当に、私は一体何を見ていたんだろう。
私の内心の呟きをよそに、真吾さんと美咲の会話は続いてゆく。
「有楽町のホテルって…ああ、六月の末じゃない? 会社関係のパーティーがあったんだよね。あいつはそういうの好きじゃないからずっと避けてたんだけど、そのパーティーに俺が茜の彼氏を呼んでたから品定めに行ったんだ。で、きれいな女の人っていうのはたぶん幼馴染の伊織。背高くて髪の毛長い人でしょ」
「はい。あ、その、元・花嫁の人じゃなかったんですね。私、あの、パーティーで見かけた女の人とその後マンションの前で見た女の人が同じ人だとばかり思ってて」
「それはないよ。玲子さんはあのパーティーには来てない。それに伊織は結婚してる」
「その…腰に手を添えてたりして、すごい自然な感じだったので…」
「幼馴染だからね。自然なのもしょうがないんじゃない。空気みたいな。それ、美咲ちゃんが見ちゃったの?」
「そうなんです」
「それはまぁ、見て気持ちのいいもんじゃないよね。でもね、貴俊が伊織のことを好きって言うのだけは、絶対にないから」
なぜか真吾は力強く断言した。
まぁ、貴俊さんは人妻に不毛な恋心を抱いたりはしなそうなタイプだよね。いかにもお利口さんなタイプで。感情よりも理性が先にくるような。
「退屈なお仕事って聞いてたので、まさかあんなところで綺麗な女の人と一緒にいるのがお仕事だなんて思わなくて。もしかして嘘…だったのかなぁと思ったんです」
「なるほどね。退屈なお仕事ってのは本当だよ。特に貴俊にとってはね。1年前の事件のせいで格好の餌食になるんだから。不愉快なパーティーだったと思う」
「餌食……」
「そう。会場でも視線が突き刺さるっていって苦笑してたよ。結婚式で花嫁に逃げられるってそういうもんなんじゃない? ドラマみたいでしょ」
真吾の目は、さっきからちっとも笑っていない。
「私……私、貴俊さんに連絡しなきゃ。謝らなきゃ……」
熱に浮かされたように、美咲が言う。
ところが、携帯を取り出したその小さな手を押さえたのは、真吾の大きな手だった。
「たぶん、それじゃダメだ」