6 酔う私
美咲と会った次の日、会社に行くとまたしても課長が私の席に座っていた。
「おい嘉喜、今日飲みに行くぞ」
「飲みに行くぞって、決定事項ですか」
「そう。うまいとこ連れて行ってやるから」
おっ。
「顔色が変わったな。わかりやすいなぁ、お前は」
課長が私を見上げたままクックッと笑う。
「まぁ、おいしいとこに連れて行ってくれるって言うなら」
「おし、じゃあ、今日も一日頑張ろうぜぇ」
課長は勢いよく椅子から立ち上がると、ひらひらと手を振りながら自分の席に戻って行った。
夕飯を楽しみに一生懸命仕事して、課長と連れだって会社を出た。そしてやって来たのは汚い居酒屋。だけど汚い見た目とは裏腹にご飯がものすごくおいしかった。いかにも手作りって感じの味で、独り暮らしを始めてからおふくろの味というやつに飢えている私の舌は、口の中で狂喜乱舞していた。
「で、嘉喜は何を落ち込んでるんだ。昨日から」
「なんれもないれふ」
あまりにおいしいので次から次へと口に詰め込んで、もごもごと答える。
「何でもなくないだろ、お前が凹むって相当だろ」
「わらひれもおひほむほほふはいあるんれふ」
「何だって?」
ごっくん。
「私でも落ち込むことくらいあるんです!」
「ほら、落ち込んでるんじゃねぇか」
あ、しまった。
「何でもありませんって」
ビールのジョッキをぐいと傾け、ごくごくと喉を鳴らす。
「はーっ。おいしいっ」
「誤魔化すな。言えよ。誰かに話したら楽になることだってあるだろ」
「別に仕事のことで落ち込んでるわけじゃないから大丈夫ですよ。課長が心配するようなことじゃないんです。仕事はちゃんとやれてるし、ミスも今のところしてないし。そっちは順調そのものですから。本当にご心配なく」
「俺は別に仕事の心配をしてるわけじゃない。お前が仕事をちゃんとやれてるのはわかってるよ。当たり前だろ、入社してからずっとお前を仕込んで面倒見てきたのは俺なんだから」
あら、この人もちょっとオレ様なとこあるんだなぁ。知らなかった。
私は枝豆を口に近づけ、ぷつりと皮をつまんだ。ていやっ。枝豆が口に飛び込む瞬間のパインッていう感覚がすごく好きだ。ピュッでもポンッでもなく、パインッって感じ。
「聞いてんのか」
「聞いてますよ」
「俺は仕事の心配をしてるんじゃなく、お前の心配をしてるんだ」
「それって何か違うんですか」
「大きく違うんだよ」
「そうですか?」
枝豆の次はモツ煮込みに箸を伸ばし、のこり少なくなってきたモツを煮汁の中から救いだした。
さっきから私ばっかり食べてる気がする。でも、確か課長は内臓系がそんなに好きじゃなかったはず。たぶんこれは私のために頼んでくれたものだ。
課長は本当に優しい。こうしてご飯を食べたり飲んだりするとき、必ず私の好みのものを頼んでくれる。別に私は何が好きだとかあれは嫌いだとか言ったことはないんだけど、課長は驚くほど的確に把握しているのだ。この人はたぶん、誰かと食事するときいつも相手の箸の進み具合とか見ながら好みを見極めてるんだろう。
ただの部下にまでこんなに気を遣えるんだから、すごい人だ。
「……やっぱりあの人が原因か、倉持商事の常務」
部長が焼き魚を箸でつつきながら言った。
また出た、倉持真吾。
課長はなぜかやたらと彼にこだわる。取引先だから、やはり色々と情報をつかんでおきたいというところか。といってもうちは企画部。営業ほど外部とのつながりは大きくないので、情報をつかんだところでそれをどう生かすのかはよくわからない。
「違います。言っときますけど、本当にあの人とはそんなんじゃないんですよ」
「土下座までさせて?」
「あれは込み入った事情があってですね……昼ドラな展開とかじゃないんですよ」
「昼ドラなんて思ってないよ。ただ、どうみてもあれは惚れた女に話を聞いてもらいたくて縋ってる男の図だったから」
惚れた女、とな。
「全くもって違いますよ。課長、本気であの人が私に惚れるなんてことあり得ると思うんですか? あの人、モテの権化ですよ」
「何だ、モテの権化って」
「モテの要素をものすごくたくさん備えてるってことです」
目の前にかざした左手の指を一本ずつ折り曲げながら、一つ一つ要素を挙げていく。
「イケメンで顔小さい、足長い、手きれい、背高い」
左手が終わり、右手の箸をおいて右手の指を折り曲げる。
「金持ち、お洒落、フェミニスト、話がうまい、気が利く」
次は左手を開いていく。
「友達想い、気取らない、自信家……」
「わかったわかった。つまり3Kってことだな」
「なんですか、その住みづらそうな家は。LDはどこにいったんですか」
「……間取りの話をしてるんじゃない。3Kまたは三高。高身長、高学歴、高収入。結婚相手に求める条件だよ」
「聞いたことないですよ」
「お前のいうジェネギャだろ。もういいよ」
課長がちょっと不機嫌な顔で言った。
「とにかく、モテる要素をこれでもかってくらい詰め込んだ人だってことです。強引なところにホイホイいっちゃう女の子も結構いますからね。まぁ、あれだけ揃ってたら自信家でもしょうがないっていうか。で、そんな人が私を相手にすると思いますか?」
右手に箸を持ち直し、またモツ煮の皿に箸を伸ばした。
ああ、モツ煮もう空っぽ。もうちょっと食べたかったなぁ。
「わからないだろう。人の好みなんて。すみません。モツ煮のおかわりください」
課長が即座に声を掛け、店員さんから「はい! モツ煮いっちょういただきました!」と声が上がった。
なんだなんだ、私の心を読んだのか。
おそろしい上司だ。
「課長だって、中身が全く同じでブサイクとキレイだったらキレイな人がいいでしょう」
「そりゃあそうだけど、中身が全く同じ人間なんていない。それに綺麗かどうかってのは絶対的な基準があるわけじゃないだろ。何を綺麗と思うかは人それぞれだ」
グラスを片手に課長は目を眇め、私をじっと見つめる。
「それにしたってねぇ、私を見て絶世の美女だと思う人はいないんですよ」
モツ煮が来るまで手持無沙汰な私は、テーブルの上のおしぼりでビールのジョッキについた水滴をぬぐった。
「いるかもしれないだろう」
「いませんよ」
「何でそう言い切れるんだよ」
「わかるんです」
「何が」
「二十五年も生きてればね、自分の立ち位置みたいなの、わかるんですよ。私は生まれてこのかた一目惚れなんてされたことないし、ナンパされたこともありません。今まで付き合った人はみんな『お前といると楽だ』って言ってました。つまり、可愛いから惚れたとかキレイだから惚れたとか優しさに惚れたとかいじらしさに惚れたとかそんなんじゃないんですよ。その辺に生えてる雑草みたいだから、みんな私には気を遣わなくていいんです。で、私も別に雑草扱いに不満はないんです。だから私と一緒にいるの楽なんですよ」
課長はポカンとしていた。
わたしは昔から、モテ要素と呼べそうなものは何一つ持ってない。唯一褒められるのが『一緒にいて楽』ってとこだけ。でも、そんな自分が実は結構好きだ。自分にも他人にも甘いおかげであんまり敵を作らず、たくさんの人と仲良くなれる。
「だからね、私があの人だったとしても私のことは選びません。世の中には天から二物も三物も、いや、もっともっとたくさんの物を与えられた人がいるんです。倉持真吾の女バージョンってのもいるんですよ。顔よしスタイルよし家柄よしな女の人ってのが。そういう人同士がくっつくようにできてるんです」
課長は口を開けたままだ。
「課長だってイケメンだから、キレイな女の人が寄って来るでしょう?そういうもんです。私には、雑草にふさわしい人が寄ってきますよ……たぶん。だから、いいんですよ、それで」
「それ、倉持常務のことが好きだって聞こえるんだけど」
「いやいや、課長の耳どうなってるんですか! だから、倉持真吾が私に惚れるわけがないって話をしててですね。で、私はオレ様御曹司なんて大っ嫌いだから、ちょうどいいんです。あの土下座には他に理由があるんですけど、それはここでは言えません。ほかの人を巻き込むことになっちゃうので。あれは彼自身のためじゃなくてほかの人のためなんです。わかりました?」
すごい勢いでまくしたてたら、課長はやっとうなずいてくれた。
「わかったわかった。もう聞かないから。ほれ、モツ煮、来たぞ」
「……いただきます」
モツ煮を運んできた店員さんが私の剣幕にたじたじしているのを見て、急に心がしぼんだ。
「お前本当にわかりやすいな。今、空気抜ける音が聞こえたぞ。プシュッて」
ちぇっ。
わかりやすくなんてないもん。
私はモツを味わいながら、ビールジョッキの水滴を睨みつけた。
「おれは雑草だよ」
課長がぽつりとつぶやいたけど、すっかりお酒の回った私の頭にはその意味がわからなかった。