4 謝る私
〈美咲、話したいことがあるんだけど、明日の夜、空いてる?〉
倉持真吾と話をした後、私はすぐに美咲にメールを送った。
少し間を置いて送られてきた〈空いてるよ〉という返信に、大きく深呼吸をした。
どう伝えようか、ベッドに横たわってシュミレーション開始だ。
『ごめん! 私の勘違いだったの!』
がばり、と突然頭を下げる。
鳩が豆鉄砲を食らったような美咲の顔が目に見えるようだ。
それとも……
『びっくりしないで聞いて。彼、結婚してなかったの』
真剣な眼差しで告げる。
動揺して瞳をゆらゆらさせる美咲の姿が浮かぶ。
それか……いっそ……
『ごっめーん☆私のカン違いだったみたいでぇ♣』
明るくいってみようか。
いや、ダメだ。ちゃんと謝らないと。
私の思い込みのせいでひとつのカップルを引き裂いてしまったのだから。
真摯に謝るしかない、という当然の結論を確認したところで、ごろんと一度寝返りを打った。
――それにしても、なんて大それたことをしてしまったんだろう。
胃の奥から苦いものがこみあげてきた。
今も美咲は泣いているかもしれない。だから早く教えてあげたいと思う反面、少し怖くもあった。美咲は許してくれるだろうか、と。
胸がドキドキして、なかなか寝付けない。
寝付けない……
はずだったのに、結局爆睡した。
翌朝、美咲のことで頭がいっぱいだった私は、ロビーで数多の好奇の視線に晒されてからようやく思い出した。
そうでした、そうでした。私、会社のロビーで超絶イケメンに土下座させた女でしたね。「え? あの人? フツーじゃん!」という囁き声には私も禿同ですとも、ええ。
いつも思うのだが、普通という言葉はいつから「その辺に転がってるレベル」というようなマイナスな意味で用いられるようになったのか。普通で十分だと思ってきた人間からすれば、皆が贅沢すぎるのだ。
ごくごく普通な人間には周囲から無遠慮に観察される居心地の悪さはなかなか耐えがたく、通勤バッグで顔を隠すようにしながらロビーを横切った。朝からどっと疲れながら七階フロアの自分のデスクに行くと、課長が楽しそうな顔をして椅子に座っていた。まぁこれも、予想どおりといえば予想どおりなわけだけど。
「課長、そこ私のデスクですよ。課長のはあっち。あのお誕生日席です。どうしました、自分のデスクもわからないくらい耄碌しましたか」
カバンをどさりとデスクに置くと、課長が座ったまま首をねじって私を見上げた。
「嘉喜、あの男、ゲットした?」
「ゲットも何も、そういうのじゃないんです。頼みごとをされただけですから」
「倉持商事の常務だぜぇ。倉持って苗字なんだから、たぶん創業者一族だろ? 玉の輿のチャンスじゃんか」
「私、玉の輿とか家柄とか金持ちとか興味ないんで。ってか何なら苦手なんで、そういうおゴージャスな感じ。あとオレ様野郎も嫌いです。だからあの人は、世界で一番あり得ないんです」
金持ちが苦手というのは少し違う。うらやましさゆえのひがみでもないと思う。たぶん。ちょっとはあるかもしれないけど。
苦手な理由は、私の大好きな人が家柄を理由に相手の親に結婚を反対され、ずっと苦しんでいるのを見てきたからだ。
アイツだって今は遊んでるけど、一定の年齢を越えたらお見合いして結婚するに違いない。それまで遊んできた相手の女の子なんてまるで最初から存在してなかったみたいに、サラーッとしれーっと結婚しおるのだ。過去から抹消された女の人の気持ちなど、考えもしないんだろう。
「悩ましげなため息ついてんじゃんか。やっぱホの字なんじゃないの? あの御曹司に」
「課長、ホの字はさすがにやめてください。古すぎですよ。ジェネギャありすぎてついていけないです」
「ジェネギャって何だよ」
「ジェネレーションギャップです」
どうやらそこは逆向きについた鱗だったらしい。普段は温厚な課長の目が三角形になった。
「やめろよ、俺はそんなに歳じゃないぞ。まだ三十代だ」
「ギリギリ?」
三十七歳で課長ってうちの会社じゃかなり出世は早い方だけど。一回りも上なのだ、世代間格差は致し方ない。
「まだ三年も残ってる。ギリギリとか言うな」
課長の喰いつきがめんどくさくなって、ハーイと生返事をした。
「とりあえず、ご自分の席にお戻りください。ほらほら、楽しいお仕事の時間ですよ」
渋々といった感じに腰を上げる課長の背中を見送り、椅子に尻を落ち着けた。
入社三年目で課長にこんな口の利き方をするなんて普通はありえないのだろうけど、新人の頃からしょっちゅう飲みに連れ出されていたせいで、最近では上司なのか友達なのかよくわからないほど仲良しになってしまった。部署の中にそれを見とがめるような人もおらず、何となく「またやってんの君たち」というようなぬるい温度で見守ってくれるため、そのまま来てしまった。
課長はフランクな人柄で恐ろしいほど仕事ができる上にまだ独身なので、かなりモテる。そんな課長にちょこちょこ連れ出される私は、羨望なんだか嫉妬なんだかよくわからない視線に晒されることもあった。そこにきて倉持真吾まで私の日常に食い込んできたのだ。どんな昼ドラ話が出来上がってるかなんて、想像に難くない。
どうせ綺麗な三角形を描いているに違いないけど、少し考えてみてほしい。彼ら二人が私を好きになるなんてことがあろうか(反語)。
私が彼ら並みのスペックを有する男性だったなら、きれいなお姉さまを侍らせてブイブイである。間違っても「フツー日本代表」みたいな人は選ばない。
まぁ、皆がそう思うから「何であんなのを」と話題になるのだろうけど。
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「美咲、ごめんね」
結局、素直に謝ることにした。テンションや笑顔で誤魔化したりせず、ただただ頭を下げた。
美咲はなぜ謝られたのかわからないという顔できょとんとした。目が真ん丸くて、前歯が少し大きい。げっ歯目系のかわいさがある。ハダカデバネズミをうんと可愛くした感じだ。
「あの……貴俊さんが結婚してるって言ったことだけど……」
貴俊さん、というワードに美咲の肩がぴくりと震える。
やっぱり好きなんだなぁ、あの人のこと。
罪の意識が余計に大きくなって、心の中では大洪水だった。でも、ここで私が泣くのはずるい。
「あのね、あれ、間違いだったの」
「え? 間違い? どういうこと? だって招待状……」
「倉持真吾の家で結婚式の招待状を見つけたのは本当なの。で、結婚式があったのも事実だけど……結局、結婚はしなかったんだって。真吾さんが教えてくれたの。それに、美咲がマンションの部屋の前で見ちゃった人たちも……おそらく貴俊さんじゃないって」
美咲のおでこに皺が寄った。
「ちょっと、思考が追いついてないや」
「そうだよね。そうなると思う。でも、嘘ついてるようには見えなかった。信じるかどうかは別として、話を聞いてみる価値はあるんじゃないかって思った。もちろん美咲が嫌じゃなければ、の話だけど。真吾さんがちゃんと説明したいって」
言いながら、あいつのやけに真剣な目を思い出した。
あの茶色い瞳にはものすごい説得力があったのに、私の言葉ではその半分も伝えられない気がする。
美咲はじっと考え込むように一点を見つめた。
「……会って、みようかな……」
「うん。私も一緒に行くから」
「ありがとう。ハルカ、巻き込んでごめんね」
「とんでもない。私の方こそ、招待状のこと、本当にごめん。私がちゃんと確かめてから言えばよかったのに、突っ走っちゃったせいでこんなことになって」
美咲はふるふると首を振った。
この子は優しいから、私を責めるようなことは何も言わない。
そうだろうとわかっていたけど、その優しさのせいで余計に申し訳なさが募った。
そもそも、あの人たちと美咲を引き合わせたのは私なのだ。その後幸せそうな美咲を見てグッジョブ私、とか思っていたが、今となっては後悔しかない。
すべての元凶は私にある。
絶対に最後まで見守ろう。
そう、心に固く誓った。




