34 婚約者
その後、気を失った私を真吾がお姫様抱っこして運ぶと言うすこぶるロマンチックな展開があり、二次会はやんややんやの大盛り上がりだった……らしい。
目覚めると、真吾の顔があった。面白そうに顔を覗きこんでくる。
「……ここ、どこ?」
「伊織の旦那のホテル。最上階でぶっ倒れたお姫様を、急遽用意してもらった客室にお運びいたしました」
「やばっごめんっ」
私はがばりと体を起こす。いつの間にかドレスを脱がされ、バスローブに変わっていた。
うぎゃあ。
そろりとバスローブの胸元を覗きこむと、ブラもつけていなかった。背中の開いているドレスを着るためにペタリと肌に貼り付ける特殊なブラをつけていたのだが、あっけなくひんむかれてしまったらしい。
「ドレスが皺になるから俺が脱がせた」
私の様子を見ながら真吾は楽しそうに言う。
「誓って見てないって言いたいところだけど、当然見た。まぁ今さらだろ」
よし、今のは聞かなかったことにしよう。
「私、どれくらいひっくり返ってたの?」
荷物とか名簿とか、いろいろやることが残っていたのに。
「30分くらいかな。ああ、二次会のことは気にしなくていいよ。荷物のことは祐樹に頼んできた。人の過去ばらしたんだからそれくらいしろって言ったら笑って引き受けてくれたよ。会自体はどうせ後はお好きにっていう流れだったから別に支障もないだろ。貴俊と美咲ちゃんにはハルカを抱えたまま挨拶してきた。二人とも笑ってたよ。あと、今日のことありがとうって感謝してたよ」
そう言って真吾がペットボトルの水を差し出してくれる。こういう細かな気遣いが、モテる要素なんだろうなぁ。
いつだったか、私は真吾のことをモテの権化だと言ったことを思い出す。課長に向かって力説したが、あの時よりもずっとずっとたくさん、この人のいいところを知っている。
受け取った水をぐびぐびと飲んでいると、「何か喉元が動くのってエロいよな」という意味不明なことを言われ、思わず水を噴き出した。
「おい」
まともに顔に水を浴びた真吾はふるふると頭を振って水を飛ばしながら顔をしかめる。
「水も滴るいい男じゃん」
その前にごめんだろう、と内心で自分につっこみを入れながらそう言うと、真吾は「よくわかってんじゃん」と笑う。
「しかし、逃げ回るのと気を失うの、本当に得意なんだな」
可笑しそうな声で言われ、私はむっつりと黙り込んだ。
昔から気を失うことは多かった。ピアノの発表会やコンサートでも、極度の緊張から気が遠くなってしまうのだ。決して貧血気味というわけではないのに。そのせいで演奏順を交代してもらったり、はたまたパスしたりと、周囲に迷惑もかけたし、いくらかチャンスもふいにした。
「脳の容量が人より少なめなんだから、しょうがないでしょ」
私はずっと前からそう結論付けていた。
すぐにいっぱいいっぱいになってしまうのだ。緊張して、どうしたらいいのかわからなくなって、血の気がひくような感覚と共に気が遠くなる。それで、つい逃げ出したくなるのだ。
そして、逃げ出したくても逃げ出せないとき――ピアノのコンサートで逃げ出すわけにはいかないし、今日は真吾に腰を押さえられていた――こういうときに、気を失ってしまう。
病院にも行ったけど、体に異常は見つからなかった。
「迷走神経反射」
聞きなれない言葉に顔を上げる。
「それ、迷走神経反射っていうやつらしい。交感神経と副交感神経のバランスが崩れて血圧が下がるだか何だかで、脳に血が足りなくなるとか、そんな感じの。脳みその容量の問題じゃなくて」
「えっそうなの?」
「うん。ただ、倒れると頭を打ったりしかねなくて危ないから、前兆を感じたらなるべく寝そべって。それが無理でも、座って。座ってたら気を失っても倒れた時にダメージ少なくて済むし、寝そべれば気を失わずに済むらしい」
「知らなかった……」
「祐樹が教えてくれた。あいつ、医者だからさ。とくに心の方専門の。で、まぁ、そっちは良いとして、逃げ回る方だけど」
うう。
私は言葉を失う。
「もう逃げるのはやめないか。逃げ出したってどうせ向き合うときが来るんだ。津野課長からも逃げ回ったけど、結局話をするしかなかっただろ? 俺なんて、もう何度逃げられたかわからない」
去年の秋、バレンタイン前、誕生日後。3度も逃げ回った。日にちにしたら、どれくらいだろうか。数えるのも怖いくらい、私はこの人から逃げ回った。その度に、諦めずに追いかけてくれたおかげで今があるのだ。
「混乱したときは、ひたすら混乱していいから。頭の中が整理できるまで黙って待ってる。だから逃げるな。追いかけるのが面倒だから言ってるわけじゃない。ハルカとの追いかけっこは結構楽しかったしな。でも、俺がいないところで気を失われでもしたらと思うと気が気じゃない。心配なんだ。だから、逃げるな」
私が噴きかけてしまった水がまだ髪先から滴るのも気にせずに真剣な目で訴えかけてくる真吾を見ながら私はぽかんとしてしまった。
「ハルカ……聞いてた?」
「うん、聞いてたけど……その、びっくりしてる」
「びっくり?」
「だって……めんどくさいでしょう。逃げ回るわ、気は失うわ。なのに、そんな風に言ってくれると思わなくて」
風間さんは、真吾の恋愛のスタンスを「来るもの拒まず去る者追わず」だと言った。でも、私のことはずっと追いかけてくれた。
そしてこの人はこうやって、私が自分でも辟易していた部分をひとつひとつ受け入れてくれる。全部まるっと包み込んで、大丈夫だよって言ってくれるのだ。
本当に本当にうれしくなって、ベッドサイドに腰かけている真吾の体に飛びついた。
「うわっ」
真吾がベッドに倒れこむ。
「真吾さん。ありがとう。私、真吾さんのこと好き。本当に、好き」
抱きついたままもごもごと言う。
真吾は私の体にギュッと腕を回して抱きしめてくれた。
「やっと言ったな」
「え?」
「ハルカに好きって言われたの、初めてだよ」
「うそっ」
真吾は静かに笑う。
体の振動が伝わってきて、心地よい。
「『私が好きってわかってたでしょ』と『好きにならなければよかった』っていう間接的な言葉で言われたことしかない」
後者など、ネガティブな表現すぎて間接的とすら言えないほどだ。
「えっ嘘だぁ」
「嘘じゃない。今か今かと待ってたんだから」
たしかに言われてみれば、自分からきちんと伝えたことはなかったような……
「でも……わかってたでしょ?」
「そういう問題じゃねぇんだよ。言葉にして伝えてもらえるのは、やっぱり嬉しい」
「そっか」
「芹菜さんと話してたろ。雑草の中からハルカを見つけ出したって。俺はハルカを雑草だとは思ってないよ。でも、あの話を聞いてうれしかった。誕生日パーティーの後喧嘩みたいになったときに、言っただろ。倉持家の家柄に寄ってくる女の方がまだマシだって。でも、あれは間違ってた」
私はむくっと体を起こして真吾を見つめる。真吾が寝そべったまま私の頭を撫でてくれた。
「ハルカは、俺みたいな奴嫌いだっただろう? だけど、俺のことを好きになってくれた。それってすごいよな。ハルカの言い方を借りるなら、大っ嫌いな種類の花だけど、この一本だけはまぁいいかって思ってくれたってことだろ?」
「そうだね」
「だから、やっぱりハルカがいいよ。家柄に寄ってくる人より、ハルカがいい。ハルカでよかった」
「子供っぽいし逃げ惑うし気を失うけど?」
「子供っぽいのは大歓迎だし気を失うのもOKだけど、逃げるのだけはもうナシな」
そう言って人差し指で私の鼻をむぎゅっと押す。ただでさえ低い鼻がこれ以上低くなったらどうしてくれるのだ。
「うん。もう逃げないよ」
真吾が指を離したので、私はあわてて自分の鼻の形を整える。少しでも高くなるように、小さい時からよくお風呂上りに鼻の先っちょをつまんでいた。その動作を繰り返す。
「あ、津野さんにキスされそうになったら逃げろよ。そういうときは自慢の脚力を生かせ」
「課長はもう彼女いるから大丈夫だよ」
「あ、そうなんだ」
「うん。素敵な人。幸せそうだよ。つい最近知ったんだけど、課長とその彼女さん、私が入社する前に付き合ってたんだって。だから元サヤなんだってさ。すごくお似合いだし、前に付き合ってたから自然な感じで」
「そっか。よかったな」
「うん」
「ところで……婚約者さん?」
そう言って真吾が肘をついて半身を起こす。礼服のジャケットだけ脱いだ姿でベッドに寝そべって肘をついてる彫刻。壮絶な色気だ。
「婚約者……いい響きだね」
左手を伸ばして照明の光に晒し、指の角度を変えるとダイヤモンドがきらきらと光った。宝石にはあまり興味がなかったけど、こうしてみると美しさに引き込まれそうになる。大好きな人からもらったということが大切なのだ。だからこそ、こんなに輝いて見えるのだ。
「水噴きかけられたまま寝るのもあれだし、風呂入るけど……ご一緒にどうですか?」
彫刻がベッドから足を下ろして立ち上がる。
「いや、それはちょっと……」
断ろうとした私の体を真吾はすいと抱き上げた。
「わっこら、降ろして!」
「風呂場で下ろしてあげるよ」
「ちょっちょっと……」
結局私は自慢の脚力をいかんなく発揮して風呂場から飛び出し、「逃げないって約束したばっかりなのに」と呟かれることになった。
それとこれとは別じゃ――――っ!




