22 バレンタインデー(1)
実家に帰ってのんびりと過ごしたおかげで、週明けの気持ちはすっきりとしていた。
とりあえず早急に片づけなければならないことが一つ。逃げ惑っても解決しないばかりか、その間ずっと傷つけ続けることになるとようやく気づいたのだ。遅すぎる、と自分でも思う。
出社するとやはり、課長はすでに席に座っていた。
「課長」
声を掛けると、驚いたように顔を上げた。私が来たことには気づいていたはずだけど、ここ2週間逃げ惑っていたせいで、声を掛けられるなどとは思ってもいなかったらしい。
「今週の金曜、お暇ですか」
「ああ」
「じゃあ、飲みに行きませんか」
「わかった」
その目には諦めたような光。
残酷だとわかっているけど、私はそのことに安堵していた。妙に期待をされているより、話しやすいから。
「あの、課長、これ、バレンタインです」
乾杯してすぐに、小さな箱を差し出した。
うちの会社ではバレンタインに上司にチョコを渡すという習慣はとうに廃止され、表向きは禁止になっている。それでも本命チョコを渡す人もいるし、仲の良い上司にこっそりチョコを渡すくらいは黙認されている。だから私は入社以来、毎年課長にはチョコを渡していた。日頃の感謝をこめたつもりだったけど、今思えば期待させるような行動だったのかもしれない。
「ああ、さんきゅ」
課長はそれを静かな笑顔で受け取った。目に、間接照明のオレンジ色の光が映りこんで揺らめいている。
ここはいつも課長と行くような気楽な居酒屋ではなくて、少し落ち着いた雰囲気のバーのカウンターだ。ゆっくりと話がしたかったから、わざわざ静かなお店を探した。
だけど、慣れない感覚にそわそわしてしまう。
店の雰囲気のせいなのか、課長との間に漂う空気のせいなのか、よくわからなかったけど。
「あの、義理チョコです」
どう切り出せばいいかわからず、そんな言葉で言いたいことを伝えようとしてしまう。
「ああ」
課長はうなずき、手に持ったグラスを少し揺らした。氷がカランと音を立てた。
いつもならおしゃべりにかき消されてしまう音が、いちいち全部耳に届く。
「そういえば、これ」
そう言って課長はグラスをピン、と爪ではじいた。澄んだ音が響く。
「懐かしいな」
わたしは黙ってうなずいた。
入社したばかりの頃、飲み会で一発芸を披露する流れになったことがあった。わたしにはこれといった芸なんてないけど、小さい頃からピアノを習っていたおかげで絶対音感がある。だから、その場にあったグラスにピッチャーのお酒をつぎ、お酒の量で音階を調節して何か短いメロディーを演奏したのだ。
「ちょうちょ、ちょうちょ、か」
「その曲でしたっけ」
「そうだよ。俺はしっかり覚えてる」
そう言いながら、課長はもう一度目の前のグラスをはじいた。
「今のは?」
「ファ、ですね。ちょっとだけ、低いですけど。ミとファの間で、限りなくファに近いくらいの」
「そっか」
カラン、氷がまた回る。
そのグラスを見つめる課長の横顔をそっと覗き見た。課長は見たことのない顔をしていた。
わたしは自分の心に活を入れた。
これじゃだめだ、ちゃんと伝えないと。何のために来たんだ、嘉喜ハルカ、しっかりしろ!
すうと息を吸った。
途端に頭の中で、子供のころにピアノの発表会で弾いた曲が流れ出した。ゴリウォーグのケークウォーク。陽気な跳躍を繰り返すその音楽が頭の中の深刻さと噛み合わなくて、何かちょっと可笑しかった。
「お気持ちはすごくうれしかったんですけど、答えられません。ごめんなさい」
「おう、そうか」
課長はこちらを見ずに軽い口調で言う。それからグッと眉根を寄せた。
「悪かったな。あれは言い訳のしようがないセクハラだ」
「へ? セクハラ?」
「そうだよ。お前があの店を飛び出して行ってから我に返った」
「そんな……」
「いや、本当に。社内にはセクハラ相談窓口もあるし、お前が望むなら……」
「課長、セクハラって性的嫌がらせですよ。私が嫌じゃなければセクハラにはならないですよ」
「嫌だったろ」
「ちがいます、ちがいますよ」
あれは、だって。課長が課長じゃないみたいで。
「あの、本当に。泣いたのは、混乱しただけで。嫌がらせだなんて思ってないです」
「そうか、それならよかった。お前を傷つけたんじゃないかと思ってな」
わたしはぶんぶんと首を振った。
そんなのきっと、私のほうが。
それは言葉にならなかった。
「逃げ回ったのはその……どうしていいかわからなくて。関係が変わっちゃうのが私も怖かったんです。課長のことは本当に尊敬してます。だけどその……」
私はそこで言葉を切る。すごく勝手なことを言っているような気がしてきた。
「ああ。兄ちゃん、だもんな。お前が俺に求めたのは」
課長の横顔が渋い顔で微笑む。器用だなぁ。眉間に皺が寄っているのに、口角は上がっている。それでいて眩しそうに眇められた目が、いつもより少し潤んでいるように見える。
「そうですね。最強のお兄ちゃんです」
「おう」
課長は深呼吸をした。そしてため息に混ぜ込むように言葉を吐きだす。
「いや、わかってたんだ。ただ、伝える機会を逃したくなかった。お前に彼氏ができて、ああそうかって黙って退かなくちゃいけなくなるのが嫌で伝えただけだ。お前が俺に興味がないのはわかってたよ」
私はその課長の言葉に、あの男の涙を思い出した。
――伊織が俺のことをそういう対象としてみたことは一瞬たりともなかった。
だから、倉持真吾は伊織さんに直接気持ちを伝えたことはないと言っていた。だけど伊織さんはきっと、真吾の気持ちを知っている。
ホテルで真吾の居場所を教えてくれた時の表情に、それがありありと見えた。
直接伝えなかった真吾の想いは、伊織さんに受け止められるチャンスを失ったままふわふわと宙を漂って、いまだに真吾と伊織さんの両方を苦しめているのだ。
成仏する機会を失ってしまった恋心なんて、厄介にもほどがある。
椅子をくるりと回し、体ごと課長の方を向いた。課長はこちらを見ない。それでもいい。私は精一杯の誠意をそこに込めたいだけだから。
「課長。伝えてくださってありがとうございました」
深々と頭を下げた。そして顔を上げると、課長はわたしを見ていた。こっちを向いてくれたのが嬉しくて、静かな安堵感が胸に広がる。
「ちゃんと課長の気持ちと向き合うチャンスをくれて、ありがとうございました」
課長は「あーっ」と言いながら首の後ろに手をやった。
「まじで、勘弁してくれ」
その投げやりな口調にどきりとしてしまう。
怒らせたのだろうか。
「いや、怒ったわけじゃない」
課長は私の心の中の疑問に答えた。
「気持ちを捨てるのが難しくなる。俺はこの瞬間にも、お前のそういうところに惹かれてくんだから」
そう言ってから課長は私の顔をじっと見つめ、それからゆっくりと笑顔を浮かべた。穏やかな笑顔だった。
思わず「パパン」と言いたくなるような、あったかくて包み込むような笑顔を見せつけられて、私は思わず顔を伏せた。普段はキリリとしている精悍な顔立ちが甘く緩む瞬間なんて。耳から湯気が出そうになる。
「やっと嘉喜らしくなったな」
「え?」
「いや、何か畏まって妙に真面目な顔してるから。お前はそうやって百面相してる方がいい。自分の気持ち押し殺して笑ったりするの、お前らしくないよ。笑いたいときは笑って、泣きたいときは泣いて、困りたいときは困っとけ。その素直なところが、お前の最大の武器だよ。仕事でもな」
その課長の言葉に早くも泣きそうになった。
本当に百面相だ。
「課長……かっこよすぎですよ」
「今お前に言われてもうれしくねぇよ」
「すみません」
「俺は全然かっこよくない雑草だよ。お前と同じだ。前に言ってたろ、自分は雑草だって」
「課長は雑草じゃないですよ。私、課長は屋久杉みたいだって思ってました」
こんなイケメンな雑草が生えていたら草原が大変なことになる。
「屋久杉? 何だその例えは。屋久杉ってあれだろ、屋久島の。樹齢が1000年とか超えてるやつ。お前、まさか俺を年寄り扱いしてるのか」
「違いますよ! どっしりしてて、揺らがないんです。そういうイメージなんです。私が仕事で失敗しても、課長が大丈夫って言ってくれたら大丈夫な気がしてくるんです。そういう存在です」
屋久杉が雑草なんかに恋をするから、こんなことになるのだ。身分違いもはなはだしい。まだ、花と草の方が近い。
「じゃあ、これからも下草のお前を上司として見守っててやるよ。まぁ幸せになれよ」
「え、なんですか、その決別宣言みたいなの。もうご飯に連れて行ってくれたりしないんですか」
「当たり前だ。あれは下心にまみれたお誘いだったんだ。ただの後輩をあんなに頻繁に飯に連れて行くほど俺の懐は広くない」
課長は少し投げやりな笑みを寄越してから私の頭をわしゃわしゃと撫でた。髪がぐちゃぐちゃになるが、この人の前ではそんなことは全然気にならない。新人の頃にどデカいミスをして鼻水を垂らしながら泣いたこともあるし、睡眠不足で会社に行き仕事中に夢にうなされて叫んだこともある。そういうのを全部笑って受け止めてくれたのが、この屋久杉なのだ。
「まあ、落ち着いたらな」
落ち着いたら?
私は課長の目を見る。その目はわたしをまっすぐに見返した。
「俺の気持ちが落ち着いたらまた連れて行ってやるよ。言ったろ、好きな女の前ではただの男だって。一応俺だって凹んだりするんだ。でもお前と飯行くの楽しいからさ。また、行こうな」
この課長を好きになれなかった私はたぶん人生で色々損をしているに違いない。
「うし。じゃあ、もう遅いし、送ってってやるよ」
課長がきゅっと残りの酒を煽ってから立ち上がる。
この習慣もしばらくはなくなるのだ。落ち着くのにどれくらい時間がかかるのかわからないけど、何となく、何となく、もう次はないような予感がしていた。
最寄駅から二人で歩く道のりは、これまで通りの気楽な会話が弾む。
それが課長の大きな度量によるものだと、わからないほど馬鹿ではない。
「課長、送っていただいてありがとうございました。お気をつけて」
「おう。また月曜にな。月曜に会ったら、いつも通りだ」
課長はそう言ってもう一度私の頭をわしゃわしゃしてから、くるりと踵を返して歩み去っていく。
課長にも、きっといい人が現れますように。屋久杉の足元でひっそり生えてる雑草なんかじゃなくて、課長にふさわしい、素敵な人が。
去っていく背中に向かってそうつぶやいて、課長の姿が角を曲がるまで見送ってからマンションのエントランスに入ると、郵便ポストが並ぶスペースの前に古着っぽいTシャツにボロボロのジーパンで背中を丸めて突っ立っている長身の男がいた。履いているスニーカーも泥で薄汚れている。
オートロックのマンションなので、こういうところに人がいると後について入って来ようとしている不届き者ではないかとつい疑ってしまう。完全に不審者相手仕様の「あなたのこと怪しんでますよ」オーラを放ちながら鍵を取り出そうとした瞬間、男がゆっくりと顔をあげた。
その男の顔を見て、心臓が止まるほど驚いた。




