2 逃げ惑う私
ところが翌日も、受付嬢からの内線だ。
「嘉喜さん、また……」
翌々日も。
「嘉喜さん……あの……また……」
翌翌々日も。
「あの……嘉喜さん……その……」
そうして毎日毎日非常階段を下りる羽目になった。
おかげで太ももの前側に妙な筋肉がついた。階段を下る女はブサイクになるという説が本当なら、私のブサイク指数はこの数日でかなり上昇しているに違いない。元々のブサイク指数がどの程度かについては触れないでおくとしても。
「やっと見つけた」
五日目、非常階段を下りてパンプスを引っ掛け、ドアを開けたところで背後から声が掛かった。
「あ、ヤバい」という一拍遅れた脳内警報を受け、脱兎のごとく駆け出した。振り向かずとも声の主はわかっているからだ。
「あ、おい、ちょっと待てっ!」と声が聞こえたけど、追われている身でその言葉に立ち止まったやつを、いまだかつて見たことはない。
駅まで猛然とダッシュし、帰宅ラッシュの人波に紛れた。
――フゥ。
平均より少し低い身長に、吊りのスーツ。ミディアムのこげ茶の髪の毛、ちょっと丸めな顔、小粒な二重の目、低い鼻。多少息が上がっている以外はこれといった特徴も持たず、見事に人ごみに溶け込んだ私を見つけ出すことはできまい。
少しして振り向くと人ごみからぴょんと飛び出た麗しいお顔が視界に入ったので、急いでコソコソと電車に乗り込んだ。
車両の隅っこから車両全体を素早く見渡したが、規格外に美しい人の姿はない。どうやら撒けたようだ。
額に浮いた汗を拭い、つり革をつかむ。
動き出した電車の窓越しにホーム上でキョロキョロする男の姿が見えた。
一瞬目が合ったような気がしたけど、電車はもうそこそこのスピードで走り出していたから、気のせいだったかもしれない。
――それにしても。
ぜぇ、と息を吐きながら考える。
人ごみの中に埋もれない人というのに初めて出会った。身長的な意味でなく、オーラ的な意味で。
あの人はスナイパーなんかに狙われたら間違いなく一貫の終わりだな、あんなに目立っちゃって。
そう思ったら笑いがこぼれた。
その点、平均的な容姿というやつはとても便利だ。普通に生活していてスナイパーに命を狙われる可能性がどの程度あるのか、私にはよくわからないけど。
そんなこんなで、その日は上手く紛れ込んで逃げきれたものの、翌日の仕事終わりに大いに悩むことになった。
非常階段を使っていることはバレてしまった。
階段のほかはエレベーターしか降りる手段はない。
エレベーターを下りたらすぐにロビーがあって、視界を遮るようなものは何一つない。誰が見てるのかわからない観葉植物は一応置いてあるけど、生憎そんなものに身を隠しながら忍者みたいに移動する能力は持ち合わせていない。逆に目立つし。
はて、どうしたものか。
終業後に椅子に正座をして熱いお茶を飲みながらじっと考えを巡らせた。
――変装とか? いやいや、そんなの無理なんですけど。
変装っていうと、化粧を思いっきりケバくするくらいしか思い浮かばない。近頃は詐欺メイクとか呼ばれる高度な技法が登場し、極めればすっぴんとはまるで別人になれたりもするらしい。でも、残念ながら私にそんな技術はない。それにいくら終業後とはいえ、社内をケバケバしい化粧で歩くのは嫌だ。沽券に関わる。
――まいったなぁ。
んーっと唸りながら何とは無しに開けたデスクの一番下の引き出しに、小道具を発見。
夏に冷房対策で持ってきていた大判のストールが入りっぱなしになっていたのだ。
どうやら運は私に味方しているようだ。
ストールを頭にぐるぐると巻きつけ、エレベーターに乗り込んだ。上層の階には別の会社のオフィスもあるため、他社の人も乗っている。「何コイツ怪しい」という視線が四方から突き刺さるが、そんなことは気にしていられない。顔さえ隠れればこの際何でもいいのだ。
ただ、その姿でロビーを突っ切った瞬間には色んなものを失った気はした。
沽券なんてどこ吹く風だ。
ストールで狭まった視界の端で彼奴が立ち上がる姿が見えたが、戸惑っているだけで何もしてこなかった。顔が見えないので私だと確信できなかったからだろう。
――今日も私の勝利だ。
脳内でアイーダの凱旋行進曲が響いた。
行進曲によって盛り上がったテンションのまま、帰りに少し寄り道をして色鮮やかなストールを五枚も買いこんだ。
ストールとのコーディネイトを考えて服を選ぶというのはなかなか新鮮な体験で、すっかりパターン化していた朝の服選びの作業にも熱が入る。
翌日はペイズリー柄の赤いスカーフをチョイスした。ペイズリーっていうとパパ世代のゾウリムシ感あふれるバンダナを想像されそうだが、もちろんもっとお洒落なやつだ。
「嘉喜、朝からなんでそんなに嬉しそうなの」
「最近毎日楽しいんですよ」
「変わってるな」
部署の先輩に奇異な目で見られようとも、くじけない。
ところが敵もなかなか考えたもので、帰りに会えないとなると行きに捕まえてやろうとでも思ったらしく、ある朝ロビーで待ち伏せを食らった。
しかし見目麗しいことが災いし、朝の奇襲作戦は完全な失敗に終わった。ビルに入るずっと手前で、こちらが異変を察知したからだ。解放感あふれるロビーはガラス張りで、外から中が見える。ガラスの向こう側に、女性に群がられている奴の姿があった。
わたしはくるりと踵を返し、そそくさと逆方向に歩き出す。ちょうど同じタイミングで向こうも私を見つけたらしく、自動ドアをくぐって奴が歩いてくるのを視界の端でとらえた。地の利と小さな体を生かして隣のビルとの小さな隙間の狭い路地に隠れると、男はきょろきょろとしながら通り過ぎて行った。
すぐに路地を出て、広い背中を見送ってから会社に戻る。
こうして無事に大手を振って出社することができたのだ。
***************
二週間もたつと、受付嬢はもはや楽しそうだ。
「嘉喜さん♪」の一言で来訪者の存在を告げてくるようになった。
短いやり取りでも毎日話していると愛着がわくものらしく、受付嬢とはすっかり仲良しだ。芸能人みたいなイケメンから徹底的に逃げ惑っている私を観察するのが面白くてたまらないらしい。
「今日もいつも通りで」と短い返事を返し、受話器を置く。
すぐに、ため息が出た。気づいた先輩が声をかけてくれる。
「こないだまで元気だったのに、どうした」
「ここにきて疲れが……ここまでくると、根競べというのか」
なかなかしぶとい。
そろそろ警備員さんの力を借りるべきだろうか、とも思うが、仕事をしているフロアに来るわけじゃないし、一日に一度受付から内線が入るだけだ。業務に支障をきたすほどではない。
そう思っていたら、ぱたりと来なくなった。
来なくなって一日目。何か予想外の作戦を組んでくるのではないかと思ってドキドキしながら会社を出るが、何もない。ちょっと拍子抜けだ。
二日目。この日も一応ストールを巻きつけて退社。よぉし、異常なし。人ごみの中にも、あの小さな頭は見当たらない。
三日目。そろそろ朝の奇襲を仕掛けて来るんじゃないかと思ったが、ロビーは至って平穏。帰りも姿は見えなかった。
四日目。受付嬢から内線が入った。
「嘉喜さん」
――あ、来たか。
「来た?」
受話器を持つ手に力が入る。
「いいえ。もうあの方、いらっしゃらないんですか?」
「いやー……ちょっと、わからないです」
そんなことで内線使うんじゃないよ、仕事しなさいよ、仕事を。
五日目。午後三時を過ぎても平和そのもの。
うんうん、ついに諦めたか。私の大勝利だ。
仕事中にうれしくてついほくそ笑みながら廊下を歩いていたら、会議室の扉が開いた。中から出てきた人をみて、私は文字通り跳び上がった。なんたって、脚力にはちょっとした自信があるのだ。
「ハルカちゃん」
やわらかーい声が横から聞こえたが、むろん無視だ。
競歩選手もびっくりの足さばきで女子トイレに逃げ込んだ。卑怯だろうとなんだろうと構わない。こういうときは逃げるが勝ちだ。
二十分ほど便器のふたのうえに座って時間を潰してからトイレを出た。勤務時間内なのでさすがにそれ以上は隠れていられなかったのだ。
二十分である。
結構な時間だ。
それなのに、そこにまだ奴は立っていた。
絶対に逃すまいと思っているらしく、女子トイレのすぐそばの壁に背中をつけてこちらをじっと見つめている。
「ハルカちゃん」
もう逃がさない、と色素の薄い目が訴えかけてくる。だが、わたしにはまだ切っていないカードがある。名付けて「勤務時間内」である。
「ああら、こんにちはぁ倉持さん。お仕事でいらっしゃったんですか? それはそれは。偶然ですわねぇ。見ての通り私も仕事中でして、忙しいのでこれで失礼いたしますねぇ」
絶妙な角度で首を傾けて言い放ってやった。
斜めった視界でも、目の前の男はかっこよい。
「仕事中に二十分もトイレに立て込もっといてよくそんなこと言えるな」
まったくの正論だ。
「下痢だったものですから」
他に言いようがあったはずだと、その単語を放った直後に思った。「お腹を壊して」とか「少し冷えたみたいで」とか、いくらでもあったはずだ。咄嗟に最悪なワードをチョイスしてしまうのだから、お里が知れるというものだ。
相手がその言葉に驚いている間に、オフィスに戻った。
会議室にまで侵入してくるとは、油断ならん。
「嘉喜、今夜空いてるか」
デスクに戻るなり課長から声をかけられ、咄嗟に私は身構えた。この流れは……。
「こないだの企画、商談がまとまったから営業の面子と先方の皆さんで飲みに行くんだけど、先方がお前もぜひって。知り合いらしいじゃん」
なるほど、商談で来ていたらしい。
さすがによその会社の会議室に無断で侵入するほど頭のおかしい人ではないと知れてひと安心だ。
課長のいう「こないだの企画」とは、かなり大がかりなプロジェクトのことだ。文具やクラフト用品の製造販売を行っているうちの会社は、昨今のクラフトブームを受けて海外への進出を計画している。日本製の文房具は品質もよく、顔彩や筆ペンなどが諸外国でかなり好調な売れ行きを見せているのだ。
その海外進出プロジェクトで要ともいうべき役割を果たしているのが、倉持真吾――あの男――を要する商社、倉持商事だった。海外への大規模な販路を持たない私たちにとって、商社の力は必須だ。
「今夜は忙しいのでちょっと」
「あの企画、お前も関わってたろ」
「チームの末席に名前は入れていただいてましたけど、会議でお茶出したくらいです」
課長はゆるい姿勢でくるーりくるーり、椅子を回す。
「お前、倉持常務となんかあんのか。最近逃げ惑ってるらしいじゃんか」
「関わりたくないので逃げています」
「何か面白そうだな」
課長はにやりと笑う。この人は、楽しそうなことを見つけると子どもみたいに目を輝かせるのだ。
それこそが彼のズバぬけた企画力を生み出しているのかもしれないが、面白がられる当事者になるのは居心地が悪い。
「どうせ暇だろ、来いよ」
「先方にはひどい腹下しだとお伝えください。それでおわかりいただけると思いますから」
「お前ねぇ……その歳で……もうちょっとマシな言い訳考えろよ」
もっともすぎて返す言葉がなかったので口をつぐみ、その場を失礼した。そして緑のストールをぐるぐる巻きにしてロビーに下りる。
「ハルカちゃんでしょう?」と横から声を掛けられたものの、完璧にシカトを決め込んでいたら、確信がないのかそれ以上は話しかけてこなかった。
ここでストールをむしり取るような暴挙には出ないらしい。さすが、ジェントルマンは一味ちがう。
一か月も経つと、その来訪者は社内で名物と化していた。
追う超絶イケメンと逃げ惑う凡人。
この構図は多くの人の好奇心を刺激するらしく、しかもイケメンがどこぞの御曹司とあって、あちこちで様々な憶測が飛び交っていた。大概が昼ドラ並みにどろどろしてるやつだ。私があの超絶イケメンの弱みを握ってるとか、親が決めた許婚とか、そういう要素が精一杯織り交ぜられたストーリー。
ちょうど身近にひとつそれに近い話を知ってるので、私としては何の面白味もない。それどころか、不愉快極まりない。何が地位だ、何が家柄だ、何が許嫁だ。好きな人と結婚しろ。現代の常識だ。
昼ドラなんてどろどろぐちゃぐちゃしてる上にバッドエンドなやつも多くて、ハッピーエンド至上主義の私としてはなぜあそこまで需要があるのかわからなかったけど、もしかして人というのはぐちゃどろが好きな生き物なのだろうか。
社員食堂で漏れ聞こえてくる破廉恥な噂を鶏肉と一緒に噛みしめながらそんなことを思った。
あの男さえいなければ。
そうして、私の中のあの男への憎しみは日に日に降り積もってゆくのである。
その後は面白がった人たちが次から次へと変装グッズを贈呈してくれたので、撒く方法は日に日に鮮やかになっていった。
ウィッグやら眼鏡やら、まぁ色々なバリエーションがあるもんだ。つけヒゲをくれたヤツもいた。馬鹿か、そんなの悪目立ちにもほどがあるだろう。これは課長に差し上げた。浮気するときにでも使ってくださいって言ったら本気で嫌な顔をされた。本格的なシリコンの変装セットをくれた人もいる。それは明らかにハロウィンの仮装向けで、自分の耳にかぶせてエルフの耳を作るやつと、鼻にかぶせて豚の鼻を作るやつだった。どこで手に入れたのかは気になるが、どっちにしても使えないのは間違いない。
師走に入ると、仕事が忙しくなったのか奴が来る頻度は減ってきた。
うむうむ、このまま来なくなればよい。あきらめろ。
そう思いながらも、どこかでまた元の単調な生活に戻ることを嘆いている自分がいる。
毎日ちょっと楽しかったなぁ。変装したり、逃げ惑ったり。家と会社の往復で飛ぶように時が過ぎて行く中で、いい感じのスパイスだったのだ。
いやいや、楽しんでる場合じゃないんだけど。
そんな複雑な乙女心を抱えた師走のある日、短髪茶髪のウィッグをかぶった私の目の前で、奴は土下座した。
それも、会社のロビーで。