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accelerando  作者: 奏多悠香
18/39

18 ひっくりかえった私

「嘉喜。嘉喜」


 ぴしぴしと頬を叩かれ、私はうっすらと目を開けた。


「おい、大丈夫か」


 頭がぼんやりしている。


「おい、嘉喜」


 課長の顔がすっごく近くで心配そうに私を覗き込んでいるのが見えた。

 その向こうには天井。なるほど。座ったまま天井を仰ぐ形でひっくり返ったらしい。


「大丈夫か」


 大丈夫? なにが?


「すまん。まさかひっくり返るほど驚かせるとは思わなかった」


 課長の真剣な表情を見ていたら直前の記憶がどっと頭に流れ込んできて、またわけがわからなくなった。混乱を何とかおさめようと、腕を顔のところまで持ち上げて腕で目元を覆い隠してみるけど、そんなことをしても全くおさまらなかった。


 課長が私を?

 何のご冗談を。


「だって……課長には、美人な想い人が」

「まだ言うか」


 目元を覆っているせいで課長の顔は見えないけど、あきれたような疲れたような声だった。


「そんなに信じられないか」

「だってそんなのありえないですよ」

「どうすりゃ信じてもらえるんだよ」


 課長の切羽詰まったような声が聞こえて「これなら信じるか」という小さなつぶやきが続いたと思ったら、次の瞬間に何かやわらかいものが私の唇をふさいだ。

 その瞬間に私の脳みそに一気にいろんなものが戻ってきて、私はガバリと起き上がった。課長が驚いたようにすっと身を引く。

 そんな課長の顔を、とてもじゃないけど見れなかった。

 どういうことだ、何だ。これは。

 打ち上げ花火が脳内で炸裂中だ。

 違う、ダメだ。

 ダメだ、違う。

 何これ、何これ!

 よくわからなくなった私は目についた携帯を引っ掴み、体のすぐ横にあったカバンを抱えて駆け出した。

 スタイリッシュなお会計なんて夢は儚く散った。


「あ、おい、嘉喜!」


 後ろから聞こえてきた声を振り切り、私はそのまま店を飛び出した。

 走りながら、携帯が震えていることに気付く。

 課長か、課長なのか。

 出ない! 出ないぞ!

 あの人からの電話には出ない!

 そう思って液晶画面を見ると、「倉持真吾」の文字がピカピカしていた。


「もしもしっ」


 走りながら通話ボタンを押し、携帯を耳に押し当てた。


「あ、ハルカちゃん? いま大丈夫?」


 のんきな声に、なんだか違う世界のことみたいな感じがして、涙がこぼれそうになった。さっきまで私の世界は平和そのものだったのに。


「だいっじょうぶっ」


 走っているので声が躍った。それに、息切れがひどい。


「全然大丈夫じゃなさそうに聞こえるけど。取り込み中?」

「そんっなこっとはなくって……はしってるっだけっ」

「走ってるの? どこかに行く途中? 忙しいなら後にするけど」

「ちがっちがっくて。にげってるとこっで。うっ……」


 よくわからないけど 嗚咽みたいなものがこみあげてきて、涙が風にのって後ろに飛んでいった。


「逃げてるの?」


 真吾の声が急に低くなる。


「何から? いま俺、車乗ったところだからすぐに行く。今どこ?」

「わかっんないっ」


 ここはどこだ。

 走りすぎてどこだかわからない。

 あの人は誰。

 津野課長じゃなかった。

 全然違うかった。

 私が知ってる課長じゃなかった。


「何が見える」

「とおっくに東京タワーがみえるっ」


 走りながら言った。ぼんやりと光るそれは、今はかすんで見える。


「わかりにくすぎだ」

「ろぽんぎっ」

「六本木? ヒルズ近い?」

「たっぶんちかっい」

「目印になりそうなものは?」

「いちらん、いちらんがたぶん近い」


 こんなときに、ラーメン屋の名前が出てしまうところが私だ。


「そこに居て。近くに着いたら連絡するから。いい? とりあえず走るのやめて立ち止まって。周りにたくさん人いる? なるべく人が多いところで待ってて」


 ほどなくして、真吾の車が目の前の道に滑り込んできた。


 こんなタイミングで電話をしてきて、少ないキーワードで私を探し出して目の前に現れるこの人は、本当はやっぱし雲の上の人で、雲の上から私を覗いて気まぐれに手を差し伸べてみたんじゃないかな。


「乗って」


 普段ならいったん車の外に出てドアを開けてくれるジェントルマンが、本当に慌てたように内側から助手席のドアを開けて呼びかけてくる。

 私は涙をふきながら、おとなしく車に乗りこんだ。


「どうした。何があった」


 乗り込むなりいつもよりちょっと乱暴な言葉づかいで聞かれ、私はよくわからないまま手で口を押える。


「わかっわかんなくて。課長と飲みに行ったら……」


 手がかすかに震える。


「ああ、津野さん」

「課長がわけわかんないこと言い始めて、よくわかんなくなって。気付いたら意識が飛んでて。目が醒めたら、き、キ……」

「キ……?」

「セッ……」

「セッ……? おい、目が醒めたらってまさか……」


 真吾の顔が青ざめる。


「せっ、接吻を! された!」


 一瞬の沈黙があった。


「……せっぷん」

「そう」

「せっぷん?」

「うん」

「せっ、ぷ、ん」


 そう言ってから、真吾はぷはーーっっと吹き出した。


「わ、笑い事じゃないよ! びっくりして、もう、本当に、びっくりしたんだからね!」

「それで、なに。津野課長にキスされて逃げてきたってこと?」


 こくりとうなずくと、真吾はふーっとため息をついた。


「まぁ、よかったよ。ハルカちゃんが無事で。本当、何があったのかと思ったわ」

「無事じゃないよ!」


 涙がほとばしる。


「無事じゃん。キスされただけだろ」

「その言葉やめて!」

「二十六歳にもなって何でそんなことで照れるんだよ。接吻って」


 真吾はまたぷふーっと笑ってから続ける。腹の立つ笑い方だ。


「キスよりその言葉の方がよっぽど生々しい。津野課長、たぶん落ち込んでるよ。連絡してあげたら? きっと心配してるだろうし」

「何で私から連絡するの! おかしいでしょう! あと、二十六歳っていってもまだなりたてホヤホヤなんだから! そこらの二十六歳よりも人生経験が少なくてもおかしくないんだから!」

「っつっても、キスが初めてだったわけじゃないだろ?」

「ちがうけど!」


 真吾が顎でスッと私のバッグを指す。「さっきから携帯光ってる。絶対津野さんだよ」

 手に取って画面を凝視すると、やはり「課長」の文字があった。お互いの携帯の番号は知っていたけど、いつも会社で会うので携帯でやりとりをしたことはほとんどなかった。


「出てあげなよ」

「ダメ。ちょっと、今は本当に、出れない」

「じゃあ俺がでる」


 そう言うと倉持真吾は路肩にすっと車を停め、私の手から携帯を取り上げて素早く通話ボタンを押した。


「あ、津野さん。倉持真吾です。すみません、今嘉喜さんと偶然お会いしてピックアップしました。え、彼女? 多少取り乱してるけど大丈夫だと思いますよ。息切れしてるので電話には出られないですけど。いや、私は何も聞いていませんが。はい、ええ。無事に送り届けます。お約束します。ええ、はい。はい、わかりました。ええ、失礼します」


 サラッと言って、真吾は電話を切った。


「課長、なんて?」

「『本当にすまなかった。でも言ったことは嘘じゃない』だって。何があったの?」

「好きって言われたの! それで、意識がぶっとんだの!」


 真吾はこらえきれない様子でククククク……と笑った。


「津野課長に同情するよ。告ったら気失うなんて、聞いたことないよ。それで、なに。ひっくりかえったの。そりゃキスしたくもなるわ。無防備に転がってるんだから。先週からずっと拷問続きでもう耐えられなかったんだろうね。飲みに誘えばノコノコついてくるわけだし」

「笑い事じゃないんだってば。もういい、降ろしてよ。私ひとりで帰れるから」

「いや、津野さんに約束したからちゃんと送っていくよ。ごめん、笑って。別にバカにしたわけじゃない」

「バカにしたでしょうよ!」


 二十六にもなってキスひとつで大騒ぎするなって? 自慢じゃないけどキスなんて付き合ってる人としかしたことないんだから。挨拶代わりにそんなことできるほど人生経験積んでないし、付き合ってない人からのそれにどう反応するのが正しいのかもわからない。

 まして、課長。課長なのだ。相手が課長ってところが一番の問題なのだ。


「ごめんごめん。もう笑わないから。で、どうすんの」

「どうするって何が」


 興奮して騒いだせいで喉が揺れる。


「課長と付き合うの?」


 そう言えば同じようなことを先週の土曜日に美咲とこの人に聞かれたばっかりだったような。


「……知ってたの?」

「何が?」

「課長が私のこと好きだって、知ってたの? 美咲も、真吾さんも!」

「まぁ、気付いてたよね」


 私は泣きそうになった。


「なんで教えてくれなかったの! 教えてくれてたら…二人で飲みに行ったりしなかったのに。課長には好きな人がいて、私になんか興味ないと思ってたから! だから……」


 知っていたら、真吾が言うところのノコノコなんて、絶対にしなかったのに。


「それって津野さんとは付き合わないってこと? 後輩からは慕われ、上司の覚えもめでたいって聞いたけど」


 真吾は驚いたように言う。その言い方が何となくワクワクしてる感じで、ムカつくったらありゃしない。


「そんなの知ってるよ! 課長は優しいし仕事できるし面倒見もよくて、新人のときなんてしょっちゅう怒られたけど、そのあとすぐちゃんとフォローしてくれて、口悪いけどものすごくいい人で、屋久杉みたいなんだから!」


 課長のいいところなんて、あんたに言われなくたって私の方がよっぽどよくわかってる。課長はいい人だ。かっこいいってことも知ってる。


「ヤクスギ?」

「屋久島の杉! 課長は屋久杉みたいなの! どーんってしてて、多少の風雨じゃ揺らがないの。大きい存在なんだよ!」

「そんなに課長のことよくわかってるなら付き合ってみたら?」

「たしかにあんな人に好かれるなんてもうないかもしれないけど、でも、でも……」


 その先の言葉が続かない。


「でも?」

「……付き合うって、嫌いじゃないからとか、そういう理由で決めるようなことじゃないでしょう?」

「じゃあどういう理由なの?」

「す、好きだからに決まってるじゃん」

「でもさ、お互いが百パーセント大好きなんてごくごく稀だと思わない? 初めは好きじゃなくても、付き合ってるうちに気持ちは変わっていくかも」


 それは、そうかもしれないけど、でも、でも……


「でも、だって……」

「他に好きな奴がいるとか?」


 そう言って真吾が私を見た。

 その瞬間、心臓が跳ね上がって喉にぶつかった。

 そのせいで、声が出ない。


 ――そうだ、この男、只者じゃないんだった。

 私が考えてることなんていつもお見通しで。


 私は言いようのない恥ずかしさに襲われた。

 母と電話しているときにバージンロードの向こう側で振り返った男の顔が、今はこんなに近くにあるのだ。

 それなのに、この人は私に課長を薦めてくる。

 私の考えはあっさりと読まれてしまうんだろうか。今だけは、絶対に読まれたくないのに。

 恥ずかしくて悲しくて、涙が出そう。

 だから嫌いなんだ、御曹司なんて。

 こんな風にお助けマンみたいに現れておきながら、別の人を奨めたりなんかしてくるから。




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