17 事件発生の金曜日
「お前のせいで怪我したんだから、今日は飲み付き合えよ。あと、先週誕生日だったろ。お祝いにおごってやるから」
その週の金曜、課長に言われて飲みに行くことになった。
休んだ分の遅れは課長や先輩のおかげですでに取り戻せていたし、申し訳ないとは思っていたので私は二つ返事でそれを了承した。課長の頬にはイケメン台無しの大きな痣ができていて、でも課長はそれを私のせいだとは誰にも言わないでおいてくれた。優しい。
連れて来られたのは、またあの汚い居酒屋だった。
この間来たときはテーブル席だったけど、今日はふすまで区切られて個室になっている座敷に通された。
――おかしい。私が奢るはずだったのになぜ課長に連れ出されているんだ。まぁいいか、お会計は私が。
店を出るときにさっと課長を手で制して「ここはわたくしが」と財布を取りだす自分を想像し、そのスタイリッシュさに満足したところで飲み物を注文した。
課長は一杯目にビールを頼むと、一気にそれを空けてジョッキをテーブルに叩きつけながら言った。周囲が騒がしいのでその音はすっと周りの空気に溶け込んで消えた。
「もうだめだ。俺の考えつく限りの手は打ったつもりだ。普通に仲良くなって好きになってもらおうっていう案はダメ。ちょっと好きっぽい感じを匂わせて感づかせようとしても感づかない。強引な手を使ってもなお、気付かない。もう無理だ。どうすればいい」
そらきた。
この間課長が相談したかったのはこの話に違いない。
フランクでスマートな課長が頭を抱えているなんて、もうここは間違いなく嘉喜ハルカの出番だ。そう思って私はちょっと前のめりになった。
「課長が惚れてる女の人ですか。いるんですねぇ、そんなに鈍感な人。大変ですね。でも課長、攻め方間違ってるんじゃないですか」
最近妙に不機嫌だったのはその人との仲がうまくいかなくて焦れてたからに違いない。課長の惨状には心から同情するが、女性として一言物申すべきだと思った。
「どういうことだ」
「相手が鈍感だってわかってるんだから、ストレートに告白しちゃえばいいじゃないですか。そういうタイプには、匂わせるとかじゃダメなんですよ。きっぱりはっきり好きだって言わないと伝わりませんよ」
「相手が俺のこと好きじゃなかったとしたら? それで関係が崩れるのが怖いんだよ」
「うへぇ。課長にも怖いものあるんですねぇ」
届いたカシオレが混ざりきっていなかったので、箸の持ち手の側を突っ込んでぐるぐるかき混ぜる。カシオレなんてかわいいものを飲むのはちょっと久しぶりだ。ふだんはビールから入って日本酒と焼酎になだれ込むことが多いからな。さすがに今日酔いつぶれて課長に迷惑をかけたら自己嫌悪で死にそうなので、一応その辺を考慮した結果のチョイスだった。それにしてもカシオレって。これ酒なのか、ジュースじゃなく。巷の女子大生はこれで酔えるのか。
「そりゃそうだろ」
酒を箸でかき混ぜるという乙女にあるまじき私の行動を、見慣れている課長は気にも留めない。
「でも課長に好かれて嫌な人っているんですかね。だって課長、モテますよ? 最近受付嬢と仲良くなったんですけど、言ってましたよ。課長のこと素敵だって。同じ部署なのがうらやましいって言われましたもん」
箸を紙ナプキンで拭いながら言った。
でも紙ナプキンの吸水力じゃ全然足りなくて、あわれ紙ナプキンは透け透けになって箸に張り付き、はがそうとしたらビリビリに破けた。
「ああ? 受付?」
箸と格闘していたら、課長が新しい箸をこちらに差し出しながら言った。
「ありがとうございます。そう、受付嬢です」
本当のことだ。倉持真吾の度重なる来訪以降、受付嬢とは社員食堂のランチなどでちょくちょく会って他愛もない話をしていた。課長のファンはわんさかいて、お局から新人まで年齢層も相当幅広いらしい。
「そういうの関係なさそうなタイプなんだよ。相手がモテるとかモテないとか、全然関係ない世界で生きてそうな。むしろ、めんどくさいとすら思ってそうな」
「うわぁ、それ、難しいタイプですね」
いるいる、そういうタイプ。天邪鬼な。まあ、私もたいがい天邪鬼だけど。
「そうなんだよ。それでも、どうにかして手に入れたい。どうすればいいと思う?」
「気持ちをまっすぐに伝えるのが大前提だと思いますけどねぇ。手に入れる方法かぁ。私あんまり恋愛経験豊富でもないんでよくわかんないですけど、やっぱり守られたときにドキドキしたりするんじゃないですかね」
「守られたとき?」
「そうですよ。遊園地とかに誘ってですね」
「王道のお化け屋敷か」
私はお化け屋敷が大好きなので、デートで遊園地に行くと隣から彼氏を驚かせて遊んでいた。人は怯えると本当に飛び上がるということを、あれで初めて知った。一人腰を抜かした奴がいて、お化けに手伝ってもらって運び出さなくちゃならないという大変な目に遭って以来その遊びはやめたけど。
「そうですねぇ。あとは暴漢に襲われたところを助けるとかもなかなかドキドキですよね」
課長の好きな相手が私みたいなお化け屋敷好きだったら困るので、B案も提示しておく。プランBの重要性は、課長が教えてくれたのだ。
「暴漢に襲われるところに出くわす確率ってそんな高くないぞ」
「いっそ襲わせたらどうですか。誰かに頼んで」
「それは犯罪だろう」
「そうですか? たしかアルセーヌ・ルパンか何かで読んだ記憶が」
「ルパンって泥棒だろうが。前提が犯罪者だぞ」
「あ、そっか。たしかに。まぁばれなきゃ大丈夫なんじゃないですか。そういうの詳しくないんでわかんないですけど」
「さすがに卑怯な手を使ってまでっていうのはなぁ」
課長は渋い顔で料理をつつく。
「フェアプレー精神なんて、恋愛に必要なんですかね。奪ったり奪われたりが普通の世界じゃないですか。ちょっとくらい、いいんじゃないですか」
ちょっとそれらしいことを言ってみた。
課長には幸せになってほしいけど、なんで課長がそんなに厄介な人を好きなのかわからない。たくさんいるファンの中から選べばいいものを。あの受付の子なんて、課長のメアドあげるって言ったら大喜びしそうだし。
「へえ。お前から奪うっていう言葉が出るとは。お前、そういう恋愛したことあるのか? 奪ったり奪われたり」
「いやぁ私脳みその構造が素晴らしく単純にできてるんで、彼女がいる男の人には興味を抱けないんです。好きな人でも、他に彼女ができちゃったらその場で対象外になります。で、彼氏がいるときは他の人に目が向かないので、浮気とかもなく。奪われたことは……うーん……」
「あるのか」
「私と別れた次の日にほかの女の子と腕組んで歩いてたって人はいましたけど、奪われたのかどうかは」
「それは明らかに奪われてるだろう」
「やっぱりそうですかね。ありました、奪われたこと」
もう相当古い思い出だ。
当時はそれなりに傷ついたりもしたけど、惚れた腫れたっていうのは責めてもしょうがない部分が大きいし。
「ふうん」
「ていうか、私の過去の恋愛事情なんてどうでもいいんですよ。課長の恋をどう実らせるかが大事ですよ」
ドンっとテーブルをこぶしで叩きながら言った。
「ああ……最強の味方を得てるはずなのに、どうしてこうもうまくいかないのか」
課長は半ばあきらめたような顔でこちらを見やり、それからお新香をポリポリとつまんだ。
「えっ最強の味方って、もしかして私ですか?」
うれしくて心が跳ねた。
一応課長には信頼されているようだ、私。
「そうだよ。お前以上に心強い味方なんていないよ。お前が協力してくれたら絶対うまくいくって思ってたくらいだ」
課長はテーブルの向こう側からぐいと身を乗り出してきた。
その目があまりにも真剣で、内心ちょっと怯えてしまったことは内緒だ。
なんだなんだ、その捕食者の目は。
「いやー私、鋭いところありますからねぇ。さすが課長、見る目ありますね。昔からよく恋愛相談とかされるんですよ。自分の恋愛となるとからっきしダメなんですけど、人の恋愛については結構いいアドバイスしちゃったりして。うまくいったカップルも多いんですよ!」
私のナイスアシストでくっついた幾組もの男女の顔を思い浮かべ、にんまりと笑ってみせた。人の気持ちってのは罪なもので、あれだけ好きだ好きだ夜も眠れないと騒いでおきながら、くっつくとすぐに相手のどこが嫌だとかあそこがダメだとか言い出すので正直めんどくさいと思うことも少なくないけど。
「あー、うん、了解」
課長の肩から力が抜けた。
――ん? 何か私、ダメなこと言った?
「何が了解なんですか」
「ううん。こっちの話」
「なんですか。気になるじゃないですか」
「まぁお前の言うとおり、ストレートに言うのが一番だよな」
「そうですよ!」
課長は咳払いをして、手に持っていた箸を置いた。
「お前が好きだ。俺と付き合ってくれ」
課長はこれでもかっていうくらいキリッとしたキメ顔で言い放った。
きっぱりとしたその言葉は、聞いているこっちがどきりとするほど男らしかった。そしてこの真剣な目。うひゃあ、やっぱり課長は屋久杉だ。こうしてドーンと構えてないと。
「そうそう、それですよ! 課長、いいですね。やっぱりそういうストレートでわかりやすいのがいいんですよ。ひねった表現とかじゃなく。それです、それ。それで言っちゃってくださいよ。きっとうまくいきますって。えっ課長何でずり落ちそうになってるんですか。飲みすぎですか」
課長は今にも掘りごたつの中に吸い込まれそうだ。
「もうダメだ……」
「どうしたんですか。課長らしくないですよ」
ヘニョンと崩れた課長は、本当にただのスーツの塊みたいに見えた。
酔いが回った……?
「俺らしいってなんだよ」
「堂々としてて、颯爽としてて、何ていうんですかね。デキる男って感じですよ」
そう、まさに屋久杉。
「できる男だって、好きな女の前ではただの男になるもんだ」
「そういうもんですかねぇ。まぁ、女の人もそうですかね。私の友達でも……」
そう言いかけた私の口を、テーブルの向こうから伸びてきた課長の右手がふさぐ。うわ、課長の手大きい。それと、ゴツゴツしてる。
「もうだめだ。マジで。お前の友達の話なんて心底どうでもいい。お前は本当に鈍感すぎだ。今から俺が言うことを耳の穴をかっぽじってよく聞けよ」
口をふさがれたまま、私はその言葉の勢いに押されてこくんと頷いた。
「俺が好きなのは嘉喜ハルカ、お前だ。しょっちゅう飯にも誘ったし、わかりやすいアプローチをかけてきたのにお前は一切気づいてなかったからな。お前だけだよ、気付いてないの。周りは皆知ってる」
そう言ってから課長は手を離してくれた。
でも、私は息をするのを忘れていた。
いつもよりも近いところにあるその顔をじっと見つめる。
課長の肌がタマゴかタマゴじゃないかなんてもうどうでもよかった。
――課長が、私のことを好き?
机の上に置かれた携帯が震え、着信を知らせる小さなランプが光る。
だけど私はただただ課長の顔を見つめていた。
この人が私のことを好き。
私を? なんで?
すごい美人に惚れてるんじゃないの?
鈍感な美人に。
いや、課長は美人とは言ってなかったけど。
え、鈍感な人?
私、鈍感?
いやいや、私は結構鋭いところがあって、でも、自分のことはからっきし。
え? 私なの?
そのうちに、課長の顔がぼやけはじめた。
もやもやとしたものが視界の端っこから侵食してきて私から視野を奪っていく。
――ああ、くっつく。
「おい、嘉喜、大丈夫か、おい!」
課長の言葉がどこか遠くの方で聞こえた直後、私の視界の上から下から右から左から、侵食してきたもやもやが真ん中でくっついて、私は意識を手放した。