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accelerando  作者: 奏多悠香
16/39

16 課長、顔をぶつける

「課長、本当にありがとうございました」

「おう、もう調子いいのか」

「はい」


 勝手に9連休をとってしまったおかげで死ぬほど仕事がたまっているだろうと思ったのに、休み明けに私を待ち受けていた仕事の量は危惧していたほどではなかった。もちろん始業前の2時間は課長とおしゃべりに興じる暇もなくメールチェックとその処理に追われたが、それ以外は普段より少し多いかなってくらいの仕事量で済んだ。


「嘉喜の分も自分がやるって課長が言い出してさ。久しぶりにモーレツ課長を見て、みんなで笑ってたんだ」


 課長が会議に行っている間に部署の先輩がこっそり教えてくれた。私のために頑張ってくれたのに笑われるなんて、何かちょっと課長が不憫だ。


「俺が休んだときなんて丸々仕事残ってたのに」


 先輩は遠い目をしてぼやいた。

 どうやら課長には思っていた以上にお世話になっていたらしい。ただでさえ、あの汚い部屋で美咲が来るまでの時間一緒に過ごしてもらって本当に申し訳ないと思っていたのに。本格的に何かお礼をしないと。


 会議が終わった頃合いを見計らって会議室に行くと、ちょうど課長が書類を整えて部屋を出ようとしているところだった。

 課長以外に誰もいないし、ちょうどいい、と思って声をかけた。


「課長、先週色々届けていただいたり、私の分まで仕事を負担していただいたり……すみませんでした。それから、ありがとうございました。きちんとお礼がしたいので今度奢らせてください」

「お礼?」


 課長は一度顔を上げてこちらを見た後は手元の書類に視線を落として言った。


「いらん。誰かが体調崩した時にフォローし合うなんて普通のことだろ」


 でも先輩は仕事丸々残ってたって言ってましたよ。

 と心の中でつぶやいてはみたものの、何となくぶっきらぼうな課長の口調が気にかかった。

 やっぱりちょっと、迷惑をかけすぎたかな。

 私の部屋にいる間あんまり仕事がはかどっているようには見えなかったし、それに……ちゃんと好きな人がいるのに他の女の部屋で二人っきりで過ごさなくちゃならないっていうのは、もしかするとすごく複雑な心境だったかもしれない。それが原因で相手の女性に誤解でもされようものなら、私の立ち位置は完ぺきなお邪魔虫だ。


「……お礼、ね。奢ってくれなくていいんだけど代わりにちょっと頼みがあるんだよな」


 閉めたドアの前に立つ私のもとに、課長がつかつかと寄って来た。


「なんですか」


 突っ立ったまま課長を見つめていると、課長がドアと壁に手を置いた。その間には、私の顔。


「頼み、聞いてくれるか」

「ええと……それは中身を聞いてみないことには」


 課長の顔が近い。

 そのことをできるだけ意識しないように気をつけながら、何とか冷静に答えた。内容も聞かずに安請け負いなんてできるはずがない。恋路に協力とかなら喜んでするけど。

 それにしても、近い。

 たぶん二十センチくらいしか離れていないこれは、至近距離といっていいはずだ


「あのちょっ……」


 なにこの状況。追い詰められた感じになっちゃってるんだけど、どうしてですか。

 課長に聞いてみようかと思ったけど、課長があまりにも険しい表情をしているものだから、言葉が続かない。

 やはり、相当迷惑だったのだろう。それにも関らず「中身を聞いてみないことには」なんて、生意気過ぎたのだ。

 温厚かつフランクな課長が険しい表情を見せることなどめったにないので、私は少し焦っていた。

 どうすれば課長の機嫌が直るのか。

 やはりここは恋路に協力するしかないか。


「いや、あの、課長、やっぱり、なんでも聞きます」

「ほぅ」


 課長は眉をピクリと動かしながら、世直しに奔走するやんちゃ将軍シリーズの悪代官みたいな声を出した。そして、「おぬしも悪よのう、近う寄れ」みたいなノリでぐんと近づいてきた。


「ええと、かちょう?」


 ゼロ距離である。

 いくらなんでも、ちょっと近すぎる。

 内緒の頼みごとだというのは雰囲気から察しているが、それにしたって限度というものがある。ほかに人もいないこの部屋でなら、もう少し距離をとって話したとしても誰にも聞かれまいに。

 だがそれは、課長の真剣さを表してもいる。

 それほどまでに、守りたいのだ。秘密を。恋を。

 顔をまじまじと見つめられて、何か柄にもなくドキドキし始めた。


「かちょう?」


 呼びかけても課長は答えない。

 ただ、探るような目で私を見つめている。

 なるほどわかった。これはテストだ。

 私が秘密を打ち明けるに足る人間なのか、そこんところを表情から読み取ろうとしているに違いない。人気者課長の想い人を簡単に誰かにばらしたりしないかとか、ちゃんと協力してくれるかとか。課長にしてみれば死活問題なのだから。

 私は「ええバラしたりなんてしませんとも、信頼してください」という思いを込め、課長の目をまっすぐに見返した。

 まっすぐに見返したけど、すぐになんか恥ずかしくなって少し逸らした。

 課長の肌はキメ細かい。青年とオッサンの間くらいの絶妙なご年齢にも関らず、ツルツルだ。まるでゆでタマゴだ。毛穴はどこに消えたのか。鼻の毛穴すら見えないというのは、むしろ三十路を越えた男性としてどうなのか。ワイルドさに欠けるのではないか。

 その毛穴を見ていたら、昨日チェックした自分の毛穴の惨状を思い出した。

 こちらから課長の毛穴が見えるということは、向こうからも私の毛穴が見えるということなわけで。あいにくだけど、私は課長みたいなタマゴ肌の持ち主じゃないので、本当に勘弁してほしい。 まだ二十代半ばだが、毛穴はきわめてワイルドだ。こういうのを『いちご鼻』というらしく、ネーミングの可愛さに対してその見た目はまったく可愛くない。

 課長に私の鼻の状態を知られるのは恥ずかしい。

 とりあえず鼻を隠さないと。


「……なんで隠す」


 鼻を隠そうと思って顔の下半分を手のひらで覆ったら、課長が唸るような声を上げた。

 なぜさっきよりさらに不機嫌なのか、もはや課長の思考回路についていけない。

 だが隠してはいけない場面だったことだけは理解し、あわてて手をどけた。

 課長の顔は今や剃り残しのヒゲまで見えてしまうほどの距離にあった。

 そして相変わらず、私の顔は課長が壁とドアについた両手の間にある。

 ドラマや漫画でありがちな光景だが、こういうシーンは普通、男の人が女の人に迫る場合に用いられる。『よそ見してんじゃねぇよ』とか、『あいつと何話してたんだよ』とかが台詞としてふさわしい。

 つまり私は今、はたから見ると課長に迫られてるように見えるということだ。

 だが私は、課長からよそ見を責められるような関係にあっただろうか。答えは否だ。現に今の状況でも、妖しい感じは全くなく、むしろ課長は怒っているようにすら見える。何か言いたげに口を開いてはつぐんで。

 唐突に、理解した。


 ――そうか、課長、言いにくいんですね。


 この年齢で恋のお手伝いを会社の部下に頼むなんて、「男のプライド」があれやこれやあるのだろう。難儀なことである。

 だが、こちらにも都合というものがある。最近眉毛の手入れを怠ってたから目尻の方がボサついてるはずだし、長時間の接近戦はご遠慮願いたい。


「……課長? あの、私、口は堅いですよ?」


 そういうと、課長はなぜか驚いたような顔をした。


「おまえ……」


 課長の顔が一段と近寄ってきた。

 いかん、さすがに近すぎる。

 今朝は久々の出勤だからと気合を入れてニンニクたっぷり乗せ牛ランプ肉ステーキ重(コンビニ調達)を食べたんだった。これ以上の接近は本当に色々と失うものが大きい。

 どうすればいい、どうする、嘉喜ハルカ。


「あっ」


 打開策をひらめいた。

 天才かと思った。

 すぐさま実行することにした。

 後ろ手でドアのノブをつかみ、回す。


 ガチャッ


 次の瞬間には、課長の体が視界から消え、背後ですさまじい音がした。

 課長はどうやらドアについていた右手の方に体重の大部分を乗せていたらしく、私がドアノブを回したせいで課長の体重に負けたドアが思いっきり外側に開いたのだ。ちょっとバランスを崩してよろけるくらいだろうと思っていたので、その結果は予想以上だった。

 課長はドアと一緒に廊下に吸い出され、倒れこむついでにドアノブに顔をしこたまぶつけたらしい。

 なんなのなんなの、元バスケ部の反射神経はどうしたの。

 状況にびっくりしつつも、倒れこんだ課長のそばにしゃがみ込んだ。


「課長、大丈夫ですか」


 右頬を押さえて立ち上がった課長は、噴火前のマグマみたいな顔色だった。噴火前のマグマってみたことないけど、どうせ赤いに違いない。


「おま、なんでドアを開けたんだ」

「だって毛穴が」

「毛穴?」


 課長はスーツについた埃を払いながら立ち上がり、頬を押さえて顔をしかめた。


「毛穴が見える距離だったから困ったんですよ。乙女の毛穴なんて見るもんじゃないですよ!」

「けあな!」


 課長は大声を上げる。


「そう、毛穴ですよ」

「おまえさっき、口堅いって……」

「口と毛穴とどう関係あるんですか」

「それは俺が聞きたいくらいだ」


 課長の言ってることの意味がわからなすぎて、私は思わず胡散臭い感じの表情を作ってしまった。その顔を見下ろし、課長が言う。


「もうだめだ。俺にはもう方法が見つからない」

「何がですか。毛穴レスになる方法ですか。課長はそのままでいいですよ。タマゴ肌なんですから。私の毛穴のこと、みんなには黙っててくださいよ」


 あと、眉毛も。

 そう思ったけど、私の中にある乙女心がそのワードを体の中に押しとどめた。毛穴が限界だ。

 デスクに戻ってからも、課長はなぜだかものすごく不機嫌だった。

 あんなところに手をついて体重をかけていた課長も悪いと思うけど、ドアノブを回したのは私なので、一応給湯室の冷蔵庫に入っていた保冷剤を渡してあげた。

 課長は一瞬私を見てから「さんきゅ」と言って、なおも憤然とした表情のままそれを頬にあてる。


「大丈夫ですか」

「ぶつけただけだ。別に大丈夫だよ。いてぇけどな」


 しゃべりながらまた顔をしかめる。

 大丈夫なのか痛いのか、どっちなんだ。

 痛いけど大丈夫ってことか。

 課長には大丈夫な痛みと大丈夫じゃない痛みっていうのがあるのか。

 私は痛かったら全部大丈夫じゃないんだけど。

 やはりバスケ部は痛みに強いか。


「すみませんでした」

「何に対する謝罪だ」

「ドアノブを回したことです」


 当たり前だ。毛穴について謝れとでも言うのか。生憎だがその点について謝るつもりはない。


「そんなことはどうだっていいんだよ」

「でも課長、不機嫌です」

「不機嫌じゃない」

「じゃあなんですか。言ってくださいよ」

「もういいよ。お前、仕事まだ残ってるだろ。ただでさえ休み明けでいつもより大変なんだ。とりあえず仕事しろ。金曜のプレゼンの資料できたのか」


 課長がしっしっとでも言いたげに手の甲を向けて払う仕草をするので、私はおとなしく席に戻る。プレゼン資料をせっせと作りながら理由を考えてみるけど、どうして課長が不機嫌になったのかさっぱりわからない。

「毛穴!」って叫んだときの課長はかなり怒ってるように見えたけど、その前からずっと怒っているみたいな顔をしていたし。

 こわばっていて、真剣な目で。

 ああ、あれは怒ってるんじゃなくて緊張していたのかも。だいぶ前に、緊張すると怒ってるみたいな顔になると言っていた気がする。だからお偉いさんの前でプレゼンするときはいつも一生懸命顔を作るんだって。

 でも私は「お礼がしたい」と言っただけで、別に緊張するような要素はなかったはずだ。ああ、好きな人の名前をカミングアウトするのに緊張? まぁ、あり得るか。ううむ。シャイなおっさんというのをこじらせるとなかなかややこしいようだ。

 前は課長が何を考えてるかなんて手に取るようにわかったのに、最近はさっぱりだ。

 課長が最近複雑すぎるんだもん。前の気楽な感じに戻れたらいいのに。

 そんなことを考えながら、プレゼン資料の体裁を整えた。


 このソフトの使い方を教えてくれたのも、そういえば課長だった。




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