15 挨拶からの...
ピンポーン
軽快な音に、一人「はいよぅ」と返事をしながら受話器を取った。
「はーい」
「ハルカ! 来たよー!」
美咲の元気な声に、成功を確信しながら開錠ボタンを押した。
ほどなくして玄関前に人の気配がして、扉を開けた。
「いらっしゃー……」
その瞬間、ぱぁんっという乾いた音に鼓膜がブルブルした。
「わぁぁぁっ」
私の背が大きく反り上がったのは、驚いたからというよりも本能的な反応だったと思う。
細い紙テープのようなものが幾重にも重なって視界を邪魔する中、その色とりどりの隙間から眩しい笑顔がふたつ見えた。
「「お誕生日、おめでとう!」」
「へっ?」
私は呆然とする。
「ハルカ、忘れてたの? 1月18日だよ、今日」
1月18日。
私の、誕生日。
「えへへ、びっくりしてる。サプライズ成功だね!」
美咲は嬉しそうに言いながら、私の顔にへばりついたクラッカーの紙テープを外して丸めた。
「ほらほら、色々買ってきたから。中で食べよー!」
「おじゃましまーす」
美咲と真吾さんがいそいそと部屋の中に入って行くのを見送ってから、私はようやくドアを閉めた。
課長が家に来てくれた月曜日が1月13日。あの後美咲が家に来て課長と交代し、熱の下がらない私を心配して泊まり込んでくれた。しかし風邪薬を飲んでも一向に良くなる気配はなく、次の日の午後になって病院に行くと「扁桃炎」と診断され、点滴を打たれた。
どうりで喉が痛かったわけだ。鏡に向かってくわっと口を開いて喉を覗くと、そこには白い気泡のようなものがたくさんできていて、あまりのグロテスクさに慄いた。熱も相変わらず高く、課長に「休め休め」と口うるさく言われたこともあって結局一週間仕事を休むことにして大人しく過ごしていたのだ。仕事をしていないと日付の感覚が飛んでしまい、今日が1月18日だということをすっかり失念していた。
一週間前までは覚えていて、「今年の誕生日はひとりで寝て過ごすんかしら」とか思っていたのに。
「ハルカちゃん、体調崩して大変だったんだって? もう平気なの?」
真吾が心配そうな表情で問いかけてきた。
こういう時は紳士的だ。
いや、普段もジェントルなんだ、うん。
ただ、お尻から生えてる悪魔の尻尾を、ときどき隠しきれなくなっているだけで。
「うん、ありがとう。昨日から体調はほとんど元通りで、ぐうたら過ごしてた」
「そっかそっか」
美咲が嬉しそうに笑う。
「美咲と真吾さん、今日は美咲のお父さんとお母さんに挨拶に行ったんでしょう? どうだったの?」
この二人はその報告のために、美咲の実家からの帰りにうちに寄ると言って連絡をしてきたのだ。
連絡がなければ部屋着という名のパジャマでベッドに寝そべっているところだったので、事前連絡には大いに感謝した。うちに着く一時間も前に連絡をくれるあたり、さすが美咲はわかってらっしゃる。私の性格と、生活を。
「ばっちりだったよ! 真吾さんが丁寧に事情を説明してくれて、貴俊さんの今の様子とかも細かく知らせてくれたから。うちの両親も楽しくなっちゃったみたい。特に兄がノリノリだった」
ノリノリなのか。
「そっか。よかったね。ひと安心」
両家の了解が取れれば、もうほとんどのハードルはクリアしていると言っていいだろう。最後のハードル、本人の了解というひとつを残して。
「美咲ちゃんのご両親が理解のある人で助かったよ」と真吾も嬉しそうだ。
「両親がね、貴俊さんのご両親にも会ってみたいって言うから。近々顔合わせをしようっていう話になったの。結納って重苦しいし、家族同士の食事会くらいでいいかなぁっていう話になったんだ」
「そうですよね。何度も言うけど新郎不在の結納なんて聞いたことないからね。そんな形式ばったもの、今更必要ないと思うよ」
「で、その報告はもういいの。万事うまくいったんだから。今日はハルカの誕生日会!」
そう言って美咲が掲げたのは、私が大好きなケーキ屋の箱だ。
「うわぁ! 買ってきてくれたの?」
「そうだよー。真吾さんが予約入れといてくれたんだから」
「真吾さん、ありがとう」
「どういたしまして」
「じゃあ、私用意するからハルカは真吾さんと座ってて」
美咲は持参していたらしいエプロンをいそいそと身につける。
「私も何か手伝おうか?」とか言いながら美咲の周りをうろうろしてみたけど、いかんせん料理ができないので、文字通りうろうろするだけで終わる。
「病み上がりの主役は座っていなさい」と言われ、私は部屋の小さなちゃぶ台の前にちょこんと座って待っていることにした。
真吾さんは美咲に言われたとおりに皿を出したりちゃぶ台を拭いたりと、手際よく料理を作る美咲を手伝っている。
「美咲、絶対いい奥さんになるね」
この光景を貴俊さんが見たら妬くんじゃないかな、と思いながら私は美咲と真吾さんの「新婚で一緒に料理しちゃってます」な姿をこっそりと写真に収めておいた。
ぐへへ、エプロン姿の美咲なんて最高じゃないの。
そんなことを考えながらひとり手持無沙汰に座っていたら、ものの数十分で、部屋にはいい匂いが漂い始めた。
「できたよー!」
美咲が短時間で作り上げた豪華な料理を小さなちゃぶ台に並べる。
「おいしそう!」
「あ、俺シャンパン持ってきたんだ」
そう言って真吾は細長い袋からボトルを取り出した。
「わぁっ」
そのラベルを見た瞬間、私は悲鳴とも奇声とも何ともつかない大声を上げてしまった。私の大好きなシャンパンだったのだ。
「なんでなんでなんでなんでっ?」
たまたまだろうか。
「前に打ち合わせでレストラン行った時に、メニューに載ってたこの銘柄みて一瞬目を輝かせてたから。好きなんだろうなぁって思ってたんだ」
「ありがとう! すごい観察眼だね!」
「惚れた?」
「いや、惚れないけど」
お決まりになって来たこのやり取り。
でも、大好きな人に祝ってもらえる誕生日なんて、最高に幸せだ。
え?
いや、大好きなのは美咲。美咲。美咲だってば。
シャンパンが注がれたグラスを持って、私は「かんぱーい!」と叫んだ。
大好きなのは、美咲。
大事なことだからもう一度、大好きなのは――
「そう言えばハルカ、津野課長と付き合ってるの?」
美咲が突然そんなことを言いだすので、私は思わずシャンパンを吹き出しそうになった。だめだ。そんなもったいないことしないぞ。吹き出すのを我慢しようとしたら、喉が変な動きをしたらしく「んぐんっ」という大きな音を立ててシャンパンが喉の奥に吸い込まれていった。
「何でそうなるの?」
「だって、月曜日に課長がここに居たから」
「え、津野さんが看病してたの? ハルカちゃんやるねぇ。津野さんイケメンだよな」
「ちがうちがう、あれは私が……」
その先を思い出して、ちょっと言葉に詰まった。
「私が?」
真吾はやけに楽しそうだ。
「課長は色々買い出ししてきてくれて、それを玄関のドアにぶら下げて帰ろうとしたんだけど、お礼を言おうと思ってドアを開けた私が倒れかけたから、それを見てあわててベッドまで運んでくれたの」
「きゃー!!」美咲が叫ぶ。
「なにそれ! 何かロマンチック!」
ああ、そうなると思ったんですよ。だから言いたくなかったんだ。
私は思わずムッとしてしまった。
「え、なんでハルカちゃんそんなに不機嫌なの」
私は一つおおきなため息をついた。
「あのね、部屋が本当にひどい状態だったの。課長が来てくれた時、私の枕元にはくちゃくちゃのバスタオルと解けきった冷凍うどんが転がってて、部屋の入り口には缶とペットボトルが並んでて、ついでにこのちゃぶ台の上には化粧道具が広がったままになってたの。で、私は二日も風呂に入ってないぼっさぼさのぐっちゃぐちゃな状態で部屋着姿だし、意識も朦朧としてるし。課長は私を受け止めたとき『何の拷問だ』って呟いてたくらいだから。ロマンチックの欠片もないでしょ」
真吾と美咲が顔を見合わせ、意味深に目配せをする。なんだ、そんなに面白そうな顔をして。
「拷問……ねぇ。それを悪口と取っちゃうハルカちゃんがある意味すごいと思うよ」
真吾が言う。
「たしかに、それは課長にとっては拷問だったかもしれないわね」
「俺だったら絶対そんなに紳士的な態度とれないわ」
「真吾さん、女性2人を目の前にそれ以上は言わないでください」
美咲と真吾はやけに楽しそうだ。
「二人とも何の話をしてんの」
「津野さんが不憫だって話」
「何がよ! 確かにお世話になったし、ここにずっといてもらって家に帰るの遅くなっただろうし、申し訳ないとは思ってるけど……不憫とまで言わなくても。ちゃんと月曜日にお礼を言って、今度何か御馳走しようと思ってる」
私はこう見えても結構義理堅いのだ。ちゃんと感謝の気持ちは示すつもりだ。
「ハルカはさ、津野課長のことどう思ってる? 好きじゃないの?」
美咲が野菜スティックを片手に聞いてきた。
「え? まぁ、好きだけど」
答えなんて考えるまでもない。
「異性として?」
「異性?」
「男性として、付き合えるかってこと」
「課長と?」
「そう」
課長と付き合う? いやいやいやいや、何を言ってるんだ。そんな、受付嬢と同じような質問が美咲から飛び出してくるとは思わなかった。
「あのね、課長には狙ってる人がいるんだって。すごい美人の」
すごい美人っていう情報は私が勝手に付け足したものだけど、どうせ美人だろうからいいのだ。
「それ課長が言ってたの?」
「うん。相手がすごい鈍感な人らしくて苦労してるみたいで。攻め方変えるって言ってた。そんな感じだからね。私がどう思ってようが関係ないっていうか。課長のことは先輩として尊敬してるし、人として好きだけど、付き合うってなるとまた別なんじゃないかなぁ」
というか、あんな人と釣り合うわけない。私が雑草なら課長は……課長は……何だろう。あの人、綺麗な花って感じではないなぁ。でもイケメンだし、フランクでデキる男で、力強い。最後の情報は月曜日に私を運んでくれた時に気付いたもの。課長が意外と力持ちだってことを知った。ああ、そうだ、屋久杉だ。屋久杉みたいなんだ、課長。
「つまり、嫌ではないと」
美咲がざっくりとまとめる。
「うん、嫌じゃないよ。ただ、考えたことないしわかんない」
「なるほど」
何がなるほどなのかわかんないけど、美咲は何か楽しそうに頬を緩ませているし、真吾は今にも吹き出しそうな顔をしているので、私はやっぱり不機嫌な顔で美咲の作ってくれたおいしい料理を頬張ることになるのだ。
そんなに私と課長がくっついてほしいか。
で、どうして私はこんなことで不機嫌になっているのか。
答えは見つからない。