12 ご挨拶(1)
すぐにやって来た年の瀬は仕事と忘年会に追われ、美咲の結婚式のことを考えたり打ち合わせたりする余裕もほとんどないまま過ぎて行った。
そして年が明けたばかりの週末、私の隣では美咲がガタガタと震えていた。
「美咲ちゃん、落ち着いて」
今日は貴俊さんのご両親と妹さんに挨拶に行くのだ。そんな重大な行事に何で部外者の私までついて行かなきゃならないのかと真吾に抗議したのだが、「だって俺と美咲ちゃんが連れだって挨拶に行くっておかしくない? 美咲ちゃんは緊張するだろうし、貴俊がいない分そばにいてくれる味方が必要だと思うんだよ」という言葉に説得されてノコノコ来てしまった。
だが、門を入る前からすでに後悔していた。
「着いたよ。ここ」と言われて車を下りた私の目に飛び込んできたのは「えーと『ここ』って、どこからどこまでを指すんですかね」と言いたくなるほど長い長い塀だった。
一応豪邸なるものを想定はしていたものの、私の乏しい人生経験と想像力ではこういう図はちょっと思い描けなかった。
そうそう、乏しい想像力といえば、倉持真吾の車は赤いオープンカーではなく外車でもなく超メジャーな国産の黒いハイブリッドカーだった。「意外」と思わず呟いた私は、「グラサンかけてオープンカーに乗ってそう?」と問われて絶句した。
なぜ私の考えが読めるんだ。
やはり只者ではない。
そして、これから只者ではないファミリーに会うのだ。
そう思って私が武者震いをしていると、美咲が横で本格的に震えはじめたのだった。
「き、緊張し、てしまって」
美咲は途切れ途切れに言った。
そりゃそうだ。結婚相手のご両親に初めて会うのに緊張しないわけがない。まして、最大の味方であるはずの結婚相手がこの場にいないのだ。
「美咲ちゃん、深呼吸して。大丈夫だから」
真吾は美咲に優しく話しかけた。
こういうとき、チャラ男なら背中に手でも当ててさすったりしそうなところだが、この男は絶対に美咲に触れない。それどころか、ほんのわずかな接触すら慎重に避けているのがわかる。
貴俊さんに対する友情がそうさせているのだろう。
律儀なやつだ。
意外と。
「そう言えば、今日貴俊さんは何してんの?」
「あいつは仕事の鬼になってるからねぇ。多分会社にいるっしょ」
真吾が軽く言った。
本当にヘンテコすぎる状況なんだけど、この人があまりにもあっさりとしているのでついついそのことを忘れてしまいそうになる。
「この正面が俺の実家で、貴俊の実家はそっち」
真吾が指さした先に、輸入住宅っぽいかわいらしい雰囲気の家が建っていた。そして正面は重厚感たっぷりの日本家屋。なんだか不思議な空間だ。
「わぁ、可愛いお家」
美咲が少し元気を取り戻したように言ったけど、その声はやっぱりゆらゆらと揺れている。
「叔母の趣味だよ。可愛いって本人に言ってやって。たぶんめちゃくちゃ喜ぶから」
叔母……貴俊さんの、お母さん。でも、実のお母さんではない人。どんな人なのだろうか。
「さて、行きますか」
玄関ドアの少し手前に私と美咲が並び、真吾が一歩前に出てインターホンのボタンを押した。
いよいよだ。
ごくりと唾を飲む。
――や、ヤバい。冬なのに、真冬なのに、背中にすごい汗かいてるよ……!
ドアがゆっくりと開き、ぴょこりと覗いた顔は……
「おう、茜」
そこに、天使がいた。
何だ、この美少女は。
「美咲さん?」
天使が私と美咲に向かって問いかける。
「どうぞどうぞ、入ってください」
天使がとびっきりの笑顔を浮かべた。まぶしすぎて目がくらみそうだ。
真吾に促されるようにして美咲が一歩前に足を出し、私は全神経を注ぎ込んで足を地面から引きはがした。
玄関に入ると、そこは吹き抜けになった明るい空間だった。
「あらあらあらあらあらあらあらあらあらあらあらあらあらあら!」
家に入るなり私たちを出迎えたのは、息継ぎを忘れていやしないかと思うほどの「あら」だった。発しているのは中年の女性。中年と言うのが憚られるくらいに可愛らしい雰囲気だが、年齢的にはもう五十代半ばくらいだろうか。
優しい風合いのセーターに黒いパンツというごくごく普通の服装に、私は少し安堵した。いや、少しというのは控えめすぎるかもしれない。結構、かなり、安堵した。ブランドごてごてじゃなくてよかった。あと、アニマル柄の服でもなくてよかった。虎が大口を開けて吠えている服なんかで出てこられた日には、美咲が卒倒してしまう。
「叔母ちゃん、ちょっと落ち着いて」
真吾がその女性に声を掛けた。
「あら、ごめんね真吾くん、つい興奮しちゃって。ええと…美咲さんは、どちら?」
貴俊さんのお母さんの問いかけに、私は一歩下がって手で美咲を示した。
美咲はガバッと頭を下げる。
「あ、実藤美咲と申します!あの、本日はあの、お忙しいところを、お時間を作っていただいて! あの! あの! あの! 年始のお忙しい時に! お邪魔致しまして! あの!」
美咲の言葉はブツ切りで、ものすごく力が入っていた。
真吾がその言葉を引き取って続ける。
「こちらが美咲ちゃんで、そのお友達のハルカちゃん。二人ともすげぇ緊張してるから、とりあえず中に入れてもらってもいいかな」
「あらあらあら、ごめんなさいね! そうね! 玄関先でするような話じゃないわよね」
慌てたようにそう言う貴俊さんのお母さんらしき人の後ろから、にょきりと突き出た頭。縁のない眼鏡をかけた厳格そうな顔の男性だった。たぶん貴俊さんのお父さんなのだろう。
「こっちこっち。お茶の準備をしたのよー! 美咲さんとハルカさん、紅茶はお好きかしら?」
「あっはい、好きです」
先ほどの自己紹介がうまくいかなかったことに泣きそうになっている美咲の代わりに答えると、中年の女性は美咲と私を交互に見つめて楽しそうに笑った。
玄関を入ってすぐ左手にある部屋に案内され、前を歩く女性について足を踏み入れた。
そして大きな四角いテーブルに、貴俊さんの家族と向かい合うようにして腰かける。テーブルは多分木なんだろうけど、ツヤッツヤに磨かれて塗装されているので素材感がよくわからなかった。とりあえずテーブルの脚の先っちょがちょっとクルンとしてて、高級感が漂っていることだけは確かだ。椅子もやたらと重かった。
「じゃあ、改めて……こちらが、実藤美咲さん。そのお友達の、嘉喜ハルカさん。で、こちらが貴俊のお父さんの倉持実俊さん、お母さんの紀子さん、妹の茜」
「実藤さんとおっしゃるんですか……私の名前と似ていますね」
貴俊さんのお父さんがどうでもいいことを拾い上げ、美咲がおどおどと答えた。
「あっはい……」
まぁ、ほかに返事のしようがないわな。
「ていうか、何で茜も叔母ちゃんも貴俊の彼女が美咲さんっていう名前だって知ってたの? 俺、名前言わなかったと思うんだけど」
真吾の問いに、天使がいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「お母さん、言っちゃってもいいかなぁ、いいかなぁ」
「いいんじゃない」
お母さんと妹さんは、いまにも花をまき散らしそうなくらい興奮していた。
「あのね、去年の七月のお兄ちゃんの誕生日にね、お兄ちゃんが久しぶりに家に帰って来てたんだけど、そのときに私のこと間違えて『美咲』って呼んだのー! あまりにも自然に間違えてて、本人は全く気付いてなかったんだけどね。私はびっくりしたけど、何となく聞かない方がよさそうな気がしたからそっとしといたの」
「そうなのよー! それからうちでは美咲さんってどんな人なんだろうっていう話で持ちきりだったのよ。貴俊が連れて来てくれるのを今か今かと待ってて。だけどこの間会ったら憔悴しきってたから。ダメになっちゃったんだわって思って皆で落ち込んでたのよ」
そう言うと、貴俊さんのお母さんは美咲をじっと見つめた。
「あの、真吾くんから聞いたんだけど、貴俊と結婚しようって、そう思ってくれてるんだって?」
「はい。あの、本来は貴俊さんと一緒にご挨拶に来るものでしょうし、何だかおかしなことになっているんですが、私は心から貴俊さんと結婚したいと思っています」
ようやく自分のペースを取り戻した美咲が真剣に、でも笑顔で言った。
とたんに、「キャー!」という悲鳴のような声が上がる。
「美咲さん、ありがとう! ありがとう!」
悲鳴の中に野太い声も交じっていたことに気づき、私は思わず貴俊さんのお父さんを見つめた。厳格そうな顔つきだと思ったけど、今はその顔がほころんで目尻が思いっきり下がっている。その顔を見て、ああ、貴俊さんのお父さんなんだな、と思った。どこにでもいる、息子の幸せを望む父親の姿だ。
「貴俊はね、ちょっと情けないところもあるけど、優しくていい子なのよ! ダメなところもあるけど、いいところもあるから! だからね……」
「私、貴俊さんのいいところしか知らないので、情けないところをもっとたくさん知りたいくらいです」
美咲の言葉に、悲鳴第二弾が上がった。
「美咲さん、ありがとう! ありがとう!」
さっきも聞いたな、と思いながら私はくすりと笑ってしまった。
「結婚式のサプライズの話は、真吾くんから聞いたわ! すっごく、すっごく楽しそうね!」
ああ、このお母さんも真吾的な人か。
「私も楽しみにしてるー!」
天使が楽しそうにはしゃぐ。この子は本当に美しい。
「私もだ」
野太い声が言ったのでさすがに驚いた。
この人も楽しみにしてんのかい。
「でも、美咲さんに言っておきたいことがある」
低い声に、美咲は少し顔をこわばらせて居住まいを正した。
「はい」
「あのね、いや、そんなに畏まらなくてもいいんだが。これから結婚式の準備をしていくことになるそうだけど、無理をする必要はないからね、と伝えたくて」
美咲はきょとんとした表情を見せた。
「私も一度結婚に失敗していてね。その経験者から言わせてもらえば、やはり結婚は重たいものなんです。どんな形であれ、失敗したときにはそれなりに心に痛手を負う。だから私としては、きちんとした覚悟をもって結婚に望んでほしいと。覚悟ができないなら、引き返してほしいと、そう思うわけで。貴俊の……結婚式の話は聞いているかな?我々もあの出来事にはやはり心を痛めたのでね…その、もし結婚式の準備をしていく中で、結婚に対する迷いが生じたり、結婚をとりやめたいと思ったなら、遠慮なく伝えて欲しい。『もう引き返せない』というだけで結婚をしてほしくはない、というのが私の願いなのです。そして、その……できれば、引き返したいという気持ちは穏やかな方法でお伝えいただけたら」
貴俊さんのお父さんの声は穏やかで優しかったが、言葉にはずっしりとした重みがあった。穏やかならざる方法で引き返した元・花嫁のことが頭にあるのだろう。
でもこれは同時に、美咲への気遣いでもある。
「はい。たぶんそんなことはないと思いますが、その時にはかならずきちんとお伝えします」
「うん、ありがとう」
しん、という沈黙が広がる。
「あら! もう真面目な話はおしまい? ねぇ、私おしゃべりしてもいい?」
貴俊さんのお母さんが明るく沈黙をぶち破った。
「ああ」
途端に、女二人は美咲にかじりつくようにテーブルの向こう側から身を乗り出し、言葉を飛ばし始めた。
「美咲さん、貴俊とはどこで出会ったの?」
「あ―! お母さん、それ私も聞こうと思ってた!」
「告白は美咲さんから? えっきゃーっっ貴俊からなの?」
「お兄ちゃんどうやって告白したの! 想像できないんだけど!」
「初デートはどこへ行ったのよぅ」
「あ、美咲さん、お兄ちゃんと水族館に行ったことあるでしょう! お兄ちゃん家に泊めてもらったときにね、水族館の写真が飾ってあったのー! お兄ちゃんて、写真とか飾ったりするタイプじゃないのよ。なのにイルカがジャンプしてる写真を飾ってあるから、絶対大切な人と一緒に行ったんだな、と思って! 美咲さんとのツーショットを部屋に飾れないところがお兄ちゃんだよね!」
「あら、飾れないんじゃなくて、まずツーショット写真を撮るところからして貴俊には結構なハードルなんじゃない?」
「お兄ちゃんっどんだけピュアなのよ!」
ガールズトークが開始され、美咲は一つ一つの質問に笑顔で答えていく。
その会話を聞いているだけで楽しくて、私は彼女たちを交互に見ながら、美咲の嬉しそうな様子を観察していた。時折お父さんに目を向けると、お父さんも同じように嬉しそうだ。
なんだか楽しいご家族だな。
そう思って真吾の方を向くと、真吾はなぜかものすごく訝しげに眼を眇めて窓を見つめていた。
「どうしたの?」
「窓の外に……覗きがいる……」