10 叫ぶ私、悪びれないアイツ
『結婚式、しようぜ』という衝撃的な一言からおよそ一週間が経った。
あれ以来会社で顔を合わせる美咲は今までが嘘みたいに生き生きとしていた。
それはすごく良いことなんだけど……
「だからって、何で九月なのよ! 待ちすぎでしょ! もっと早くにできないのっ?」
目の前でゆったりと足を組んで座る男に向かって叫んだ。
師走の金曜の仕事帰りともなると、居酒屋は年末と週末を待ちわびたサラリーマンや学生の団体様で激混みだ。だが倉持真吾に連れてこられたこの店は、ゆったりとした広さの完全な個室で、周囲に人の気配を感じさせない場所だった。
いや、叫んだのはさすがに外に聞こえただろうけど。
私の雄叫びにも真吾は悪びれもせずに答える。
「貴俊は今、大事なプロジェクトに携わってるんだよ。だから集中力を削ぐようなことをしたくない。それと、あいつ今美咲ちゃんのこと考えないために仕事の鬼と化してるからすげぇちょうどいい。元々仕事できるんだけど、鬼になってるときの仕事量尋常じゃないから。プロジェクト成功の鍵を握るのはあいつってことで、会社的な都合で、もうちょっと鬼でいて欲しい」
「そちらさんの会社的な都合なんて知ったこっちゃないんですけど!」
「そちらさんとか言ってるけど、取引先だろ? 仕事が成功してほしいと思わない?」
「それはそうだけど、美咲を巻き込まないでよっ」
鼻息荒く言ったのに、真吾は余裕の表情で笑ってみせた。
「ハルカちゃんさ。俺に対する態度、かなりひどくなったよね」
「当ったり前でしょうよ! 何考えてんのよ! 九月って!」
「でも、美咲ちゃんはそれでいいって言ってくれたからなぁ」
「うっ……」
その言葉を言われると弱い。
美咲は本気でこの計画に乗っかるつもりなのだ。
私は貴俊さんをよく知らないので、真吾の話を聞いても「つまりトラウマのせいで弱気になっちゃってんのねぇかわいそうに」というのに自分がしでかしたことへの罪悪感の毛が生えたくらいの思いだったが、美咲の心にはずっしりと響いてしまったらしい。
たしかに、お母さんのこともあり、元・花嫁のこともあり……すごい人生だ。失うことに慣れちゃってもしょうがない。で、慣れてるせいですぐに「そっか」となっちゃうのを治してやりたいという周囲の気持ちもわからんではない。でも、それにしたってもうちょっとマトモな方法があるんじゃないだろうか。
そう思う私は決しておかしくはないと思う。
だけどそう、美咲はそれでいいと言ったのだ。多少荒療治でもいいから、「失って当たり前」でなく、ちゃんと自分から追い求められる人になって欲しいと。
真吾にしろ美咲にしろ、愛情深いというのはわかるのだが、ちょいと愛情の方向がおかしい。それとも私がおかしいのか。もうよくわからなくなってきた。
「プロジェクトってそんなに長いことかかるの?」
「終わるのは七月」
「じゃあせめて七月にすればいいじゃないの」
「俺がちょっとその頃忙しくなりそうなんでね」
「あんたが忙しくたって別にいいでしょ」
「ダメだよ。準備するのは主に俺なんだから。それに、日程が詰まれば詰まるほど大変だよ? 結婚式の準備って。花嫁はエステで磨いたり色々大変だから準備期間必要だし。七月は暑いからゲストも大変なんだよ。ドレスが汗まみれになっちゃうでしょ。振袖のゲストなんてもっと大変」
「結婚式にこだわる必要はないじゃない」
「あいつの結婚式のトラウマはなんとしても解消してやらねば」
「普通に会いに行って誤解といて、ふたりがその後普通に結婚式したって、トラウマなんて解消されるでしょうに」
「それだと面白くないじゃん」
あー、ハイ。
優しいとか友達想いとか愛情深いとか思ったの、全部撤回。
自分の楽しみ優先の鬼畜ヤロウでした。
「それに、それくらいインパクトのあることしないと、あいつのあれは治らないと思うんだよ」
「今の状況の方が断然かわいそうなんじゃないすかね」
「まぁ、いいんだよ。美咲ちゃんがそれでいいって言うんだから。結局、大事なのはそこだろ?」
何というか、この余裕ぶっこいている感じがムカつくのだ。
「俺」が正しいことに何の疑いも抱いていない感じ。
それに少しずつ引きずられている自分にもムカつくし。
「悠長なこと言ってる間に美咲がほかの人を好きになったらどうするのよ。貴俊さんだって」
「それ、本当にありうると思って言ってる?」
口元には薄い笑い。目を細め、顔を斜めにして問うてくる。
「ハーイ、斜め45度が美しいのはわかりましたー」
厭味ったらしく言ってやると、真吾はグッと詰まったように笑った。
「別に見せつけるつもりなんかなかったんだけどな。見とれちゃった?」
腹立たしいので無視した。
「人の気持ちなんていうのはね、案外コロッと変わるもんだよ。まぁ美咲はそんなにコロコロ気持ちが変わるタイプじゃないとは思うけど」
「なら、貴俊はもっとない。断言できる。ずっと一緒に育ってきた俺が言うんだ、間違いないよ。仕事も人間関係も、一途だ」
「早く教えてあげた方が貴俊さんだってうれしいと思うけど」
「俺だって鬼じゃない」
へぇ~。鬼畜だと思ってたぁ。
表情でそう言ってやると、イケメンは一瞬片目を眇めた。
「何か言いたげだな」
「なんでもないですよ?」
「貴俊が本気でヤバい状態なら、今すぐにでも教えてやるよ。でも、あいつはあいつなりに自分で立ち直ろうとしてて、本当にもうちょいって感じなんだ。だから、最後の仕上げを楽しくやろうと」
それにしたって――
反論しようとしたけど、嫌味なくらいに長い手がテーブルの向こう側から伸びてきて私の口をふさいだ。
「もう反論はいいから俺に任せとけって」
くっそぅ、この手、なんか爽やかな香りがする。
しかも、大きい。指が長い。手までイケメン。
なんだこの圧倒的な敗北感は。
「まぁ、ハルカちゃんがどうしても貴俊に暴露したいなら別に止めないよ。ただ、あいつの答えは見えてる。『気を使わせたみたいでごめん』ってな。それでも言いたいなら、どうぞご自由に」
ぐぬぅ。
「そういうとこ、本当ムカつく」
「そういうとこって?」
「人を従わせるのが当然、みたいなオレ様な感じ」
「傲慢だって言いたいのかな?」
面と向かって悪口を申し上げたはずなのに、奴の表情は涼しいもんだ。
私の言葉など屁とも思っていない感じが、なお一層腹立たしい。
「俺は自信があるだけで、傲慢ではないつもりだけどな」
「どう違うの」
「他人を蔑んではない」
「なるほど、人を下げずに自分が上がってるタイプか」
「まぁ、そういうこと」
「結局同じでしょ。他人より高い位置にいるんだから」
「見合う努力はしてるつもりだ。で? そんな傲慢野郎にこれ以上反論はある? それとも、納得した?」
結局わたしは口をつぐんで、そしてそのぶっ飛んだ計画を受け入れることにした。
計画の内容は九月十五日、貴俊さんが元・花嫁に逃げられた日のちょうど二年後に、逃げられた現場であるチャペルで貴俊さんと美咲の結婚式を挙げようというものだった。
そして、何が異常かって、その結婚式がサプライズ結婚式だっていうこと。
聞いたことあります? サプライズ結婚式。サプライズ誕生日パーティーじゃないよ、結婚式。
シナリオはこうだ。
美咲がほかの人と結婚するっていう設定で結婚式のセッティングをして、その話を聞いて慌てた貴俊さんが会場に乗り込んできて、美咲を連れ出そうとする。ところがぎっちょん新郎役は真吾で、連れ出そうとした貴俊さんと美咲の結婚式をそこでやっちまおうと。
「あのさぁ、貴俊さんが来なかったらどうするの」
「絶対来るよ」
真吾は自信満々だが、もし来なかったらと思うとゾッとする。美咲の気持ちは。
真吾の話を聞く限り貴俊さんはかなりのヘタレなのだ。過去の事情が絡んでいるとはいえ、ヘタレであることに違いはない。初対面の印象でも、結婚式に乱入して来そうなタイプには全く見えなかった。私の目の前にいるぶっ飛び御曹司よりずっとずっと常識的な感じで、久美姉に聞いたイメージも『真面目』。
本当に美咲の結婚を止めにくるだろうか。来なかったらどうするんだ。美咲の気持ちは。花嫁に逃げられた花婿と、花婿が来なかった花嫁。ドラマ脚本家もびっくりだ。
すごく楽しそうに「大丈夫、大丈夫」と繰り返すボンボンを見ながら、私は頭が禿げ上がりそうなほどのストレスを感じていた。
「それで、式のことだけど」
「あー、それ。新郎にサプライズの結婚式なんて式場が了承するとは思えないんだけど。どうすんの?」
「会場はもう押さえたよ」
この爽やかな男を前にしていると、まぁ酒が進む進む。
なんで進むかって、飲まなきゃやってられないからだ。
「仕事早イデスネ。あの日からまだ一週間弱なのに」
「お褒めいただいて光栄デス」
「うわぁムカつく言い方」
「本気で言ったんだけどな。ハルカちゃんはお世辞言わなそうだから、ほめられると嬉しいよ」
「私でもお世辞くらい言えるんですけど。これでも一応社会人なんですけど」
メニューの一番上に載っていたオシャレな名前のお酒をグビリと飲みながら言うと、真吾は肩をすくめた。
「訂正。俺にはお世辞言わなそう」
「ゴキゲンをとってほしいなら、仰せのままに」
「いや。普通でいいよ。心にもないお世辞言われるのはもう飽き飽きしてる」
「ンマッ」
いい感じに酔いも回って来たし、「褒められるのには慣れている」と言わんばかりの発言が鼻について、オバチャンみたいな声がでた。
真吾はまた肩を震わせる。
「クク……まぁ、会場に関しては、伊織の旦那のホテルだから口利いてもらっただけだよ。ちょうど空きが出たところだったんだってさ」
伊織の、旦那の、ホテル。
意味が、わかり、ません。
「ていうか伊織さんって誰だっけ? 幼馴染の人だっけ?」
「うん。で、式場のスタッフの人たちは皆1年前にあったことを知ってるから、あのときの新郎が幸せになるお手伝いなら喜んでってさ」
「ふうーん。それは、それは」
「……それで? ハルカちゃんは何でそんなに嫌そうなの」
ため息交じりに言うと、真吾は身を乗り出した。
組んだ腕をテーブルの端っこに押し付けて、ぐいと顔をこちらに寄せる。
ふわっと男らしい香りが漂ってきて、わたしは思わずのけぞった。
「別に。ただ、美咲には普通に、フッツーに幸せになってほしいの」
「結婚式後は普通に幸せな夫婦になるだろ。貴俊はめちゃくちゃ真面目だしな」
「貴俊は」って言葉がなんとも。
自分が真面目じゃないという自覚があるらしい。そして自覚のあるチャラ男というのはもはや病気なので、きっとこの人は一生このままなのだろう。
「ほかはどうするの? 招待客とか」
「ああ、その辺はもう本当に親しい友人とかだけでいいだろう。何なら、披露宴は別にやってもいい。とりあえず貴俊のケツに火つけたいだけだから」
「あんた、暖かく見守りたいのか、追い込んで逃げ場なくしたいのか、どっちなの」
「どっちも……かな。ゆで卵になる前になんとかしなきゃだし」
「ゆで卵って何よ」
「あいつ、ほっといたらゆで卵になりそうなんだよ。美咲ちゃんのこと諦められないのに物わかりのいいフリして、『そっか』とか言ってさ。仕事に死ぬほど打ち込んで、必死で忘れようとして。固い殻の中に閉じこもったままどんどん頑なになっちゃってさ」
「ふぅん」
本当にこの御曹司はわからない。
優しいのか、優しくないのか。
友達想いなのか、そうじゃないのか。
いや、友達想いなのは間違いないんだろうけど……
「気合い入れすぎて卵の殻をカチ割らないように気をつけてよね」
「まぁそこは俺に任せて。やらなきゃいけないことが結構あるからこれからかなり忙しくなるよ。覚悟しといて」
そう言って真吾が鞄から取り出したのは超有名な結婚情報誌だった。
「これ、真吾さんが買ったの?」
――どんな顔して買ったのか気になる。
「あ、呼び方が『真吾さん』に戻った」
「え、私、前からそう呼んでない?」
ボンボンとか真吾とかこいつとかいう呼称は心の中にとどめていたはずだ。
「怒ると『あんた』になったりするよね。そのうち『お前』って呼ばれる日が来るんじゃないかと怯えてるんだけど」
「え? そうだっけ?」
「無自覚か。面白いよね、ハルカちゃん」
私はあんたほど面白い人間には会ったことがありませんがね。
そう思ったけど、めんどくさいので鼻から抜けるようなテキトーな返事をしておいた。
買ったのではなく広告業界に勤める友達からもらったというその結婚情報誌をパラリとめくると、「結婚式までの道のり」というページがあった。プロポーズから結婚式までにやらなくちゃならないことと、その時期がおおまかに示されている。
その一番最初に記されている文字を見て、思考が停止した。
『双方の親にご挨拶!』
「ちょ、ちょ、」
雑誌から目を離すことができずに、そのままの姿勢で手をぶらぶらさせて御曹司の注意を引いた。
「何?」
「親、親に挨拶だって。どうすんの」
「まぁ、結婚するんだから、挨拶くらいはしなくちゃだよね」
「どうすんの! 貴俊さん知らないのに!」
「いいよ。俺が代わりに行って説明するから」
「新郎の従兄が挨拶に行くって、おかしいでしょうよ! それじゃあ挨拶にならないよ!」
「美咲ちゃんがすでにご両親には軽く話をしてくれてるんだ」
――え、もう?
「一応の了解は得てる。だからあとは細かい事情の説明をしに行くだけ。で、貴俊の方は俺の叔父叔母だから。楽勝」
「……ていうか、貴俊さんって真吾さんと同じ倉持の人なんでしょ? 親の反対とかないの?」
「親の反対って?」
「お家柄の問題ってことよ!」
つい鼻息が荒くなった。
「ないっしょ」
軽く肩をすくめながら、雲みたいにふわっとした返事が返ってきた。
「なんなの、その軽い答えは」
「あいつは一回見合いで衝撃的な結末を迎えてるんだよ? それなのに、家柄なんてちっぽけなことで今更親が騒いだりすると思う? あいつが幸せなら何でもいいよ。あいつに彼女がいたって知ったら喜んで小躍りすると思う。そういう人たちだから」
「ふぅん……」
倉持グループ。
誰もがきっと、一度は聞いたことのあるその名前。
このチャラ男だって本当ははるか雲の上の人。私がタメ語で話せるような相手じゃないのだ。
御曹司なんか嫌いだ。雲の上から下界を覗き見、気まぐれに下界にちょっかいなんか出すから。