1 やってきたアイツ
※投稿初期の作品ですので、表現や内容、体裁など拙い点が多々あると思います。誤字の訂正などを随時行っていく予定ですが、お見苦しい点についてはご容赦いただけましたら幸いです。
「嘉喜さん。倉持商事の常務の倉持さまが受付にお見えです」
受付からの内線電話に背筋がグンと伸びた。
穏やかな昼下がり、オフィスの大きな窓から見える空は抜けるほど青く、秋晴れとはこのことかという心地のよい景色。空を見ながら茶でも一服、と思っていたところに憂鬱な知らせを受けて、浮き上がった心は急降下。
――にしても、常務ってどっちだ。
降下したまま心の着地点を見つけられず、受話器の向こうの人に問う。
「あの、お客様の下のお名前、わかりますか?」
「倉持真吾さまです」
着地点は「憤怒」で決定。不愉快極まりない男の顔を思い浮かべ、心の中で真っ黒黒に塗りつぶした。
「アポイントがないので、お引き取りいただくように伝えてください」
受付嬢には何の罪もないのに、口調がつい厳しくなってしまった。
しっかし会社まで攻めて来るとは、敵もさるもの引っ掻くもの。引っ掻いてやりたいのはこっちだというのに。
「それが……会えるまで帰らないとおっしゃっていて……あ、ちょっ……」
困ったように告げた受付嬢の声が遠ざかって、代わりにくらくらするほどの美声が受話器から耳に流れ込んできた。
「春香ちゃん? 真吾です。会ってくれるまで帰らないから。話がしたい」
「嘉喜です。お会いするつもりはありませんので、どうぞお引き取りください」
キッパリと言った。
ええ、それはもう、キッパリと。
元来「断る力」が欠落気味の私は、セールスの電話ですら冷たくあしらえずに話を聞いてしまう。一度など、間違い電話の見知らぬ独居老人の話に三時間も付き合って休日の午前中を丸潰れにしたくらいだ。
そんな私が自分の中にある「断る力」を総動員して感情のない声で言い放ってやったというのに。
「じゃあ、待ってるから」
ガチャンという固い音の後に続く、無機質で断続的なプープー音に呆然とした。私の精一杯なんて、あの男の前では一言で片づけられるレベルだったらしい。
今しがた憤怒に着地した感情が、メラメラと燃え上がった。
「『じゃあ』って何だ、『じゃあ』って!」
「会いません」からの「じゃあ待ってる」という理不尽な会話に苛立って小声で悪態をつき、受話器を置く。
強引で、自信家で、いつだってすべてが自分の思い通りになると信じて疑わない。ああいうタイプは一番嫌いだ。なぜってムカつくからだ。ついでに言えば、あいつのイトコも大っ嫌いだ。
イライラをキーボードに叩きつけてモーレツな勢いで仕事を片付け、終業時刻になるなり受話器を持ち上げて受付に内線をかけた。あまりの勢いに、電話機の内線ボタンがひしゃげるんじゃないかと思ったくらいだ。
「企画の嘉喜ですが」
キカクノカキデス、というカ行責めに一瞬思考停止したらしい受付嬢から、ワンテンポ遅れたレスポンスがあった。
「あ、企画部の、嘉喜さんですね」
「はい、すみません。まだいますか? あの男」
「いらっしゃいます。それが……あの……」
受付嬢はそこでヒソヒソと声を落とした。
「エントランスが軽くパニックに……芸能人か何かなんじゃって……」
「あー……」
そういえば、あの男、ムカつくほど見目麗しいのだった。
芸能人ね、なるほど。そう思ってしまうのもわからなくはない。だがしかし、あれは。
「顔がキレイなだけで中身は悪魔ですから」
顔がキレイなだけ、というにはだいぶ他の要素も整いすぎているような気はしたけど、どっちにしろ芸能人ではない……はずだ。あれだけ整った容姿ならモデルのバイトをしていたことあったと言われても小指で鼻をほじりながら「ふぅん」って言える程度には納得だけど。
受話器を置いて七階のフロアからエレベーターで五階に下り、デスクに向かう友人の背に声を掛けた。
「美咲」
「あ、ハルカ? どうしたの?」
振り返った友人は、私の顔を見るなりプラスチックの笑顔を作ってみせた。
その健気さに胸が詰まる。
この友人はつい最近失恋したばかりで、いつ会っても充血して潤んだ瞳をしている。
美咲に非はない。相手の男が最低だったのだ。あんな男のために涙を流すのは惜しい、と心底思う。
「倉持真吾が受付に来てるっていうから、気をつけてって言いに来たの」
本当ならあの最低な男に関わる情報は一切この子の耳に入れたくなかったけど、鉢合わせれば嫌な思いをするだろうと思い、伝えることにしたのだ。
「え……どうして……」
「わかんない。私に会いに来たってロビーに居座ってるみたい。警備員さんに排除してもらってもいいんだけど、大事にしたくないから非常階段からこっそり外に出ようかなと。美咲もそうする? そろそろ帰るなら待ってるけど」
「あ、もう終わるから、じゃあ一緒に帰る」
美咲の仕事が終わるまで廊下で待って、ふたりで連れだって非常階段に出た。非常階段は建物の裏側へ出るつくりになっていて、ロビーを通らずに外に出ることができる。
カツンカツン、ヒールの固い音を響かせながら下りていく。
階段が金属製なせいか足音は縦長の空間に大きく反響して、その固い音にイライラが募った。
何で私たちがこんなに面倒なことをしなくちゃならないのか。コソコソすべきは向こうのはずだ。それだけのことを、したのだから。
あやつは私が帰ったことにも気づかずにきっと待ち続けるのだろう。貴重なはずの時間を犠牲にして。
一瞬心の中に生まれた「申し訳ない」という思いの芽を摘み取って踏み潰した。
世の中には思い通りにはならない人間もいるのだと、思い知ればいい。
ビルの外に出るとやけに天気がよくて、それにすら腹が立った。やり場のない怒りを自分のなかで消化しようとお腹に力を入れながら、美咲に声をかけた。
「美咲。その……大丈夫?」
「何が?」
その目にうっすらと張る水の膜には、気付かないふりをすべきだろうか。
「ううん、なんでも。また明日ね」
「うん。ハルカ、ありがとう」
「いえいえ。ゆっくり休んで」
膝丈のスカートを翻しながら小さな足音と共に去っていく後ろ姿を見て、ため息が漏れた。
あの子は今夜、眠れるのだろうか。
会社の同期である美咲とは出会って三年。この三年間、ただの一度もあの子が泣いている姿を見たことはなかった。小動物みたいで可愛くて、いつも楽しそうにはしゃいでいて……。そんな美咲が泣いている。何と声を掛ければいいのか、わからなかった。
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その夜、携帯がうるさく鳴り響いた。
発信元は「倉持 真吾」だ。
シャワーを浴び終わっていい感じの眠気に包まれて、そろそろ布団にもぐりこもうという一日で最も幸福な時間を台無しにされ、私の中でのあの男の評価は地に落ちた。というかすでに底辺だったので、地に潜ったと言っていい。この際地底人かなんかと戯れていてほしい。博愛主義のあの人だから、地底人とだって仲良くやれるだろう。
イライラした気持ちでしばらく携帯を睨み付けていたけど、電話が鳴り止む気配はなかった。やむを得ず、電源ボタンを二度押して電話を切る。
胸を撫で下ろしたのもつかの間、すぐさま次のコールが入った。
――しつこいって、もう。チャッキョだ、チャッキョ。
やり方がわからなかったので説明書まで持ち出して着信拒否設定をした。これでもう、煩わされることはないだろう。
そうホッとしたところに、メールが送られて来た。
懲りない奴だ。どうせこれまで女のひとから拒絶されたことがないに違いない。『どうして俺の電話に出てくれないんだ! 女なのに!』とでも思っているのだろう。
〈頼むから読んでくれ〉というタイトルから漂う隠しきれないオレ様臭に苛立ちを募らせながら、内容は読まずに削除し、受信拒否設定をした。
今度こそ、大丈夫だ。
半年前の静かな生活に戻ろう。私も、美咲も。