策略
師走。師も走るという意味から名づけられた、年の暮れの多忙を示す暦上の呼称。
「な、の、にっ。なんで一件も依頼の客が来なくて、絶対来ないと思ってたお前が来るんだ。暇なのかよ」
GINは行儀の悪い姿勢で背もたれに身を預け、事務所に現れた訪問者に向かって露骨な嫌味を言い放った。八つ当たりと解りつつ、表稼業で稼げないことに苛立ちを隠せないでいた。事務所の机にどかりと乱暴に脚を乗せ、不貞腐れた顔のまま身構えるように腕を組むことで、どうにか自分を抑えようと試みた。
「暇なわけがないだろう。自分が俺に依頼したことを忘れたか」
紀由もGINに負けず劣らずの様相で、GINに口を挟ませない勢いの反論を一気に並べ立てて来た。
「来年に持ち越すのはイヤだと駄々をこねたのは誰だ。お陰でこの数ヶ月寝不足だ。歳末は表の仕事だけでもどれだけの事件を抱える状況になるか、いくらお前でも覚えているだろうが。しかも“あちら”の案件までトラブルが発生するし。まったく」
そう言って資料を乱暴に放り投げる。GINはクリアケースからバラバラに散ったコピーの束を拾い集めながら、忌々しげに見下ろして来る紀由を恨めしそうに見上げた。
「“あちら”って、“あっち”?」
「おうむか、貴様は。意味が解らん」
「だからさ」
「それは諸々が確定してから話す。いいからさっさと茶くらい出せ」
「……志保さんと、喧嘩でもしたんだろう」
「お前には関係ない」
「図星か」
「……」
「毎年この時期、喧嘩してたもんな。帰って来ないー、とか」
「貴様の顔が、丁度いい位置にあるな。割られるなら顎と頬骨とどちらがいい」
「……ごめんなさい」
GINは集めた資料の底を床でトンと叩くついでに、口先ばかりの謝罪を口惜しげに吐き捨てた。
紀由が持って来た資料は、《能力》者四人の血液検査結果や、血漿の適応性に関する論文などの資料だった。結論から言うと、GINには日本語表記であること以外、ほとんど意味不明の内容だった。
「で、つまりどういうこと?」
「O型のお前ならば、零からだけでなく、零の血漿を享受している遼やゆかりから取り出した血漿でも、ある程度の効果が得られるかも知れない、ということだ。ただし、頭痛の副作用についてはボルタレンと大差がない」
RIOやYOUからの血漿輸血の場合、受ける苦痛に値するだけの対価とは思えない、というのが“高木の”見解だ、と彼は述べた。
「高木さん……あの人、一体いつから《能力》の存在を知っていたんだ」
「恐らく藤澤会関連を洗い出しているときだ。俺が高木さんからのファイルを洗い出していたころ、父に土方組解体時の話を二、三尋ねたことがある」
「いつごろ?」
「まだ組織の存在を知らなかったころだ。藤澤会事件直後辺りか」
「ふぅん。よくあの親父さんがゲロったな」
「解決済みの事件だから父もつい口を滑らせたんだろう。当時、高木さんが土方組内部分裂の不可解さを妙に気にしていた、と首を傾げていた」
土方組内部抗争事件捜査当時、すべての現場関係者の血液を採取し、DNA鑑定をしたそうだ。その際、誰のDNAとも一致しない血液組織が検出されたという。
「当時十歳だった零は、既に施設へ預けられ、メンタルを考慮して捜査対象から外されていたらしい。プロファイリング情報の蓄積にしても、高木さんの拘り方が尋常ではなかった、と。今思うと、あれがきっかけだったのではないかと思う」
紀由はGINの淹れたインスタントコーヒーを不味そうに飲み干すと、口直しとばかりに煙草へ手を伸ばした。それを咥えた彼の口から、ぎり、とフィルターを噛む鈍い音が響いた。
「零は高木さんの在職当時から、なんだかんだ言ってもお前のサポートに徹していた。そんな彼女がお前を高木さんに売ったとは思えない。ファイルの謎はもうひとつある。お前の《能力》に関するデータがあるにも関わらず、なぜか実証例や個人情報の資料が抜けている。高木さんはどういうルートでお前の《能力》を知り、接触を試みたのか。なぜ敢えて俺を介さなかったのか。その辺りが解せない」
そう語る紀由の声は、私的な意味ではない口惜しさを滲ませていた。
「俺がお前と近しい人間だと知っていたはずなんだがな」
心当たりはないかと問われ、GINは遠い記憶を手繰り寄せた。
「……爆窃団、あれかな」
「爆窃団?」
「ああ。一時期、やつらに振り回されてた時期があったじゃん?」
「あれか。確かお前にも一件振り分けたな」
「うん。あのときの零は、どこかいつもと違ってた気がする。今ふと思っただけだけど」
関係している事柄かどうかは解らないが、GINはその当時に感じた零の変化を紀由に語った。
今から七年近く前、警察学校を卒業し、正式に配属された年の冬に起きた、とある強盗殺人事件。被疑者は韓国から流れて来た爆窃団組織の一派だった。彼らは基本的に無人の店舗を狙う。だがその事件の被疑者たちは、たまたま忘れ物を取りに来た社長と休業日の店で出くわしてしまった。彼らは目撃者である社長を射殺して逃走した。被疑者のひとりをあと一歩で確保出来るところまで追い詰めたGINだったが、最終的には被疑者を取り逃してしまった。
(な……子供っ?!)
追い詰めた袋小路に立ちはだかった瞬間、GINは思わず追跡の足をとめてしまった。あとほんの数メートル近づけば取り押さえることが出来たのに、GINはそこから一歩も動けなくなった。
被疑者の男は、逃走中にたまたま通り掛かっただけの少女を人質にしていた。
『ドケ! コレ、コロス!』
片言の日本語がGINを威嚇する。GINは瞬時に自分の取るべき行動を脳内でシミュレートした。弾き出した結果は、人質の保護及び確保可能。ただし、《能力》を使えば、という条件つきだ。
(……でも)
一瞬、迷った。由良に応えるために、二度と《能力》を使わないと自分自身に誓ったばかりだ。その一瞬の迷いが、被疑者にGINの隙を突かせてしまった。
『なっ?!』
選択に迷い身動きの取れなくなったGINの目の前が、いきなり深紅に染まった。被疑者の男が少女の喉笛をいきなり掻き切ったせいだ。悲鳴を上げる間も与えられず、少女が崩れ落ちていく。男とGINを挟む空間が、スプリンクラーの散水を連想させる血飛沫で染まっていった。反射的に彼女の方へと駆け出すGINの脇を、その男がすり抜けていった。すぐに轟くたくさんの悲鳴。大通りを堂々と男が逃げていくのを五感すべてで感じていたが。
『待てっ!』
まだ、少女の息があった。犯人を追うか、少女を救うか。その一瞬の迷いが、更なる行動の遅れを呼んだ。
『クソッ』
大通りに乗り捨てたZへ急いで戻り、張り込みのときに使っているブランケットを後部座席から急いで取り出す。GINは往来のひとりを半ば無理やり掴まえた。
『この路地の奥に、今逃走した男に女の子が首を切られました。救急車と、到着まで彼女の保護をお願いします』
警察手帳を捕らえた女性に翳しながら、有無を言わせずたたみ掛ける。
『え、あ、は、はい』
『よろしくっ』
言い終えるまでには、Zのシートに身を滑らせていた。覆面のZの頭上に赤色回転灯が設置される。サイレンがGINの胸の内を吐露するように、けたたましい咆哮の音を上げた。
Zに設置された無線から、ノイズに混じって当該捜査官への指示が告げられた。逃走した被疑者に関する情報も、同時に無線から流される。
《GIN、零がアジトを確認した。やつらが入って行くのも確認済みだ。零と合流し、SITの到着まで待機しろ》
そう告げたのは紀由だった。
『さっき伝えたタクもそこでヤツを下ろしたのか』
《近辺に乗り捨てられていたタクシーのナンバーがお前の報告と一致した。運転手は腹部を刺され救急で搬送中。GIN、独りで暴走するな。まずは》
『解ってる! 喉を切られた子の搬送先は確保出来たのかよ!』
《それは我々の管轄外だ。こちらがすべきことはした。今お前が考えるべきは、さっきのミスを相殺することだ。被疑者確保に専念しろ。くれぐれも指示以外の勝手な行動は慎め、以上だ》
紀由からの通信はGINの言葉も聞かずに、それを最後に切られてしまった。
『専念、だと? フザけんなっ。おいっ、本間!』
通信はGINの声に答えず、一方的な情報だけを垂れ流し続けた。
『くっそ! 俺にパーフェクトを求めるな!』
八つ当たりだと解っている。だが、紀由にだけは言われたくなかった。《能力》なしでは追いつけない癖に――そうそしられているようで、我慢がならない。
『く……そ……っ!』
犠牲者を出してしまった。その事実が、GINに咥えた煙草のフィルターを強く噛ませた。滲み出すニコチンの苦い味が、口いっぱいに広がっていった。
『やりゃいいんだろ、やりゃあっ。全員まとめてブッ潰してやるっ』
広い三車線の大通りへ無理な形で侵入する。アスファルトとZの後輪が、無茶な摩擦に耐え兼ねて悲痛な声を上げた。サイレンの音で左右へ避ける車輌の群れすれすれにコーナリングする。GINを乗せたZのエキゾースト音が白昼のビル街にこだました。
現場付近にZを乗り捨て、港の倉庫街へ踏み込んだ。零の携帯番号を引き出しコールする。車内の通信で聞かされたおおよその場所は、倉庫街の奥方面。ハンズフリーキットを装着しながら指示されたその辺りへ近づくと、風まで拾った耳障りな音がGINに零の受話を知らせた。
『ただいま到着。目の前に五番のナンバリングをされた赤茶色の倉庫。そこから約二十メートルのクレーン陰が俺の現状位置。零と合流しろだと。連絡はもう入っているな?』
周囲の気配に警戒しつつ、小声でマイクに囁いた。
《私が記憶していなかったらどうするつもりですか。地番くらい確認しておいてください。そこは現場の真正面で危険です。裏手に》
『そんなまどろっこしいことしてる間に逃げられたらどうするんだよ。突入する。SITのお守りをよろしく』
《GI――!》
呼びかけられた音声を途中で切る。
『一応義理は果たしたぞ』
既に切った電話が拾うこともないのに、紀由に課せられた義務の完了を敢えて言葉に置き換えた。
零の狙撃の的確さはそれなりに評価している。だが彼女もただの人間であり、腕力のない女だ。自分とは違う。肉弾戦になったとき、明らかに彼女の存在が足手まといになると踏んだ。
『自分のケツは自分で拭うっつうの』
苦々しげに呟きながら、GINはグローブを両手から外した。
『使いたくない、とか言ってらんない……か』
手口のずさんさから、不慣れで下手くそな集団だと思われる。そんな予測を立てながら、五番倉庫の壁に素手を押し当てた。自然の生み出す風に逆らうような一陣の風が、GINの周囲を取り囲んでいった。
人数は五人。GINとの距離から《能力》で感知し切れないアジトの留守番役がいたとしても、中にいるのは十人にも満たない少数だ。《能力》さえ使えば、確保は容易いと推測出来た。
頭痛さえ耐えられれば。祈るように瞳を閉じる。意識を己が奥底へと集中させる。風が、音と流れを変える。天高く伸ばしたGINの右掌に、小さなつむじ風が渦を巻き始めた。
『準備完了、っと』
GINの零したふざけた口調の声が、ほんの少しだけ震えていた。わずかな動きでも、痛みが側頭部に走る。零なしでは持続出来ない《能力》ならば、最大且つ最短時間で奴らを押さえ込めばいいだけの話だと自分に言い含めつつ、GINは数歩倉庫から後退して適切な距離を取った。
『……ッ!』
集約された透明の嵐が、倉庫正面を守る鉄の扉を目掛け、見えない牙を立てて襲い掛かった。それに巻き込まれて飛び交うドラム缶、あちこちに散らばっていた細かなゴミ屑たち。それらに紛れるように、より高く跳躍する。ドラム缶は、倉庫上部の換気窓目掛けて飛び込むのに丁度よい位置で乱舞していた。
『GIN! やめなさい!』
風が零の声を運んで来た。
(あのバカ女、せっかく裏側で待機してたのに。自分で正面は危険だっつっただろうが)
そんなことを思いながら、声の方をちらりと見遣った。
(――あれ?)
一瞬ではあったが、零の“何か”が違うと感じた。今までの彼女の装いとは異なる、ブラック一色のスーツ。その濃い色が彼女の白い肌をより青白く見せていることが違和感なのか。だが、そういった表側の部分だけではない、彼女の発する内面的な“何か”に妙な異質さを感じた。
(……ま、いっか)
今は、そんなつまらないことを気にしている場合ではない。
GINが思考を目の前の状況へシフトするのに、そう時間は掛からなかった。
換気窓の鉄格子を蹴破って、中へ潜入。着地と同時に一瞬だけ両脚へ圧し掛かった自重に、どうにか持ち堪えて真正面を見据えた。
『先行突入、セーカイじゃん。SITを待ってたら逃がすところだった』
着地したGINを迎えたのは、カンガルーバーを装備した改造RV車だった。もちろん停車しているはずがない。それは何もためらうことなく、GINを目掛けて突進して来た。フロントガラスが不自然に内側から砕け散る。そこから無数に飛び出した銃弾が、ストップモーションの小刻みな動画をGINに連想させた。《能力》の恩恵によって動体視力が人の限界値をはるかに超えているGINの目には、すべてのものが緩慢とした動きに映った。
二、三度軽くジャンプする。ラストステップを強く踏み込む。GINの身体が、宙を舞う。空中で軽く一回転しながらRV車の頭上を飛び越えた。顔面を守りながら仰向けの状態で足からリアガラスをぶち破る。
『(何?!)』
滑り込んだ車内でGINを迎えた彼らのそんな母国語よりも、その表情が咄嗟に湧いた感情を鮮明に伝えていた。侵入時に蹴り込んだ足が、最後部にいたふたりを既に失神させている。残りは中央と前列に座る四人のみ。ガラスの破損で若干の漏れはあるものの、《気》を彼らへ集中させるには持って来いの密閉に近い状態だった。
『そんな、バケモノを見たようなツラすんなよ』
相手に解るはずもないのに、日本語で呟かずにはいられなかった。GINの瞳が鈍い濃緑の色を放つ。右の口角だけが、皮肉な笑みをかたどり引き攣った。
『金のために人を殺せるお前らの方が、俺よりよっぽど人間離れしたバケモノに見える』
GINの髪が総毛立ち、触れもせずに《気》を放つ。それが車内に充満し、一気に四人を絡め取った。
『(う……ぁぁぁぁっっっ!)』
『(てめえ! 逃げ切ったら俺を殺る気でいたのか?!)』
『(ふざけやがって!)』
GINが手を下すまでもなく、四人が互いに互いをとめる。ドライバーの男が真っ先にドアから飛び出した。
(ひとりくらいなら、零でもやれるだろう)
GINはそう判断し、空いたドライバーズシートへ身を移した。素早くステアを握り、倉庫から出る寸前でそれを右へとフルに切る。RV車が耳障りな摩擦音とともに、激しく左右にリアを振った。バラストと化した後部座席と隣の三人が、サイドで頭部を激しく打ちつける音を立てた。それと同時に車内に満ちていた彼らの思念は、糸がプツリと切れたように一瞬にして消え失せた。GINが左へステアを半回転させるまでの時間は、コンマゼロ五秒にも満たなかっただろうか。RV車は壁への激突を食らう前に、華麗な弧を描いて停車した。
『ふぅ……』
GINがステアリングにもたれてうつ伏せた途端、割れるような頭痛が限界を訴え出した。奥歯を噛んで堪えながら、どうにか頭を再び上げる。視界が多重に見える。ぼやけた景色にひと筋の光。GINの鼓膜が、かすかに響くサイレンの音を光の向こうからキャッチした。
『やべ……。仲間割れに見せないと……』
ピークに達した頭痛を抱え、どうにかドラバーズシートから身を滑らせる。
『ここで、寝て、らんない……じゃん』
光のもと、出口の扉に向かい、GINはこめかみに走る痛みに顔をゆがめながら重い身体を引きずった。
『零……も、巻かなきゃ……面倒くさい』
紀由のことしか考えていない女。GINのことを、彼の弱点だと思い込んでいる女。また余計なお節介を焼かれるのは、なんとしても避けたかった。
『く……そっ』
まばゆい外の光に目をくらませ、辿り着いた出口の扉に肩をぶつけた。その不甲斐ない惨めな自分が認められずに唾を吐く。
『動け。隠れなきゃ……。でないと、由良に……応え、られ、ない』
GINは自分を奮い立たせるとばかりに、由良の名前を口にした。
――風間由良になりたいって意味なのに。
彼女の思念を受け取った瞬間、罪悪感の前に湧いた想いは、確かに浮き足立つ温かなものだった。少しずつでいい。清めたい。こんな邪魔な《能力》をコントロール出来る自分になって、出来ることなら使わずに。それが叶わないなら、せめて自力で副作用を征したい。
だが、身体はその所有者を裏切った。
もつれる足が、ぼやける視界を徐々に斜めへと傾けさせる。倒れ込んでいる場合じゃないのに。ゆっくりと流れる景色に抵抗も出来ず、GINは「ちっ」と舌打ちした。
転倒の覚悟でこめた力は、無駄な力みに終わったらしい。不意にとまった流れる景色。耳許で囁く女の声と百合の香りが、GINの試みをたやすく阻んだ。
『なぜ私の忠告を無視したのですか。この事件はあなたの“ソレ”を測る高木さんの策略だったのですよ』
高木――未来の警視総監と噂される、類稀な情報収集能力を持つ警視正。紀由の憧れである高木徹の名が、どうしてこの場で出て来るのか解らなかった。
『さくりゃく? 高木さんって、どういう……だって指令は、本間が』
混乱した思考が、GINに支離滅裂な単語を羅列させる。引きずられた体が突然乱暴に落とされた。風の流れがとまり、光や太陽の放つ貴重な熱さえ感じられなくなってしまった。錆びた鉄の締まるような、鈍い音が一瞬聞こえた。転がされた床に触れれば、痛みに近い冷たさがGINの掌を凍らせる。コンテナのひとつに身を隠されたと察せられた。
『私は高木さんを裏切れない。あなたの自制が必要だったのに。どうして《能力》を使ったのですか。もう世話にならないと言い切ったくせに』
『だって、ミスった分を取り返さないと……紀由に追いつけな』
『今後ほかで取り返せるでしょう。なぜ今なんですか。あなたはその《能力》を高木さんに晒してしまったのですよ』
『晒す、って?』
GINの問い掛けとともに、零のスーツのラベルホール付近が淡い光を放った。暗闇の中でかすかに浮かぶ零の表情に緊張が走る。彼女は自分の唇に人差し指を一本立てた。
『土方です』
小さな声で、光を見つめて彼女が名乗った。彼女の耳にはコードレスのイヤホンがつけられているのだろう。声らしき音がGINの鼓膜もかすかに揺らすが、何を言っているのかまでは、はっきりと聞き取ることが出来なかった。
『はい、これが風間神祐の《能力》です。高木さんの仰っていた例の案件に役立つものでしょうか』
(!)
意味はまるで解らなかった。その中で確かな事実と認識したのは、零が初めて紀由以外の人間を優先した、ということ。そして。
『高木さんに……バラした、のか』
彼女の旭日章から放たれる光が消えると同時に、尖った声で詰問した。彼女へ伸ばしていく腕が震える。怒りからなのか、頭を締め潰すような痛みから来るものなのか、解らないまま彼女の襟に掴み掛かった。
『うら、ぎった、のか、きさま』
『必然です。いいから、もう黙って』
辛うじて口にした問いは、零のそれに封じられた。
(やめろ……っ)
零の力など借りたくない。そんな癒しなど、もう要らない。
腕力も、体力も、女である彼女に敵わないはずがないのに。跳ね除けようとする自分の腕が、まったく彼女に敵わない。
遠い世界の向こうでサイレンのけたたましい音が鳴り響く。それを聞いてもこめかみに痛みが走ることはなくなっていた。頭痛が和らいだのと入れ替わり、鋭い痛みが四肢に走り出す。肩に、背骨に、そしてアキレス腱が悲鳴を上げる。
『一時的に痛覚が麻痺するだけで、筋肉への過剰負荷は確実に掛かっているそうです。《能力》の出力をセルフコントロールしろ、と。高木さんからの指令です。GIN、聞こえていますか』
零の囁きに近い声が、裏切りではないと暗に伝えていた。高木が零やGIN自身よりも《能力》のことを知っていると、彼女のその言葉が臭わせていた。
『本間が今回の人員配置に疑問を抱いています。彼に覚られないようくれぐれも言動に注意してください』
当分はその心配もなさそうですが。そんな彼女の独り言が、GINの最後に聴いた声だった。問い詰めたい言葉、思い、高木や零の真意を何ひとつ得ることも出来ないまま、GINは意識を落としていた。
「――っていうのが、俺サイドの判ったことと、大雑把な推測。手掛かりになるかどうかは解らないけど、零が高木さんに巻き込まれた形、っていうか」
あのとき、零の口にした「高木を裏切れない」という意味は、今ならなんとなく解った気がする。彼女を土方組から保護した際、あれが《能力》だと知った高木に自分と同じ弱味を握られているからだと思われた。
「ふむ……。零がいつもと違うと思った具体的な根拠は?」
「あいつは意外と割り切りが早い方じゃんか。高木さんに飼われていたとしても、それならそれで割り切った対応をする。最初に俺の《能力》を利用して、現場からお前をバックアップしていこうって持ち掛けて来たのもあいつからだ。《能力》を利用して事件の早期解決を図る。そこは高木さんと利害が一致しているはずのに、なんであのときだけは、高木さんから俺の《能力》を隠そうとしたのかってところに矛盾を感じるっていうか」
GINの私見を聞いているのかいないのか。紀由はGINのそれには答えず、腕を組んだまま俯き、しばらく考え込んでいた。
「何かが、足りんな」
「は?」
溜息を零して煙草に手を伸ばした紀由は、間の抜けたGINの疑問符に段階を踏んだ説明を述べた。
「引き継いだファイルの半分近くが、手書き資料をスキャンしたものだ。つまり今のシステムがない古い時代から《能力》者について組織が把握していたということになる。YOUにデータファイル化を頼んでいるが、ナンバリングの抜けが散見されるらしい。高木さんが俺には隠しておこうという意図なのか、紛失したのかは不明だが。ただ、把握した限りでは、現在の四人と特定出来ないまでも、存在自体は組織が把握していた。現在の四人を特定したのが高木さんだとして、GINをどのルートから特定したのか、お前から聞けばわかると思ったのだが、やはり零に直接当たるしかないかな」
苦々しげに複雑な笑みを零す紀由に対して疑問が湧いた。彼にしては効率の悪いやり方だと感じたからだ。
「なんだ、そっちを先に当たったんじゃないのかよ」
「どうも彼女には敬遠されているようなのでな。疑問の解消という個人的なエゴで、彼女に余計な不快感を与えるのは遠慮すべきかと思って訊いていない」
「……」
返す言葉が見つからなかった。紀由の的違いな結論とその対応が、GINに零への同情を誘った。
「まあ、それは置いといて、だ」
紀由が話を戻すとばかりに煙草を揉み消し視線をGINへ戻す。
「爆窃団の案件、あれで見たお前の《能力》が、高木さんを藤澤会事件の実行に動かしたというのは確かなようだな」
その事件名に、ふたり同時に眉をひそめる。
「高木さんは俺よりお前を、それ以上に零を信頼していたということか、と当時は口惜しい思いをしたが」
感情を一切排除した、淡々と響く冷たい声。任務でもなく、単なる思い出話でもない、別の思惑が彼の声から感じられた。
「高木さんがお前を藤澤会事件にかませた理由は、聞いているのか」
それは問い掛けではなく、尋問を意味していた。
「なんらかの理由で俺を巻き込まないという目論見が高木さんにあったのであれば、あの事件の捜査本部に俺が加わる可能性を考慮し、別の対応を考えたはずだ。ファイルだって俺ではなく、零に届けたはずだろう。なのに、あとを俺に託した。高木さんの真意が、まだ掴めない。俺がすべきことがなんなのか、未だに把握出来ていない。あの事件の現場でお前は何を見た」
真偽を見定める視線が、GINに絡みつく。意図せず喉が上下に動いた。背中に嫌な汗が伝っていった。
「……高木さんと、海藤辰巳の……最期の、思念」
GINのかすれた声が、消え入りそうな音で零れ落ちた。
海藤辰巳――藤澤会系暴力団、海藤組次期組長候補にして藤澤会の新若頭。警察組織と対立していた存在。高木が執拗に追い続けて来た、海藤周一郎組長の息子。そしてなにより海藤辰巳は、あの事件で高木の心臓を撃ち抜いた男の名前だった。
「事件当時、海藤辰巳が協力者だという話はお前から聞いた。彼を保護隠蔽するのが高木さんから託された極秘ミッションだったということも。だが、俺にそれを隠した理由が解らない。もし俺が当時知っていれば、辰巳も高木さんも、無駄死になどしなくて済んだかも知れないのに。なぜ隠す必要があった。それが本当は、俺に託そうとした一番のネックではなかったのか?」
たたみ掛けるような詰問に、後ろめたさを隠せない。あの時GINが動けなかったがために、誰ひとり助けられなかったのは事実だ。
「……ごめん」
問いの答えになっていないGINの謝罪は、紀由にあっさりと切り捨てられた。
「……見せろ」
「え、や、あ、でも」
「お前も高木さんが隠した理由を知っていると言いたげなリアクションだな」
「ちが」
GINの零し掛けた否定の言葉が途中で阻まれる。差し出された紀由の右手と、浮かんだ苦笑が黙らせた。
「お前がこの五年で少しは成長したように、俺も俺なりに時を重ねて来ているつもりだ。お前に心配されるほどやわじゃない。……だから、見せろ。高木さんの、胸の内」
「……うん」
GINはまだ少しためらいを残しつつも、右手からグローブを外して紀由のそれを握り返した。