晴天の霹靂と青年の辟易
「残像が残想を呼んで、回想」を受けて
その日が大きな転換点であったことは間違いない。
大学一年生の、初夏の出来事だ。二限目が終わって「さぁ、お昼ご飯でも買いに行こうかな」と生協で売っている絶品・たらこチーズパンが焼き上がる時間のことを考えながら、すぐ近くの別キャンパスまで歩いていたときのことだ。
誰かと待ち合わせでもしているのだろうか。校門のすぐ側でこちらに背を向けて立っている人影が見えた。その人は私の進行方向上にいたので意識しないというのは土台無理な話だったけれど、そういうことを除いても妙に私の意識の上に引っかかった。その青年は五月末の鮮やかな晴天の下で、白い薄手の長袖に濃い青のジーンズといったシンプルな装いで、黒いリュックを右肩に引っ掛け右足に重心をかけて腕を組んでいる。見たところ大柄で、遠近法を加味した上でも背は高いようだ。髪はパーマというほどではないが少し癖っ毛でボリュームがある。何よりその堂々たる佇まいにはどこか目を引くものがあった。……と思ったが、よくよく見ると微かに頭を動かして辺りを見回すような仕草をしている。右、左、右。腕を組み替え足の重心を移してまた見回す。左、右、左。そんな落ち着きのなさを認識した瞬間、不思議と私のなかに湧き上がってきたのは親近感だ。というより、知っている。え、あれって葛城くんじゃないの。そう気づくまでには一秒も掛からなかった。
私の両眼は彼を一風景として処理することを拒み、海馬から引っ張り出してきた記憶と目の前の現実との照合を始める。葛城昭人、私のかつての同級生。中学二年生の時に同じクラスだった生徒だ。どうやら同じ大学らしいということは風の噂で聞き及んでいたけれど、こうして実際に見かけるのは初めてのことだった。私は驚きのままに軽く瞬いてから目を見開き、ふわっと自身の白目に黒い虹彩を浮きあがらせて——そのまま歩調を速めた。速めて速めて……どうしようか、なんて考える間もなく接近して、その勢いのまま「あの」と明確に発声する。
「——もしかして、葛城くんですか?」
口はつぐむことを拒否した。
「はい、葛城昭人です。あなたは……」
「あ、私は」
「いや、ちょっと待って。分かる」
「えっ」
咄嗟に名乗ろうとした私に対し右手の掌を突き付けることで静止。かと思えば、その手をすぐさま顎に当てて考えるポーズをとり人差し指の第二関節から先を小刻みに動かしている。「はい、葛城昭人です。」だなんて開口一番に軍人のような口上を述べた彼に圧倒された……次の瞬間にはもう黙らされてしまった。まったく鳩に対して豆鉄砲三発を連射するくらいの勢いである。とはいえこっちも急に話しかけたのだからしょうがない。
とりあえず私はこのスピード感を懐かしむ方向に舵を切り、葛城くんを大人しく待つことにした。そうそう、こんな風に我が道を征く!と言わんばかりに堂々とマイペースに振る舞うのが葛城昭人という人物だった。あくまで数年前の記憶に基づいた認識ではあるけれど。
ぱちんっ、と指を鳴らす音が聞こえて「……思い出した!」と葛城くんが顔を上げる。心なしかテンションと表情の明度も上がっている。閃いた時に実際に指を鳴らす人間を見たのは人生でこれが二回目だな、と私は思った。
「春咲さん、春咲れんげさんですね。いやあ、久しぶり」
「はい、春咲れんげです。良かったぁ、憶えていてくれたんだね」
「そりゃあもう。何かと印象的だったからね。いやほんと、変わらないなあ君は」
幸いにも私の存在は記憶されていたようだったので、嬉しいのと安心したのとで私はふんわりと微笑んだ。多分彼は気づいていないだろうけれど、ついでに先ほどの葛城くんの挨拶を真似しておいた。そして確実に彼は気づいていないが、外見の話をするならば私は中学時代には長かった前髪を切っている。多少は変わっているんだから、と思いつつも指摘するほどではないので黙っておいた。そこまでを大学一年生の男子に求めるのは酷であろう。十八歳、もしくは十九歳なのである。
「それにしても久しぶりだねぇ。中学を卒業したときが最後だから……三年ぶりとか?」
私は視線を右に泳がせながら首を傾げてみせる。今私たちは大学一年生だから、正確には三年半といったところだろうか。
「そう、だね。高校時代は一度も会わなかったわけだから、そのくらいか。いやあ...そう思うと感慨が。時が経つのは速いな!春咲さんはあれ、関西の高校でしたっけ」
「うん、大阪だよ。でも中学の同級生は殆どみんな関東の高校に行ったよね。葛城くんは誰かと会ったりしてた?」
「うぅん、そうだな……あぁ、武ちゃんとか寺井とはちょくちょく!あの、倉敷先生って分かるかな」
「あぁ、あの家庭教師の先生ね。うん、分かるよ。そっか、そこ繋がりかぁ」
氷解、という言葉があるけれど旧・級友との再会というドラマティックな展開はそれだけでお互いの警戒心を緩めてその懐を大きく広げるものだったらしい。正直な話をすると、中学時代は葛城くんとそれほど仲が良かったわけでもなく当時は単にクラスメート(あるいは同学年)という認識に過ぎなかった。それでも何しろ小規模な学校だったことと、葛城くん自身が何かと目立つ人物だったのとで一方的に抱いた印象は数知れず。とはいえ顔見知り程度の関係性だったと思う。中学二年生の時に一度だけ同じクラスになったことがあったが、何しろ当時はコロナウイルスの流行で一学期はオンラインと分割登校で二学期は通常、三学期は完全オンラインという有り様だったのだ。
それから、これを縁と言って良いのかは分からないけれど、私たちには共通の友人がいた。彼から葛城くんについて又聞きした話は今でも幾つか覚えている……けれど、それも三年半前の話になる。小学生の頃に交換したプロフィール帳に書いてあったことのどれだけが、中学生に持ち越されるだろうかという話だ。それに、葛城くんは彼に見せるのと同じような顔を私には見せないだろう。私では引き出せないというか。すなわち、何が言いたいのかと言えば。
葛城昭人は佐野川冬馬の親友である。
中学一年のときに佐野川くんと葛城くんは同じクラスになり、それ以降はあまりにも仲が良過ぎるという理由で離され、それぞれ中学二年生で私が葛城くんと、三年生で佐野川くんと同じクラスになったのだ。私は佐野川くんとは何故か馬が合って、同じクラスになった中学三年生の頃にたいそう仲良くなった。彼とは帰る方向が同じだったことと、同じ塾だったこと、それからコロナ禍に圧迫された受験後の強制的な引きこもりで超インドアな余暇に通話ばかりしていたこともあって、一年にも満たない間に随分と話を重ねた気がする。あの濃密な時間は自分のなかで何処か特別な位置付けになっている。だけど、佐野川くんとは高校二年生の時に音信不通となってしまって、それっきりだった。
その出来事から約一週間後のことだ。
私と葛城くんは大学で待ち合わせをしていた。ちょうどふたりとも二、三限が空きコマの日があったので「どうでしょう。折角ですからお昼ご飯でもご一緒に」という流れになったのだ。中学の頃からすれば全く考えられない組み合わせである。スイカと大福を組み合わせるような斬新さというか。初見の人がいたら「本気で言っているんですか?」と驚くような。ちょっと私でも状況に対する理解が追いつかない。ちなみにスイカ大福は私も食べたことがない。人生で一度くらいは挑戦してみたいものだ。もしかしたら堪らなく美味しいかもしれない。
私はなんだか喉が渇いてきた。あの赤い果肉に齧り付く自分を想像し、歯を立てた途端にシャックリと弾けて溢れ出す甘い汁のことを思った。緊張しているんだか気楽に構えているんだか、自分でもよく分からない。
待ち合わせ場所はベタに大学の広場に鎮座する創設者の銅像の前だった。私は少し早めに着いてしまったのでその銅像が見える号館のラウンジに入った。法学部棟である。ここは新しくなったばかりで綺麗なラウンジなので、私も入学後すぐに気に入って足繁く通っている。ダークオークのシックな内装が眼にやさしい。
銅像前という本来の待ち合わせ場所とは違うけれど、何しろ日差しが燦々と降り注いでいる。六月にしては異様な気温だ。室内に避難するのは人間の自然な習性だから許してね、と葛城くんには謝っておいた。
そんなわけで広場が見張れるように窓際の席を陣取って、小説を広げる。スマホを弄って待っているよりかは幾分か印象が良いと思ったからだ。特に葛城くんからの好感度はこっちの方が高いだろうな、という打算的思考があったことは否めない。記憶が正しければ、葛城くんは歴史好きで政治好きで議論に強く、熟語がスラスラと口から出てくるような人物である。
五分もするとブルっと机上のスマホが震え〈ひょっとしてあなたは今 8号館の窓際で本を読んでいますか〉というメッセージが通知に浮かび上がる。ひええ怖い、メリーさんだ。そうやってビクッと反応した後、思わずにやっと笑って顔を上げる。銅像の手前から葛城くんがずんずんと大股で堂々と歩いてくるのが見えた。若干肩が内巻きになっているところまで含めて、中学時代の面影が色濃く残っている。相変わらず遠目からでも分かりやすいことだ。しかし、見つかっちゃったな。障子に耳あり壁にメアリーというか。いや違うな?「どこで誰に見られているか分からないから油断するな」という意味のことわざはあったっけ、と余計なことを考えた。そしてそれを中断する。
「おはよう。いやあ、悪いね、遅れて」
「いいんだよ、私が早く来過ぎた」
「っはは……それ、何の本読んでるんです?」
そうして葛城くんは私の左隣に腰を下ろし、左肘を付いて身体をこちらに向けた傾聴の姿勢を取った。まあるい眼鏡をかけているのは相変わらずで、天気が良いせいもあってそれは少し反射していた。まっすぐにこちらを見つめてくる癖は変わらないのだな、ちらりと見える瞳を伺いながら思う。実に素直で真っ直ぐで勢いのある人である。嫌味がなくて「この人を憎め」と指示されたら困るだろうなぁと思うランキング第五位くらいには喰い込んでくる。というか何だ?その悪趣味かつ限定的なランキングは。
お互いにまだ若干昼食には早すぎる時間ということで合意したので、少しだけ雑談をする。本の話、教科書代が意外に高かった話、大学の授業の話、サークルの話、高校時代の話、かつての級友たちの現状について。佐野川冬馬の話題は欠片も顔を見せなかった。
葛城くんならば、と思う。葛城くんならば佐野川くんとまだ連絡が取れているのではないか。彼に訊けば連絡先を手に入れることが出来るのではないか。何度も既読無視されたまま終わった、あの後味の悪い結末を上から塗り替えることが出来るのではないか。ふたりはあれほど仲が良かったのだから、もしかしたら今も会っているのかもしれないのではないか。
私のスマホでは未だに「メンバーがいません」と題されたトークルームがピン留めされている。他にもいくつか固定されたトークルームがあるなかで沈殿したそれは消化不良の塊みたいなもので、私のなかにある未練の象徴だ。いくら混ぜても溶けてくれないのは、時間が経って冷え切ってしまったからだろうか。
しかし、だ。それを踏まえた上でも、気をつけなければいけない。|相手を利用することを考えるな《・・・・・・・・・・・・・・》。佐野川くんに繋がる糸口としてしか葛城くんを認識しないということは断じてあってはならない。相手に対して失礼だし、傷つけることになる。少なくとも悟られてはいけない。打算的な目線を無遠慮に相手に向けるな。高校時代にそれで大失敗をしたんだから。
私は自戒を込めて何度も念じた。利用するつもりで接するな。誠実に相手を見据えるんだ、その奥にある自分の願望じゃなくって。相手に対して失礼のないように接しろ。焦るな。佐野川冬馬と仲が良いことは葛城くんのほんの一要素に過ぎなくて、だからそれに囚われてはいけないのだ。私はその人が持ちうる情報じゃなくって、その人自身を見るべきだ。
私は気持ちを改め、努めて明るい声音で「お昼どこ食べに行く?」と葛城くんに問いかけた。
その後、私たちは楽しくランチを食べて(大学近くの中華料理屋で滅法安い回鍋肉を食べた)それからカフェに移動して二時間弱の間話をした。話題は一瞬たりとも尽きなかった。私たちは歩きながらは勿論、私が先にドアを開けてそれを支え、相手を通そうと紳士的に振る舞う時でさえも「どうぞ」「ありがとう。いやしかし、入学時から学科を選ばないといけないっていうのはなかなか難しいところがあるんだよな」「やっぱり?うちは二年の終わりに選択することになってるから多少は気が楽だよ」なんてやり取りがドアがゆっくりと閉まるまでの間に差し込まれている。油をたっぷり差したばかりの機械のようでもあり、途切れることなく川に注ぎ続ける滝のごとくでもある。矢継ぎ早な会話だ。
そんなことを続けているうちに、にわかに葛城くんが「いやぁ、しかし凄いな。君は」とその声に感嘆を滲ませて私を賞賛した。思い当たる節がなくて「何が?」と目を見開いて問い返してしまう。ちょうどコーヒーを三口ほど飲んだあたりの出来事だったと思う。私たちは黄緑色のゆったりとしたソファに座って向かい合っていた。古くからある雀荘を改装した二階建てのカフェで、私たちが案内された二階には他に人がおらず静かだった。有名なジャズが流れていて、それがJust the two of us〜と歌っていたので座ったときに私は少しだけ笑った。
「いや、『春咲さんは会話が全く途切れない』っていうのは佐野川から聞いてたんだけどさ、正直に言って『流石にそんな訳はないだろう』って思ってたのよ。大袈裟なんじゃないかって。でもさ、本ッ当に……途切れないんだな!」
そう言って彼は「ははははっ」と一人がけのソファの背もたれに身を預けるようにして仰け反り、豪快に笑った。どこかの壮年の社長がやりそうな仕草だ。普段の私だったら「なにそれ」と釣られて笑っていただろう。だけど、今はそんな気にはなれなかった。
佐野川、という言葉が出て来たのは今日初めてのことだった。私が敢えて触れないようにしていたそれを、葛城くんはいともアッサリと鷲掴みにして議題のテーブルに置いたのである。
「えぇええ…それって褒めてる?というか、佐野川くんが...そんなこと言ってたんだ」
「ああ。脈々と話題が紡がれていって、ひとつの話からまた別の話が派生するみたいなこと言ってた。あの頃は佐野川とよくディスコードで通話とかしてたからなあ」
仲良かったもんね、と相槌を打ってから「葛城くんさ、佐野川くんとまだ連絡とってる?私さ、音信不通になっちゃって」と言葉を差し込んだ。佐野川くんに再び会う糸口があるのかもしれないと思うと、どうしても気が急いてしまっていけない。葛城くんは眉根を寄せて腕を組み私の言葉に応えた。
「いやあ、佐野川か...俺もさ、しばらく連絡取ってないんだよ。あいつなんかアカウント消えててさ。気づいたらいなくなってんの」
「そう!個人チャットが『メンバーがいません』になっててさ、なんか...虚しかったんだよね」
「まぁ、あいつ中学んときからそういう所あるからなあ。佐野川らしいっちゃらしい。うわぁー!しかし、佐野川か...なんか久しぶりに会いたくなってきたわ!」
そう言うと葛城くんは身体を仰け反らせて右腕の肘を左手で支えて、右手の指をこめかみに当てた。それからパッとその態勢を解き、座った椅子の肘置きを右手の人差し指でトントンと素早く。それは葛城くんが考えているときの癖だった。変わらないな、と思った。中学のときは空中に縦書きで文字を書いて思考を整理していたこともあった。今でもやるんだろうか?
「よし。うん、久しぶりにあいつに連絡取ってみるわ!連絡先復旧できたら春咲さんにも連絡するね」
トントン、と肘掛けを指で叩くのを辞めた彼はキッパリとそう言い切って、私の顔を見てニッと笑った。その素直な心と呼応するような真っ直ぐな行動力が心底羨ましくて、何より眩しかった。遠慮するような隙間もないくらいに、ふたりは仲が良いんだろう。というか、佐野川くんのアカウントが消えたのに連絡できるんだろうか?何か他に当てがある?かつての友人にいきなり連絡するのって怖くないの?
そういう疑問は一旦、全部呑み込んだ。「まぁどっちにしろ葛城くんに任せるしかないんだから」と思うと何だか肩の力が抜けたのだ。第一、連絡が取れるとも限らない。騒ぎ立てない方がいい。そっちの方が疲れないんだもの。そう決めた私は脱力してソファの背もたれに身を預けた。喉が渇いていた。
それから二日後のことだ。
ぽん、と履歴上は気軽に投げられてきたように見えるそれは見慣れぬアイコンの下に「ふじつぼ」の名前を従えていた。〈これ、佐野川の連絡先 渡しとくね どうぞ!〉と葛城くんの追記が添えられている。
そんな指摘を受けなくても、分かった。「ふじつぼ」という中学時代から変わらないそのユーザーネームを目にした途端、怒涛のように押し寄せた感情。その濁流に飲み込まれて、私は身体が動かなくなったような錯覚に陥った。あの日々が楽しかった、一緒に歩いて帰っていた、佐野川くんの言葉が好きだった、会いたかった、さみしかった、悲しかった、勝手に消えたことに腹が立った、虚しかった、諦めていた、何度も思い返していた。
でもそれは墓参りのようなものだった。まさか埋葬した存在が墓から飛び出してくるなんて思えるわけがない。どうしよう、連絡する?三年半ぶりに?彼はそれを望んでいるのだろうか?そもそもあの薄情者は「春咲れんげ」を憶えているのだろうか?嬉しくて怖くてビックリしてそわそわする。
こんな洪水のような感情の波のどこを汲み取って味わえばいいのかが私には分からなかったから、頭からびしゃっと丸ごと被るしかなくて。そうしてびしょ濡れになって震えている。これは、はやく、乾かさなきゃいけないのに。私は嬉しくて震えているんだろうか、それともこれは恐れ?怒り?不安?
とりあえずは葛城くんに〈ありがとう〉とだけ送ってトークルームを閉じた。
連絡手段の復旧は絶望的だと諦めていただけに嬉しさよりも戸惑いが勝っていた。葛城くんとの再会から佐野川くんの連絡先の入手。これらの出来事は、まさに晴天の霹靂だった。
まだ動揺している。何かしないと落ち着かない。ピン留めされたトークルームにある「メンバーがいません」の文字とその下に薄く表示されている「生きてる?」の文字が目に入った。どうしようもなく胸が痛くなって、アプリを落とした。
止まっていた時間を再び動かし始める、その権利を私は手に入れた。ずららっと並べられたドミノみたいだ。倒されるのを待っているドミノたち。いちばん手前に立っているのを、私がついっと人差し指で優しく押し出してしまえば、あとは連鎖的に倒れていく。例えば、送られてきた「ふじつぼ」のアイコンを押して、友達追加のボタンを押して、トークルームを開いて、「久しぶり」って送って、それから.……会うんだろうか?会えるんだろうか?佐野川くんに?どんな顔をして!!!
興奮を収めるために何かに縋りたくて、とりあえずは事実の確認をと携帯の計算機アプリを開いた。中学を卒業してから三年半、音信不通になってから二年弱。私の人生が今のところ十八年続いているから...と考えて概算する。(3.5÷18)×100=19.444...どうやら人生のおよそ19.5%の空白だそうだ。三年半。およそ19.5%だ。高校生時代の丸ごと。
それだけの時間があれば、人間はどこまで変わるだろうか。変わってしまうだろうか。私はぼんやりと部屋の白い壁を眺めた。私が会いたいと願い続けてきた彼は「あの頃のあの人」だ。ぞりぞり、と紙やすりで肌を撫で上げられるような寒気がした。
次に葛城くんと会ったのは七月末だった。夏休みに入る前に——つまり期末試験終わりに会えないかしらと私が連絡したのだった。ちょうどお互いの試験最終日が同じ日だったので、待ち合わせてまた話をした。大学近くの香港料理屋で台湾牛肉麺を食べた。青緑色の陶器食器に青色の壁が映えて綺麗なお店だった。
麺を啜り全ての具材を嚥下した後に、私はれんげでそっとスープを掬った。持ち手の先をくいっと上に持ち上げて喉に流し込むと、八角の効いたあたたかいスープが身体の芯を温めていくのを感じる。ほお、その熱を逃すように溜め息を吐いた。そうして余韻が消えかかりそうな瞬間に「ごちそうさま」と言って手を合わせる。
「えらいな、ちゃんと『ごちそうさま』って言うんだ」と葛城くんが言った。
「君も言ってるじゃん」と私が言い返すと、葛城くんがすかさず口を開く。
「それはそうなんだけど、俺は意識してやってるんだよ。やはり、教養人として振る舞う為には必要だよなあと思って。だけど春咲さんのは自然というか、こう、身についてる感じがするんだよ。君は『いただきます』も忘れないからな」
「ふうん。まぁ、ありがとう」と私は彼に笑いかけた。照れくさかったので、誤魔化すようにおしぼりで口元を拭ってから「そういえば」と先んじて接続詞を置く。言っておきたいことがあった。
「佐野川くんの連絡先、ありがとうね」
「あぁ!そうそう、別のアプリで繋がってたからさ。良かったよ」
改まった私の感謝に葛城くんはあっけらかんと返答する。それを受けてから、私が「実はまだ連絡出来ていないんだけどね」と、はにかむように告げると葛城くんは「まじ!?」と目を見開き、身体を前に乗り出した。
「俺もう佐野川と二回くらい呑みに行ったぜ」と、何でもないことのように言ってのける。
「呑み!?え、二回?...会ったの?」と私は素っ頓狂な声をあげてしまって、慌てて左手で口を塞いだ。君らまだ十九歳だろ、という言葉は気道に押し戻した。二十歳を待たずに飲酒している大学生なんてそれなりにいて、強要するのは御法度とはいえども呑みたがる一年生を咎めはしない……ということが暗黙の了解として大学生社会には横たわっていた。完全に飲酒禁止の場なんて大学公認サークルの新歓企画くらいじゃないだろうか。
「まぁね。中学の頃から佐野川とは『呑み行こうぜ』って言ってたし」
「へええ。君らって昔から、おじさんくさ...……あ、いや大人びてたもんなぁ」
「はっはっは、いいよ。気にしないでくれ」
申し訳なさげに言い直した私の失言を、葛城くんはそう言って笑い飛ばしてくれた。
「というか、春咲さんの方から連絡してやってよ。佐野川もきっと喜ぶと思うけどな。あいつ、人に声掛けるのとか苦手だしさー」
「うーん、ちょっと気まずい状態で音信不通になっちゃったしさ。私が連絡しても、面倒くさがられるんじゃないかなって。そもそも、三年経って気づいたんだけど、佐野川くんが私に与えた影響って結構大きくってさ……」
そうして言葉を詰まらせた私を見て、葛城くんは「それさ、」と言いながらパチンと右手の指を鳴らした。
「佐野川も同じことを言ってたんだよ。だから君らは同じ不安を抱えてるってわけ。っていうか杞憂?」
そんな葛城くんの言葉に「そうかもしれない、ただ、色々と複雑なこともあってね……」と私は言い訳を重ねる。
それでも「んー、だけどさ、やっぱり会ってみないと分かんないじゃん?ひとりで悩んでいてもしょうがないだろ、関係性の話なんだから」と正論を飛ばされて私は「うっ」と言葉を詰まらせた。「ぐう、」とでも発話するしか抵抗の術はない。
そんな私の様子を気にも留めず、葛城くんは両腕を組んで左下を見つめながら「それにさ」と言った。それから少し間をあけ、顔を上げて私の目を見て続ける。
「もうお前らの激重感情は聞き飽きたんだって...」
なんか違う話しようぜ、と青年は辟易した。




