第9話 清浄魔法
魔法名:清浄魔法
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説明:穢れを除去する。
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記録(一):
娘の熱が下がらない。
三日前から寝込んでいる。額に触れると火のように熱い。汗が止まらない。水を飲ませても、すぐに吐いてしまう。小さな体が震えている。目が虚ろだ。
私は医師だ。この村でただ一人の医師だ。薬草の煎じ方も、傷の縫い方も、骨の接ぎ方も心得ている。だが、この熱病には何も効かない。この冬だけで、すでに五人が同じ熱病で死んだ。
隣の町の魔術師から、清浄魔法という術を教わった。穢れを除去する魔法だ。病とは穢れだ。体の中に入り込んだ悪いものが、体を蝕んでいる。それを除去すれば、病は治る。そのはずだ。
娘に魔法をかけた。
穢れよ、去れ。悪いものよ、消えろ。この子の中にある、あってはならないもの全てを、取り除け。
娘の体が光った。淡い光が全身を包み、すうっと消えた。
熱が下がった。
嘘のように。一瞬で。額に触れると、冷たいくらいだ。汗が引いて、呼吸が穏やかになって、目が澄んだ。娘が「お父さん」と言った。三日ぶりに名前を呼ばれた。
泣いた。
効くのだ。この魔法は効くのだ。
翌日から、村中の病人に清浄魔法をかけて回った。熱病の老人。腹を下している子供。傷が膿んでいる猟師。全員の穢れを取り除いた。全員の病が消えた。
村は活気を取り戻した。私は英雄扱いされた。照れくさかったが、嬉しかった。医師としてこれ以上の喜びはない。
隣の村からも呼ばれた。その隣の村からも。馬に乗って各地を回り、片っ端から清浄魔法をかけた。疫病は消え、傷は清まり、膿は消えた。
一ヶ月で、三つの村から病が消えた。
異変に気づいたのは、二ヶ月目だった。
娘が、また体調を崩した。
今度は熱ではなかった。食べ物を受け付けないのだ。何を食べても腹を下す。パンも、粥も、果物も。水は飲めるが、食べ物が体を通り抜けていく。
清浄魔法をかけた。穢れは見つからない。当然だ。前に全て除去したのだから。
なのに、治らない。
同じ症状が、村のあちこちで出始めた。清浄魔法をかけた人たちが、次々と食べ物を受け付けなくなっていく。
畑にも異変があった。作物の育ちが悪い。土が死んでいるかのように、何を植えても根が張らない。堆肥を入れても効果がない。まるで土から何か大切なものが抜け落ちてしまったかのように。
チーズが作れなくなった。牛乳がいつまでも牛乳のままだ。パン生地が膨らまない。漬物が漬からない。
何かが、おかしい。
清浄魔法が何を除去したのか、私にはわからない。病の穢れを除いたはずだ。悪いものだけを除いたはずだ。
なのに。
娘がまた寝込んでいる。今度は別の症状だ。小さな傷が治らない。昨日転んで擦りむいた膝が、いつまでも赤く腫れている。体が自分を守れなくなっているかのように。
清浄魔法をかけた。何も変わらない。穢れは見つからない。体の中に悪いものはない。悪いものは全て除去した。なのに体は弱っていく。
何を間違えたのだろう。
私は確かに穢れを除いた。体の中にあってはならないもの全てを。全てを。
あってはならないもの。
全て?
もしかして──あってはならないものの中に、あるべきものまで含まれていたのだろうか。
でも、私は穢れを除くよう命じたのだ。穢れだけを。悪いものだけを。
何が穢れで、何が穢れでないのか。それを決めているのは、誰なのか。
私か。
魔法か。
娘の手を握っている。小さな手だ。冷たい。
ごめん。ごめん。お父さんが治すから。
治し方がわからない。
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記録(二):
この国は穢れている。
異国の言葉が街に溢れている。異国の服を着た者が市場を歩いている。異国の神を祀る寺院が、我らの神殿の隣に建っている。異国の料理の臭いが路地に満ちている。
いつからこうなったのか。
祖父の時代には、この国は清らかだった。一つの言葉、一つの神、一つの民。それが正しい姿だ。美しい姿だ。
移民が増えたのは、前の王の代だ。あの愚かな王は国境を開き、異国の者たちを招き入れた。労働力が必要だと言った。交易が必要だと言った。文化の交流が国を豊かにすると言った。
嘘だ。
彼らは我らの仕事を奪い、我らの言葉を歪め、我らの子供たちを惑わせた。我らの娘が異国の男と歩いている。我らの息子が異国の神に祈っている。混ざっている。溶けている。我らが何者であるかが、溶けている。
清浄魔法を手にしたとき、私は天啓を感じた。
穢れを除去する魔法。これだ。これこそが、この国に必要なものだ。
まず、異国の寺院を浄化した。建物の中の異物を全て除去した。祭壇が消え、偶像が消え、異国の文字で書かれた書物が消えた。空っぽの建物だけが残った。
次に、市場を浄化した。異国の香辛料が消えた。異国の布地が消えた。異国の言葉で書かれた看板が消えた。
民が戸惑っていた。だが、すぐに理解した。理解しない者もいたが、それは彼ら自身が穢れているからだ。
私は範囲を広げた。
穢れとは何か。それは、あるべきでないものだ。この国にあるべきでないものだ。異国の言葉。異国の文化。異国の血。異国の思想。異国の記憶。
街が清らかになっていく。
朝、窓を開けると、聞こえてくるのは我らの言葉だけだ。市場に並ぶのは我らの作物だけだ。神殿には我らの神だけがいる。
美しい。
正しい。
何人かの顧問が進言してきた。やりすぎではないかと。交易が途絶え、経済が停滞していると。特定の技術を持つ職人が全ていなくなり、修繕ができなくなっていると。
些末なことだ。経済のために魂を売るのか。少し不便になったところで、清らかな国であることのほうが価値がある。
異国の者は減った。街からいなくなった。残っている者もいるが、清浄魔法の範囲を広げるたびに、一人、また一人と消えていく。消えていくという表現は正確ではないかもしれない。彼らの中の異物が除去されていくのだ。言葉が。記憶が。彼ら自身を彼らたらしめているものが。
最終的に、残ったのは空っぽの体だった。
だが、それは彼らが穢れでできていたということだ。穢れを除けば何も残らないということは、彼らには穢れ以外の何もなかったということだ。
そうだろう?
窓の外は清らかだ。一つの言葉。一つの神。一つの民。
祖父の時代に戻ったのだ。正しい姿に。美しい姿に。
私は、正しいことをした。
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あとがき:
清浄魔法は「穢れ」を定義し、除去する。問題は、何を穢れとするかの基準が術者に委ねられている点にある。
記録(一)。医師は「病」を穢れと定義した。清浄魔法は忠実に穢れを除去した。しかし、生物の体内には病原体以外にも無数の微小な生物が共生している。消化を助けるもの、免疫に関わるもの、外敵の侵入を防ぐもの。これらは「あるべきもの」だが、外部から見れば体内の異物であり、術者が「あってはならないもの全て」と定義した以上、清浄魔法の除去対象に含まれた。土壌も同様だ。土は微小な生物の集合体であり、それを除去すれば土は死ぬ。
記録(二)。指導者は「異文化」を穢れと定義した。清浄魔法は忠実に穢れを除去した。言語、記憶、思想、人格。異文化に属する全てを除去すれば、その人物を構成するものは何も残らない。
同じ魔法が、善意と確信の両方で世界を壊した。
魔法が危険なのではない。定義が危険なのだ。
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会話:
「…………」
「…………」
「……二つ目のほう、きついっす」
「そうだな」
「一つ目は、事故なんすよ。悪気がない。お父さんが娘を助けたかっただけで。でも二つ目は──」
「二つ目も、本人は正しいことをしたと思っている」
「それが一番きついんすよ。最後まで満足してるじゃないっすか。『美しい』とか言ってるじゃないっすか。記録って追体験だから、あの満足感が流れ込んでくるのがもう……」
「記録魔法の残酷なところだ。追体験した者は、術者の感情を自分のものとして感じる。あの指導者の確信を、お前は一時的にだが自分の感情として味わっただろう」
「……気持ち悪かったっす。わかりたくなかった」
「わかる必要はない。記録は記録だ。体験と理解は別のものだ」
「……はい」
「一つ目の記録について話そうか」
「……あ、はい。えっと、あの、体の中の微生物のことっすよね」
「そうだ。お前の知識で補足してほしい」
「えっと……地球だと、人間の体の中には何十兆っていう菌が住んでるんすよ。腸内細菌って呼ばれるやつで、食べ物の消化を助けたり、悪い菌が増えるのを防いだり、免疫──体を守る仕組みに関わったりしてるんす。これがいなくなると、食べ物がまともに消化できなくなるし、体を守る力も落ちる」
「記録の症状と一致するな」
「一致してるっす。あと土にも同じことが言えて、土の中にはものすごい数の微生物がいて、植物の栄養を作ったり、有機物を分解したりしてる。これがいなくなると土が死ぬ。チーズとかパンとか漬物が作れなくなったのも、発酵に必要な菌が全部消えたからっすね」
「つまり、病の穢れだけを除こうとして、体や環境を維持するために必要な存在まで除去してしまった」
「そうっす。あの医師のお父さんが言ってた『何が穢れで何が穢れでないか、それを決めてるのは誰か』って──あの問い、すごいっすよ。自分で答えにたどり着きかけてる」
「だが、答えに届く前に記録が終わっている」
「娘の手を握ったまま……」
「…………」
「賢者様、あの医師のお父さんは、その後どうなったんすか」
「記録は本人の体験しか残さない。その後のことは記録にはない」
「……そうっすか」
「ただ、世界が修復された後の話であれば──彼は元の時点からやり直している。娘の熱は出ていない。清浄魔法もまだ存在しない。何も起きなかった世界で、普通の医師として暮らしているだろう」
「……覚えてないんすよね」
「覚えていない。誰も覚えていない」
「賢者様だけが」
「……次の記録に移ろう」
「……はい」




