第8話 保温魔法
魔法名:保温魔法
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説明:温度を一定に保つ。
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記録:
今年の冬は、長すぎた。
雪は本来、冬のものだ。春になれば緩み、川へ流れ、畑を湿らせる。そういう順番で世界はできているはずだった。
だが、その年は違った。
二月が終わっても雪は止まなかった。三月になっても、四月になっても、空は白いものを落とし続けた。屋根の上の雪は人の背丈を越え、道は掘っても掘っても埋まり、畑はどこにあるのかさえわからなくなった。
報告が毎日届いた。
北部の村で老人が凍死した。
東の川が底まで凍り、井戸を割って水を取っている。
南の港は氷に閉ざされ、入るはずの船が来ない。
牛が倒れた。
子供が熱を出した。
備蓄麦が残り少ない。
私は王だ。
王の仕事は、国を守ることだ。民を守ることだ。敵兵なら壁の外で止めればいい。盗賊なら吊るせばいい。飢えた獣なら狩ればいい。
だが冬は、剣で斬れない。
宮廷魔術師を呼んだ。
「国を暖めることはできるか」
老魔術師は、少し考えてから頷いた。
「局所であれば容易に。広域でも、不可能ではありません」
「どの程度までだ」
「そうですな……春の終わり頃の気温で固定することは可能かと」
その言葉を聞いたとき、胸の奥がわずかに軽くなった。春。土が緩み、子供が外へ出て、羊が草を食む季節だ。民にそれを返せるのなら、やるべきだと思った。
「他への影響は」
私は念のために聞いた。
老魔術師は首を振った。
「保温魔法は、対象の温度を保つだけです。作用するのは我が国の領域のみ。他国にまで影響が及ぶとは考えにくいでしょう」
私はそれを二度聞かなかった。
翌日、王都の中央塔から魔法を展開した。
最初に雪が止んだ。
次に、城の窓に張りついていた氷が水になって垂れた。石畳から白い霜が消えた。兵たちが兜を脱ぎ、驚いたように空を見上げた。人々が家の戸を開け、恐る恐る外に出てきた。
土はまだ黒く冷たかったが、凍ってはいなかった。
三日後、広場に露店が戻った。
七日後、子供たちが走り回った。
二週目には、南の畑に薄い緑が見えた。
人はすぐに笑う。昨日まで泣いていた者でも、暖かければ笑う。私はそのことを忘れていたのかもしれない。
人々は私を讃えた。冬を退けた王。春を呼んだ王。そう呼ばれた。
だが、春は我が国にだけ来た。
初夏、隣国から使者が来た。
彼はやつれた顔で言った。自国の北部で、例年にない寒波が続いている。麦が芽吹かず、家畜が痩せ、民が南へ流れている、と。
「我が国の魔法と関係があると?」
使者は慎重に答えた。
「断定はいたしません。ただ、時期が――」
私は宮廷魔術師に目を向けた。老魔術師は静かに首を振った。
「考えにくいでしょう」
使者を丁重に帰した。
夏、別の隣国から使者が来た。
今度は暑すぎると言った。川が痩せ、魚が浮き、畑が焼けていると。熱病が広がり、昼に外を歩けないと。
それも我が国のせいだと言うのか。
私は少し腹を立てた。こちらは冬から民を救っただけだ。自国を暮らしやすくすることの何が罪なのか。
秋、三つ目の国から報告が届いた。
季節が乱れているという。雪のあとに猛暑が来て、雨の季節が消えたと。作物の暦が役に立たず、鳥の渡りまで狂ったと。
会議を開いた。
宮廷魔術師団は、以前と同じことを言った。魔法は領内にしか作用していない。他国の異変は偶然か、もしくは元々あった気候の揺らぎだろう、と。
そうだろう。そうでなければ困る。
二年目の冬、国境に人が集まり始めた。
荷車を引いた農民。痩せた馬。毛布にくるまれた子供。彼らは柵の向こうから、こちらの土を見ていた。雪のない地面を。煙のまっすぐ上がる村を。凍っていない川を。
兵が追い返した。
押し返された群衆の中に、泣いている女が見えた。私は報告書のその一文を、読まなかったことにした。
三年目。隣国が宣戦を布告した。
理由は「気候的侵略」。
大仰な言葉だと思った。我々はただ生き延びただけだ。冬に殺されないようにしただけだ。暖かい国土から出る兵は強く、凍えた土地から出る兵は弱い。戦は有利に進んだ。勝てた。何度も勝てた。
そのことが、かえって事態を悪くした。
敗れた隣国のひとつが、同じ魔法を使い始めたのだ。
自国を守るために。
民を守るために。
冬から、飢えから、病から守るために。
その理屈は、よくわかった。よくわかってしまった。
二つの国が春を囲い込んだ。
すると、その外側のどこかが壊れた。
三つ目の国が続いた。四つ目も続いた。五つ目も。どこも同じ顔をしていた。善良な顔だ。自国民だけは守りたいという、ありふれた顔だ。
世界地図が、まだらになっていった。
暖かい国と凍える国が隣り合った。
穏やかな国と灼けた国が隣り合った。
その境目で風が捩れた。雲が裂けた。雨が壁のように降った。
国境を一歩越えるだけで、吐く息の色が変わる。
ある町では窓の左側に霜がつき、右側では果実が腐った。
ある橋では、中央で雪が降り、向こう岸では砂が舞った。
地図の線は元々、人間が引いたものだ。
だが、気候までそれに従い始めた。
ある日、城の窓から外を見た。
我が国は春だった。いつも通りに。空は青く、畑は緑で、羊飼いの笛が遠くから聞こえた。
だが国境の向こうの山は、赤く光っていた。
雪があるはずの峰から白が消え、剥き出しの岩が夕日に焼けている。あれは猛暑だ。あの国では、山の雪さえ持たないのだ。
反対の窓へ移った。
北の空が黒かった。雲ではない。もっと厚く、低く、渦を巻いていた。冷気と熱気が噛み合って、ひとつの巨大な傷のように空を裂いている。あの下に町がある。人がいる。
我が国は春だ。
我が国だけが。
私はただ、民を暖めたかっただけだ。
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あとがき:
保温魔法は、温度を固定する。
固定とは、動きを止めることではない。下がろうとするなら補い、上がろうとするなら逃がす、ということだ。小さな範囲で使うぶんには、それで済む。
問題は、国家のような大きな単位で使った場合だ。
一国を春に保つために失われた冬は、どこかへ行く。
一国から追い出された夏も、どこかへ行く。
魔法は領域に従っていても、熱は領域に従わない。
複数の国が同じことを始めれば、境目に歪みが溜まる。風は荒れ、雨は偏り、季節そのものが裂ける。
王は一度、他国への影響を問い、安心する答えを得た。
それで十分だったのだろう。
人は、自分の城壁の内側だけを守る方法を見つけると、城壁の外に何が起きるかを見なくなる。
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会話:
「……嫌な話っすね」
「嫌か」
「嫌っす。だって、誰も最初から悪党じゃない」
「だから広まる」
「しかも、途中まではちゃんと救えてるんですよね。実際、この国の人は助かってる」
「助かっただろうな」
「そこがきついっす。間違ってるのに、目の前の正しさが強すぎる。止めにくい」
「冬に死ぬ民を前にして、『周辺国のために耐えよ』とは言いづらい」
「言えないっすね……たぶん俺も言えない」
「王も言えなかった」
「でも、使者が来てるんですよね。隣が壊れてるって。難しい話じゃなくて、もう見えてる」
「見えていても、自分に都合の悪い因果は遠く見えるものだ」
「うわ」
「何だ」
「今の、賢者様のことにも聞こえました」
「気のせいだ」
「絶対気のせいじゃないっす」
「お茶が冷めるぞ」
「ごまかしたな」




