第4話 修復魔法
魔法名:修復魔法
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説明:壊れたものを元通りに戻す。
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記録:
空が赤い。
いつからこうなったのか。三日前だったか、五日前だったか。もう少し前だったかもしれない。正確に覚えていないのは、途中から数えるのをやめたからだ。
地面に座っている。瓦礫の上に。少し前まで町だったものの上に。少し前まで人が住んでいたものの上に。足元に、焼けた木の板がある。看板だったものだ。文字がまだ少し読める。「パン」と書いてある。
ああ、あの店だ。
角を曲がったところにあった。おかみさんが朝早くから生地をこねていて、通りかかると「味見していきな」と声をかけてくれた。焼きたてのパンはいつも少し焦げていた。上手ではなかったのだ。でも温かかった。
もういない。
立ち上がる。足元が崩れて、少しよろめく。見渡す限りの灰色と赤。煙がまだ昇っている場所がある。風がない。臭いがひどい。この臭いにも慣れた。慣れたくなかった。
歩く。靴の底に何かが触れる。見ない。見てもいいのだが、見なくても何かわかっている。わかっているのだから、見る必要がない。
丘の上に出た。
ここまで来ると、町の全体が見える。町だったものの全体が。遠くに川がある。川はまだ流れている。水は何も気にしていない。川の向こうに森があった。森は半分焼けて、半分立っている。焼けた半分と立っている半分の境目がやけにはっきりしていて、不自然に見える。
座り直す。ここでいい。ここからなら、十分に届く。
目を閉じる。
何回目だろう。
数えていた時期もあった。百回目を超えたあたりでやめた。三百回目あたりでまた数え始めて、すぐにやめた。数えることに意味がないと悟った。三百回目も五百回目も千回目も、やることは同じなのだから。
壊れたものを、元に戻す。
私の魔法。
息を吸う。吐く。もう一度吸う。始めよう。
魔法を広げる。自分の中心から。波紋のように。最初は手のひらの範囲。次に体の周囲。丘の全体。町を越え、川を越え、森を越え、山を越え、大陸を越え、海を越え、世界の果てまで。
力が要る。いつも思うが、力が要る。世界をひとつ元に戻すのは、世界をひとつ壊すのと同じだけの力が要る。
始まった。
足元の瓦礫が動いている。焼けた木の板が持ち上がる。灰が集まっていく。灰は木に戻り、木は壁に戻り、壁は家に戻る。割れた石が寄り集まって道になる。煙が地面に吸い込まれて消えていく。
世界が、巻き戻っていく。
何度見ても不思議な光景だ。壊れたものが壊れる前に戻る。それだけのことなのに、壊れる瞬間よりもずっと静かで、ずっと美しい。灰が花びらのように舞い上がって、元の形に帰っていく。火が引いていく。色が戻っていく。灰色が茶色になり、茶色が緑になる。
森が立ち上がった。焼けた幹が伸び、枝が広がり、葉が開く。鳥が空から降りてきて、枝にとまる。後ろ向きに飛んでくるのが少し面白い。
川の色が変わった。濁りが消え、底の石が見える。魚が跳ねた。
町が建っていく。
家が一軒、また一軒。屋根が乗り、窓がはまり、扉が立つ。道に敷石が並ぶ。井戸が立つ。市場の天幕が広がる。
人が戻ってくる。
ここが、一番つらい。
倒れていた体が起き上がる。傷が塞がる。血が引いていく。目が開く。表情が戻る。苦悶が消え、恐怖が消え、日常の顔になる。何もなかった頃の顔になる。
おかみさんが店の前に立っている。
エプロンをして、手に粉をつけて、生地をこねている。焼きたてのパンが竈から出てくる。少し焦げている。煙が出ている。煙は上に昇っている。正しい方向に。
私は丘の上に座っている。
おかみさんがこちらを見た。遠くてよく見えないはずだが、目が合った気がした。
私はこの人を知っている。好きな話の種類を知っている。息子の名前を知っている。パンが少し焦げるのは火加減が下手なのではなく竈の癖だということを知っている。
おかみさんは私を知らない。
今はまだ出会っていないのだから。今この瞬間、おかみさんにとって私は丘の上に座っている知らない人だ。これから出会って、何年かかけて常連になって、名前を覚えてもらって、味見をさせてもらえるようになる。前と同じように。あるいは、今度はこの町に寄らないかもしれない。そうすれば、出会わないまま終わる。それでもいい。
それでもいい。
世界が元に戻った。人々が歩き始めている。市場に声が聞こえる。子供が走っている。犬が吠えている。空は青い。正しい色の空だ。
巻き戻した時点からは、一度も巻き戻したことがない世界だ。ここで起きたことを覚えているのは私だけだ。たった今消えた未来のことを知っているのは、私だけだ。
立ち上がる。
さて、原因を突き止めないといけない。今回の崩壊を引き起こした魔法を特定して、封印する。それが終われば、同じ終わり方はもう起きない。私が少しでも違う行動を取れば、未来は変わる。十年も経てば、世界はまるで違うものになっている。
新しい終わり方が来るまでは、しばらく平和だろう。
歩き出す。丘を下りる。町に向かう。
角を曲がったところにパン屋がある。
通り過ぎるとき、おかみさんが顔を上げた。
「いらっしゃい。味見していくかい?」
足が止まった。
覚えていない。覚えているはずがない。今初めて会ったのだから。ただ、通りすがりの旅人に声をかけているだけだ。この人はそういう人なのだ。それを知っている。
振り返って、少し笑って、首を横に振った。
大丈夫。急いでいるから。ありがとう。
歩く。
次はこの町に来ないかもしれない。来るかもしれない。それはまだわからない。
わからないことがまだ少し嬉しい。
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あとがき:
これは私の魔法だ。分析の必要はない。
……必要としたくない。
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会話:
「…………」
「…………」
「……重いっすね」
「そうか」
「記録の中の──あの体験の重さが、他と全然違いました」
「そうだろうな。私の魔法だ」
「あの、賢者様。聞いていいっすか」
「構わない」
「修復魔法って、世界を元に戻すんすよね。でも賢者様は戻らない。それって、どういう仕組みなんすか」
「術者は修復の対象から外すことができる。私は世界の一部ではなく、修復する側だ。だから私だけが元の時間を覚えていられる」
「つまり、世界は巻き戻っても、賢者様の体験と記憶はそのまま?」
「そうだ」
「記録に出てきた人たちは──巻き戻された人たちは、何も覚えてないんすよね」
「覚えていない。存在ごと巻き戻される。死んだ者は生き返り、老いた者は若返り、生まれた者は生まれなかったことになる」
「記憶も?」
「当然だ。記憶は人格の一部だ。巻き戻せば、人格形成後の全ての経験が消える。その人が出会った人も、学んだことも、好きになったものも。全て巻き戻した時点からやり直しになる」
「……それを何回も?」
「何回も」
「……つらくないっすか」
「質問を変えてくれないか」
「……はい」
しばらく、二人ともお茶を飲んでいた。
「あの……別の質問いいっすか」
「ああ」
「禁忌魔法って、今まで何個くらい封印したんすか」
「正確には数えていないが、数百はある。ただし禁忌図書館に記録を残しているのは一部だ。似たような魔法は省いている」
「省いてるんすか」
「温度を上げる魔法と温度を下げる魔法で世界が滅んだ場合、原理は同じだ。記録は一つあれば足りる」
「効率的っすね……。じゃあ、同じ魔法で二回世界が滅ぶことはないんすか」
「ない。禁忌魔法は封印さえしてしまえば、同じ終焉は起こり得ない。そして私が少しでも違う動きをすれば、十年も経てば未来は完全に異なるものへと移り変わる」
「バタフライエフェクトってやつっすね」
「何だそれは」
「蝶が一匹羽ばたくだけで、遠くの天気が変わるって話っす。小さな変化が大きな結果に繋がるってこと」
「ああ、そういう名前がついているのか。その通りだ。巻き戻した世界は、同じ初期条件から始まるが、私の行動が一つ異なるだけで全く別の歴史を辿る。同じ魔法が発明されることはまずない」
「じゃあ新しい禁忌魔法が出てくるまでは平和ってことっすか」
「そうだ。元々は三百年に一度程度の頻度だった。……今は三十年に一度くらいに縮まっているが」
「ペース上がってるじゃないっすか」
「代わりに規模が小さくなった。封印した禁忌が増えるほど、致命的な魔法にたどり着きにくくなる。だが魔法の応用は無限にあるから、予想外の方向から新しい禁忌が生まれる」
「いたちごっこっすね」
「ところで」
「はい」
「千年に一度くらい、何の前触れもなく私の魔力が全部なくなることがある」
「え。全部?」
「全部だ。私の魔力が全部。数年かけて徐々に回復するが、その間は何の魔法も使えない」
「それ、やばくないっすか。その間に何か起きたら」
「起きなかった。千年に一度だから、それほど経験はないが」
「原因は?」
「おそらくだが──未来の私が、自分ごと世界を巻き戻したのではないかと考えている」
「……どういうことっすか」
「修復魔法は全魔力を注ぎ込めば、術者自身も含めて巻き戻すことができる。未来の私が全てに嫌気がさして、全魔力を使い切って、自分ごと過去へ巻き戻した。巻き戻った先には魔力が空の私だけが残る。痕跡は何もない。ただ、ある日突然、私から魔力が消えている」
「…………」
「魔力を使い切った後だから、巻き戻った側の私には原因がわからない。ただ、結果だけがある」
「……それ、何回くらいあったんすか」
「数えられる程度には。数えたくない程度には」
「……未来の賢者様が、もう嫌になるくらいのことが、あったってことっすよね」
「起きていないことだ。考えても仕方がない」
「……そうっすね」
「お茶のおかわりはいるか」
「……もらうっす」
「今日は少しいい葉がある」
「やった」




