第10話 分離魔法
魔法名:分離魔法
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説明:くっついた物を分ける。
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記録:
私の一番の自慢は、この工房だ。
王立学術院の東棟の二階。窓が南向きで、午前中は日がよく入る。顕微鏡も秤も蒸留器も全部ここにある。壁の棚に試料の瓶が並んでいて、朝の光を受けると宝石みたいに光る。硫黄は黄色、銅の溶液は青、鉄の粉は黒い砂みたいだ。
私の研究テーマは物質の構造だ。木と鉄は何が違うのか。水はなぜ凍るのか。塩はなぜしょっぱいのか。こういう問いが好きだ。好きすぎて、食事を忘れることがある。助手のレイが「先生、もう日が暮れてます」と言いに来てくれなければ、私はたぶんこの工房で干からびている。
分離魔法は研究の相棒だ。混合物から特定の成分だけを取り出す。合金を元の金属に分ける。溶液から溶質を分離する。手作業で何日もかかることが、指先ひとつでできる。絡まった糸をほどくときの、あのするっとした感触が好きだ。
ある日、レイと議論になった。物質はどこまで分けられるのか。
木を砕けば粉になる。粉をもっと砕けば、目に見えないほどの微粒子になる。では、その先は?
「これ以上は分けられない最小の粒がある」というのが学術院の通説だった。
本当か? 私はそう聞いた。レイは「試した人はいません」と言った。いい返事だ。試した人がいないなら、試すのは私たちの仕事だ。
鉄の塊から始めた。分離。二つに分かれる。また分離。四つ。八つ。指先ほどの破片になっても、分離は続く。秤に載せると質量はきちんと半分ずつになっている。もっと小さく。顕微鏡でも見えなくなった。それでも秤の針は動く。
ここまでは退屈だった。悪い意味ではなく、予想通りだったという意味で。
退屈でなくなったのは、その次だ。
分離をかけた瞬間、指先がぴりっとした。温かい。これまでの分離では何も感じなかった。糸をほどくように、するりと分かれていた。今のは違う。何かを引き剥がした感触。
「先生、いま何か光りませんでした?」
レイが言った。光った? 分離で?
もう一度。今度はじっと見ながら。
光った。
掌の中の、もう目には見えないはずの鉄片が、分離の瞬間に発光した。そして熱い。掌がはっきりと熱い。
声が出た。「面白い」と言ったと思う。声が大きかったのか、隣の研究室から「うるさい」と怒鳴られた。すみません。でも面白い。
何が起きているのか。大きなものを分けるときには何もない。だがある大きさ以下になると、分離に光と熱が伴う。物質の奥深くに、何かが蓄えられている。分離はそれを解き放っている。
もっと深く分けてみたい。
レイに離れてもらった。「念のためだ」と言ったら、「念のため、が出るときの先生は大体やばいんですよ」と言われた。否定はしなかった。
鉄片を机の上に置いた。できる限り深い分離をかけた。
閃光。
机が真ん中から割れた。天板の破片が壁に突き刺さった。鉄片があった場所が黒く焦げていて、煙が出ている。隣の棚の瓶が全部倒れた。硫黄と銅の溶液が混ざって、ひどい色になっている。
レイが走ってきた。「だから言ったでしょう!」と叫んでいた。ごめん。でも見たか? あんな小さな鉄片が机を壊したんだぞ。
小指の爪ほどの鉄片が。机を。
しばらく呆然としていた。棚の片付けをしながら、ずっと考えていた。瓶を拾いながら。床を拭きながら。
小さなものを分けるだけで、あれだけの力が出る。大きなものを分けるときには出ない。小さくなるほど、中に蓄えられているものが大きくなる。直感に反する。だが事実だ。
もし、もっと大きな塊を、あの深さまで分離したら。
翌日、場所を変えた。郊外の空き地。開けた場所。鉄の塊を用意した。拳ほどの大きさだ。
レイには丘の向こう側に行ってもらった。「先生、本当にやるんですか」と聞かれた。やる。やらないと眠れない。「先生は昨日も寝てないでしょう」と言われた。否定はしなかった。
鉄塊を草の上に置いた。春の風が気持ちいい。空が青い。工房にこもっていると忘れるが、外の空気は美味しい。
手を伸ばした。魔法を集中させた。物質の最も深いところまで。
分離。
光。
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あとがき:
分離魔法は本来、日常的な用途に用いられる安全な生活魔法だ。だが物質の極小規模まで分離を適用した場合、現象は一変する。
通常の分離──糸をほどく、混合物を分ける──では、エネルギーの出入りはほぼ発生しない。だがある段階よりも小さい規模では、分離のたびに光と熱が放出される。分離の深度が増すほど放出量も増大し、最深部に達すると、ごくわずかな物質から都市を消滅させるだけのエネルギーが発生する。
消えるのは、極小の粒同士を結びつけていた「結合」のほうだ。結合を引き剥がすと、結合に蓄えられていた力が解放される。
不思議なのは、極小の結合ほど蓄えている力が大きいということだ。大きなものを分けるより、小さなものを分ける方が危険。直感に反するが、どうやらそういう仕組みらしい。
記録の術者は拳ほどの鉄塊を最深部まで分離し、学術院を含む都市一つが消滅した。この技術が広まれば、石ころ一つが城を落とす。停止魔法の記録と同じだ。誰にでも使える。どこでも使える。
魔法は極小規模への干渉にほとんど力を必要としない。糸をほどくのと同じ労力で、物質の最深部を引き裂くことができる。
これは奇妙なことだ。
通常、小さなものに干渉するには、より繊細な制御が要る。大きなものを動かすより小さなものを動かす方が技術的には難しいはずだ。だが魔法はそうではない。極小であっても大規模であっても、干渉の難度は変わらない。まるで魔法は、小さなものの世界に特別な法則があることを知らないかのように振る舞う。
反転魔法でも同じことが起きていた。物質の性質を反転する──極小の粒の正負を入れ替える──ことに、魔法は何の抵抗も示さなかった。
魔法は、大きなものの法則と小さなものの法則を区別していない。
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会話:
「核分裂っすね」
「名前があるのか」
「あるっす。前に反転魔法の時に話した、物質の中のエネルギーの話。覚えてます?」
「覚えている。物質の全てがエネルギーに変わるのが対消滅。では、核分裂はどう違う」
「核分裂は、極小の粒──原子核ってやつの結合を割るんす。結合の中にエネルギーが蓄えられてて、割るとそれが出てくる。物質そのものは消えないけど、結合のエネルギーだけ出る。変換効率は0.1パーセントくらい」
「つまり私があとがきに書いた通り、『結合に蓄えられた力の解放』で合っているのか」
「合ってるっす。賢者様の仮説、ほぼ正解。原子核って概念を知らないだけで、観察としては完璧っすよ」
「……そうか」
「でも一個すごいこと書いてありましたよね。『魔法は極小に干渉するのにほとんど力を必要としない』って。あれ、めちゃくちゃ重要っす」
「そう思うか」
「地球の物理だと、小さいものの世界って、大きいものの世界とは全然違う法則で動いてるんすよ。量子力学って呼ばれてて、もう直感が通じない世界。粒が壁をすり抜けたり、見るまで状態が決まらなかったり」
「見るまで状態が決まらない?」
「ややこしいんすけど、そういう話っす。で、その量子の世界に干渉しようとすると、地球の技術ではものすごく大変なんすよ。精密な装置がいるし、温度を極限まで下げないといけないし。小さいものの法則が邪魔をするから」
「だが、この世界の魔法はそうではない」
「そうなんすよ。魔法は糸をほどくのと同じ感覚で原子核を割れる。量子力学の壁を、存在しないかのように越えてる」
「……あとがきに書いた通りだ。魔法は、小さなものの世界に特別な法則があることを知らないかのように振る舞う」
「それっす。俺、ずっとこれが気になってて。浮遊魔法のときの遠心力も、静寂魔法の温度も、停止魔法の座標系も──魔法って、古典物理学の範囲ではちゃんと動いてる。でも、量子力学の領域になると、壁がなくなる」
「つまり、魔法は古典物理学しか知らない」
「……それっす。今の一言で全部繋がった気がする。魔法は古典物理──大きいものの法則しか知らない。知らないから、小さいものの世界の壁を越えてしまう。壁があると知っていれば越えないはずの場所を、知らないから平気で通る」
「無知が強さになっている、ということか」
「そうっす。魔法にとっては鉄を割るのも原子核を割るのもただの『分離』で、スケールの違いでしかない。量子の壁っていう概念がそもそもないから、干渉コストがかからない」
「まだ仮説に過ぎないが、素晴らしい発見だな。」
「それに仮説として筋が通ってる。禁忌魔法が一見無害なのに世界を壊すのって、魔法が古典物理の枠組みで動いてるからっすよ。術者も魔法も、小さい世界の法則を知らない。知らないから、気づかないうちに核分裂を起こしたり、反物質を作ったりする」
「……なぜ魔法が古典物理学しか知らないのか。それは」
「わかんないっす。地球にもそんな理論はない。でも面白いっすよね」
「ああ。面白い」
「賢者様がそう言うと、ほんとに面白いって意味なんすよね。社交辞令じゃなくて」
「私は社交辞令を言わない」
「知ってるっす」
「……お前がいなければ、この仮説には届かなかった」
「え」
「恒星が動いていることも、反物質も、核分裂も、量子力学も。お前の知識がなければ、私は何千年経っても一人では気づけなかった」
「……いや、俺は知識があるだけで、組み立てたのは賢者様じゃないっすか。俺は断片を言っただけで」
「断片がなければ組み立てられない」
「…………」
「何だ」
「いや、なんか──俺がここにいる意味がある気がして。ちょっと嬉しかっただけっす」
「……そうか」
「はい」
「……次の記録に移ろう」
「了解っす」




