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第1話 浮遊魔法

「ここにあるのは、世界を終わらせた魔法の記録だけだ」


 賢者は、そう言って一冊の記録を開いた。


「一発目から物騒っすね」


「だが、始まりはたいてい他愛ない」


「たとえば?」


「空を飛びたい、という願いだ」

---------------

魔法名:浮遊魔法

---------------

説明:物体にかかる重力を無視する。

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記録:


 石を持ち上げるのに、どれだけの力がいるか知っているだろうか。


 私は知っている。毎日知っている。畑の石を拾い、塀の石を積み、井戸の水を汲む。腕が重い。背中が痛い。この世界の何もかもが、下へ下へと引っ張られていて、それに逆らうたびに体が軋む。


 だから考えた。下に引かれるのをやめさせればいい。


 三年かかった。


 最初の一年は何も起きなかった。二年目に、机の上の小石が少しだけ軽くなった気がした。気のせいかもしれなかった。三年目の春、小石が浮いた。


 机の上で、小石が浮いていた。


 最初は、本当にわずかだった。紙一枚ぶん、いや、爪一枚ぶん。だが落ちない。指で突くと、すうっと横に流れた。水の中を押したみたいに、ゆっくりと壁に近づいて、こつりと当たった。


 笑いが止まらなかった。


 次に靴を浮かせた。靴はじわじわと天井に近づき、しばらくしてから、困ったようにぶつかった。帽子も浮かせた。椅子も浮かせた。部屋中のものが少しずつ上に集まっていくのを見て、私は腹を抱えて笑った。隣人が様子を見に来たので、手を振って追い返した。今は忙しいんだ。


 翌日は外に出た。


 道端の石に魔法をかけると、石はゆっくり空へ昇っていった。投げたのではない。ただ、落ちなくなったのだ。だから昇り続けた。最初は歩くより少し速い程度だったのに、見ているうちに屋根を越え、木を越え、やがて見上げるしかなくなった。


 次は大きな石。バケツ。木の枝。リンゴ。なんでも空へ昇った。リンゴを鳥が追いかけてきて、くちばしで突いて、少し慌てたように手放して戻っていった。少し申し訳ないことをした。


 いくつか気づいたことがある。浮かせたものは、ただ上に行くだけではなかった。かすかに横へも流れる。いつも同じ向きに。なぜだろう。面白い。


 三日目。


 私は自分の体で試すことにした。最初は右腕だけ。腕が持ち上がる。次に両腕。肩が引かれる。間抜けな格好になった。上半身だけ軽くすると前につんのめった。鼻の頭が土だらけになった。何度もやる。配分を変える。転ぶ。泥だらけになる。何度もやる。少しずつわかる。


 五日目の夕暮れ、私は浮いた。


 すぐに高く飛んだわけではない。足の裏が軽くなり、かかとが離れ、つま先が離れ、ようやく両足が地面を離れた。手を広げて、息を止める。体が、落ちない。


 屋根の高さまで上がるのにも少し時間がかかった。だが、落ちない。風が頬に当たる。髪が揺れる。見下ろすと、自分の家の屋根があり、畑があり、隣人が口を開けて私を見ている。


 泣きそうになった。


 七日目。もうだいぶ自在に飛べるようになった。高く昇るには時間がかかる。だが、一度浮けば、どこまでも行ける。遠くの林も川も、これまで見たことのない形で目の下に広がった。


 長く昇っていると風が冷たくなる。息も少し苦しくなる。風が冷たいのはいい。だが、息が苦しいのは困る。飛べるのに、呼吸のせいで高く行けないのは、ひどく理不尽に思えた。


 ある日の午後、何をするでもなく飛んでいたとき、ふと思った。


 空気もまた、下に引っ張られているのではないか。


 だとすれば、空気を浮かせたらどうなるだろう。もっと高いところでも息ができるようになるのではないか。そうすれば、もっと遠くまで飛べるのではないか。


 指先から魔法を広げた。自分の周りの空気に。もっと広く。もっと。


 風が変わった。


 それまで横に吹いていた風が、上に向かって吹き始めた。草が逆立つ。木の葉が空へ吸われていく。面白い。もっと広く。もっと。


 少し、息がしにくい。


 でも、空を見た。上を見上げた。空が変わっていた。いつもの青ではなく、深い、もっと深い色になっていた。


 綺麗だった。


 こんな空は見たことがない。私が作ったのだ。


 少し、頭がぼんやりする。


 疲れたのだろうか。眠い。


 横になりたい。空の上で横になったら、さぞ気持ちいいだろう。


 空が綺麗だ。


 ああ、こんなにも。


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あとがき:


 浮遊魔法は、重力を無効化する。

 だが、物体に働く力は重力だけではない。


 この星は自転している。地表にあるものは、重力に引かれる一方で、外へ逃れようともしている。普段それが問題にならないのは、重力がそれを押し留めているからだ。


 重力だけを失った物体は、もはや地表に留まらない。術者が見ていたのは飛翔ではなく、星から離れていく落下だった。


 空気も同じである。


 大気に広く適用すれば、空気は地表に留まれない。地上の気圧は急速に低下し、水は沸騰し、生命は窒息する。


 術者は最後まで、それに気づかなかった。横ずれを面白がり、空の色の変化に見とれ、息苦しさを飛行の代償だと思った。


 彼女はただ、空を飛びたかっただけだった。


---------------


会話:


「……一発目からだいぶ終わってるじゃないっすか」


「だから言っただろう。ここにあるのは、世界を終わらせた記録だけだ」


「空飛びたい、でそこまで行くの嫌すぎる」


「本人に悪意はない。だから厄介なのだ」


「でもこれ、思ったよりゆっくり上がるんすね」


「急には飛ばん。落ちなくなるだけだ。ゆっくり離れていく」


「じわじわ死ぬタイプの災厄……」


「派手さがない分、止め損ねやすい」


「嫌なリアルさあるなあ……。ていうか鳥は助かったんすかね」


「さあな」


「そこは助かっててほしいっす」


「私は靴の方が気になる」


「なんでっすか」


「天井にずっと張り付いていたはずだ」


「いや、そこなんすか」


「そこだ」


「賢者様、こういう話好きっすよね」


「好き嫌いの話ではない」


「はいはい」


「……知らなかったことを知るのは、悪くないと思っているだけだ」


 少しだけ言い直したように聞こえた。


「じゃあ次も読むっす」


「ああ」


 賢者は次の本へ手を伸ばしかけ、ほんのわずかに動きを止めた。


「終わり方を知っておくことには、意味がある」


「予防のために?」


「……それだけなら、よかったのだがな」


「え?」


「次の記録に移ろう」

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