バベルの揺り籠
カジノには時計がない。
私は、隣の男の端末の数字が、容赦なく減っていくのを見ていた。
847。
一時間前は851。三時間前は859。
「まだ大丈夫ですよ」
男が、静かに微笑む。
「私のスコアなら、あと三回は負けられる計算です。四回目は、さて……どうでしょうね」
ディーラーの声が響く。
「次のゲームを始めます」
テーブルを囲む六人——いや、五人。
左端の老人は、もう数字を見ていない。
彼の端末には、19と表示されている。
「あと二回負けたら終わりですね」
彼が囁く。
「あの年齢で19しか残っていない。……きっと、誰かのために使ったんでしょう。家族とか、子どもとか。で、自分のぶんは残っていない」
男が笑う。
「美しい話ですね。でも、このゲームでは何の意味もない。…あの震え、見えますか? あれは恐怖です。恐怖で判断する人間は、必ず負けます」
私は老人を見る。
確かに、手が震えている。
男は手元のチップを一枚、テーブル中央に滑らせる。
他の四人も続く。
老人は——二枚出した。
「愚かですね。焦って、一発逆転を狙っている。……あなたなら、絶対にそんな賭け方はしないでしょう?」
ディーラーがカードを配る。
男の手札は——ストレート。
悪くない。
「いい手ですね。六割の確率で勝てるでしょう」
右隣の青年は不敵に笑っている。手首の端末は1,203。
「彼は若いですね」
男が囁く。
「おそらく、良い教育を受けたんでしょう。親が全財産を注ぎ込んで、良い学校、良い塾、良い履歴書——その結果が、あの1,203です」
男は微笑む。
「投資は成功したわけですね。親のチップと引き換えに」
全員が手札を開く。
結果——男の右隣の青年が、フルハウスで勝利した。
チップが青年の前に集まる。
老人の端末の数字が、19から15に減る。
「ほら」
男が囁く。
「予想通り、彼は負けました。次も負けるでしょう。その次も。……そして、消える」
私は老人を見る。
彼は座ったまま、ただ数字を見つめている。
「あなたが私なら、助けますか?」
男が問う。
「チップを少し分ければ、彼は次のゲームに参加できる。……ちなみに、私は渡しません」
彼が頷く。
「自分のチップは、自分のもの。他人のために使う義務はありません」
男が立ち上がる。
休憩時間だ。
「喫煙室へ情報収集に行きます。付いてきますか?」
廊下を歩きながら、男が呟く。
「このシステムは、揺り籠です」
私は男の背中を見つめる。
「守ってくれているように見えるでしょう? ルールがあって、秩序があって、安心できる。でも実際は——閉じ込められているだけです」
彼が微笑んだ気配がした。
「そして、いつか必ず転落する。
ゼロという名の、地面に」
私は、前を歩く男の端末を見る。
847。
男は、あと三回は負けられる。
四回目は——
「知りたいですか?」
目線を上げると、男が後ろを振り返っている。
「四回目の後、何が起こるか。私がゼロになったとき、どこへ行くのか」
彼が微笑む。
「私も知りたいんですよ。いつか、この数字がゼロになる瞬間を。……それとも、あなたが先にゼロになるほうが早いでしょうか?」
私は、自分の手首を見る。
そこには——




