第9話 勇者の影、迫る。外交の裏で揺れる。
交渉の翌日。
魔王城の執務室は、いつもよりざわついていた。
書簡が飛び交い、伝令が走り、魔族将校たちが怒鳴り合う。
――戦の気配。
俺はその中心で、ひたすら紙を訳していた。
和平会議の議事録、報告書、外交文書。
どれも人間語から魔族語、魔族語から人間語への往復翻訳。
(はぁ……翻訳の地獄だな。異世界でもデスクワークかよ)
椅子の背にもたれ、コーヒーの代用品――黒く濁った液体をすすった。
やっぱりコーヒーが恋しい。
どう説明すればいいんだ、この飲み物。
「セージ、集中しろ」
ヴェルドが横から低い声をかけてくる。
相変わらず無表情だが、机の上には俺と同じ湯呑み。
「……将軍も飲むんですね、それ」
「慣れると悪くない。飲みすぎると胃が焼けるが」
「ブラック企業の味ですね」
「ブラック……?」
「いや、気にしないでください。俺の世界の戦場用語です」
ヴェルドが小さくため息をついた。
「お前の言葉は時々理解不能だ」
(それ、前の職場でも言われてた)
―
そこへ、扉が勢いよく開いた。
「将軍、緊急報告です!」
若い魔族兵が駆け込んできた。
「人間領の動きに変化あり! 勇者軍が国境付近に再集結! 和平派を拘束し始めたとのことです!」
「……やはり動いたか」
ヴェルドが眉をひそめた。
「停戦のために交渉した連中を……拘束?」
「はい。勇者リュウガの命令です。“裏切り者を排除する”と……」
胸の奥がきゅっと締めつけられた。
昨日の勇者の笑みが脳裏に浮かぶ。
あの傲慢な笑いの裏に、すでに計画があったのか。
「……これ、完全に戦争準備ですね」
「否定できん。問題は――この情報が陛下の耳に届く前に、我々がどう動くかだ」
ヴェルドが立ち上がり、地図の上に手を置いた。
「セージ、お前には再び通訳を頼みたい。今度は“敵の捕虜”から情報を引き出す」
「……尋問、またですか」
「勇者の動きを掴むには、それしかない」
―
尋問室に入ると、前回よりも空気が重かった。
部屋の隅には松明。中央に縛られた一人の青年――
人間兵士だ。だが、見覚えがあった。
(あれ……? この顔……どこかで)
青年がこちらを見て、驚いたように叫んだ。
「……高槻さん!? やっぱりあなただ!」
「え?」
心臓が跳ねる。
その声、その口調――
地球で聞いたことがある。
「お前……佐々木か!? 総務の!」
青年――佐々木は泣きそうな顔でうなずいた。
「はい……俺も、あの飛行機に……!」
やっぱりだ。
まさかまた同じ便の人間と出会うとは。
けど、ここで“地球”の話はできない。
この部屋にはバルザークとヴェルドがいる。
「知り合いか?」
バルザークの声が低く響く。
「……同郷です」
「ならば、心を開かせるのも早いだろう。やれ」
俺は深呼吸した。
できるだけ自然に、できるだけ冷静に。
「佐々木。落ち着いて話してくれ。どうしてここに?」
彼の声は震えていた。
「勇者リュウガ様に仕えてたんです。でも……違和感があって。
戦を望んでない人まで、“裏切り者”扱いされて……。
逃げようとしたら捕まって、ここに……」
「勇者のスキル、わかるか?」
「えっと……【神威覇断】のほかに、“支配系”の能力も。
部下に命令すると、逆らえないんです」
「……洗脳スキルか」
「セージ、翻訳を」
「はい。――彼曰く、勇者は力だけでなく、精神を支配する力を持っているそうです」
その瞬間、バルザークの拳が机を叩いた。
「やはり奴は“狂信者”か!」
―
尋問が終わり、佐々木は地下牢に移された。
俺はヴェルドと廊下を歩きながら息を吐いた。
「……勇者が洗脳まで使うとなると、厄介ですね」
「ああ。だがそれより気になるのは――」
ヴェルドが横目で俺を見た。
「なぜ“お前の同郷”がここに現れた?」
「……偶然だと思います。
俺の出身は遠い異国ですが、たまたまこっちに来たんでしょう」
「……ふむ。だが、あの捕虜――お前を見る目がただの偶然には見えなかった」
「気のせいですよ。どこにでも似た顔の人はいるものです」
ヴェルドはわずかに目を細めたが、それ以上は追及しなかった。
「……そうか。なら、そういうことにしておこう」
廊下に残るのは、二人分の靴音だけ。
そのリズムが、妙に不安を掻き立てた。
(……偶然。そう言い切るしかない。
勇者は“異国の勇者”として人間国に力を貸している。
もし俺まで同じ出身だと知られたら――
人間側の間者か、勇者と通じたスパイだと疑われる。
本当のことを話したら、魔王軍では生きていけない)
やがてヴェルドが言った。
「……セージ。この戦、言葉だけでは防げぬかもしれん」
「わかってます。でも、まだ諦めません。
勇者が“言葉を信じない”なら、俺が“言葉の力”を見せます」
ヴェルドが小さく笑った。
「お前の口からそんな台詞が出るとはな。
まるで――戦士だ」
「いやいや、俺はただの通訳官です」
「そういう謙遜が一番危険だ」
―
その夜。
久しぶりに一人になって、部屋の窓を開けた。
遠くに街の灯りが瞬いている。
風が冷たい。
(佐々木……あの優しいやつが、戦場に立ってたなんて)
思い出すのは、地球のオフィス。
あの頃、彼は俺にいつもコーヒーを淹れてくれた。
『課長、ブラックですか?』
『ああ、頼む』
……もう、あの味はここにはない。
(だけど、あの頃よりも今の方が“本気で話してる”気がする)
言葉が、生きている。
この世界で、命を繋いでいる。
「……よし。次の交渉、絶対止めてみせる」
その誓いとともに、俺は静かに目を閉じた。
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