「お兄様」とは呼びません
「シルヴァンさま……!」
「メイベル!」
緩く結ばれた長い銀髪を揺らして、シルヴァンさまは金色のきれいな瞳を優しく細める。そしてわたしの背の高さに合わせてかがんだ。
わたしがその広げられた両手へと勢いよく飛び込むと、宝物を離さないと言わんばかりにぎゅっと抱きしめられる。お互いに左頬へとキスをして、鼻先が触れそうな距離でにこりと笑う。
これがシルヴァンさまとわたしの、物心つく前からの挨拶だ。
「久しぶりだね、元気だった?」
「はい! 家庭教師の先生からは『もう少し淑女らしくしていただきたいものですわ』と言われました」
会ったことなんてないはずのうちの家庭教師のモノマネにも、シルヴァンさまは楽しそうに笑ってくれる。
「それは確かに元気だ。さあ向こうでお茶をしよう。会えなかった間の話をたくさん聞かせて?」
5歳年下のわたしにも、さりげなく左手を差し出してエスコートをするシルヴァンさまはきっと女性から大人気だ。いつかシルヴァンさまと結婚される方とも仲良くなれたら嬉しいけど……。
ふと、シルヴァンさまを「シル」と呼ぶ人を想像してみる。どうしてかほんの少しだけ嫌な気持ちになった。
「……メイベル? どうかした?」
「少し考え事をしていただけです」
「そう? ならいいんだけど」
つい誤魔化してしまった。というか、誤魔化されてくれたのだと思う。シルヴァンさまは本当に鋭いから。
そうでなくては、わたしが、前の家庭教師から失敗した時の罰として叩かれていたことを一番に把握できはしないはずだ。それも、わたしの様子がいつもと違ったからという本当に些細な理由で。
あの時、「何があったのか教えてくれる?」と聞いてきたシルヴァンさまの目は笑っていなかった。それが少しだけ怖かったのは、今となっては笑って語れる大切な思い出だ。
あれがもう2年も前のことだと考えてみると、不思議な心地がする。だけど、わたしは10歳、シルヴァンさまは15歳となったのだから、それはそうだと納得する部分もあるのだ。
母方の従兄弟にあたるシルヴァンさまとは、年に数回会うくらいの仲だ。会うたびに笑顔で話しかけてくれるシルヴァンさまに、まだ一人で歩けなかった頃のわたしはよく懐いていたらしい。我ながら、その時だけでなく今も懐いている自覚がある。
それが何だかおかしくて、思わず小さく笑ってしまった。
「ご機嫌だね? 何を考えていたのか、『お兄様』に教えてごらん?」
「……『お兄様』、ですか?」
確かにシルヴァンさまは年上だけど、わたしの「お兄様」ではないはずだ。どういうことかと考えていると、楽しそうに細められた金色の瞳と目が合った。
「そうだよ。俺のこと、『お兄様』って呼んでもいいんだよ?」
「どうしてですか? シルヴァンさまは『お兄様』ではなく『シルヴァンさま』ですよね……?」
そうやってこてんと首を傾げてみる。
「……やっぱり何でもないよ。気にしないで」
「……? 分かりました」
「————メイベル、……メイベル?」
あの時よりも低く落ち着いた声がわたしを呼んでいる。はっと現実に意識を戻すと、心配を浮かべた金色の瞳に射抜かれた。
「どうかした?」
「少し、6年前のことを思い出していました」
「6年前というと、メイベルは10歳か……。あの頃はまだハグをしてくれていたよね」
「……シルヴァン様、わたしはもう16歳ですよ? 挨拶だとしても男性に抱きつくなんてできません」
「そう? 俺としては、メイベルだったら大歓迎なんだけど」
「歓迎してはダメでしょう」という言葉は思うだけに止めておいた。
シルヴァン様は21歳、まだ結婚もしていないし婚約者もいない。貴族として、それも公爵家の後継者としてはあり得ない状況だ。
だけどそれは許されている。なぜならシルヴァン様は王国随一の魔術師、かつ、魔術の規則性の発見という功績を持っているからだ。以前まで「気合い」と「やる気」だと言われてきたものの規則性をあっさりと見つけてしまったシルヴァン様は、いわゆる規格外の天才なのだ。
王国としてはそんな人材を他国に取られては困る。そういうわけで、シルヴァン様は良い待遇で扱われている。
目の前で優雅に紅茶を飲んでいる人がそうだなんて、なんとも不思議な感覚だ。シルヴァン様はシルヴァン様なのだけど、昔のシルヴァン様とは違ってずっと遠くに離れていってしまったような気もしていて……。
「何か難しいことを考えているの?」
そんな寂しさが少しの悪さをした。つい魔が差して、6年前のあの時には言わなかった言葉が口をついて出てくる。
「お兄様のことについてですよ?」
早くなった心音に気づかないふりをして、ちらりとシルヴァン様の様子を窺う。予想外にも、シルヴァン様は中途半端にティーカップを持ち上げたまま、目を見開いて固まっていた。
数秒後、コトリと音を立ててカップをソーサーに置き、ゆっくりと立ち上がる。そしてティータイムを楽しんでいた東屋から5歩ほど離れ、シルヴァン様はおもむろに晴れ渡る空を見上げた。
どういうことかと、どうするべきかと考えながら、その背中に声をかけてみる。
「……あの、シルヴァン様?」
「ごめん、少し待って。魔力が暴走しないように落ち着かせているから」
「は、はい。…………はい?」
聞き間違いでなければ、今、シルヴァン様は「魔力が暴走しないように」と言わなかっただろうか。それはつまり、魔力が暴走してしまいそうになるほどの衝撃を受けた、ということになる。
……そこまで驚くようなことではなかったはずだ。
「お待たせ」
「その、なんというか……、落ち着きましたか?」
「なんとか、かな。それにしてもメイベル、やってくれたね?」
問い詰めるような言葉とは対照的に、シルヴァン様は右手で自身の顔を覆う。
「『お兄様』だなんて、……おかげでうっかり魔力を暴走させてしまうところだったよ」
そう言って、あからさまにわたしから視線を逸らした。
振り返ってみても、わたしは「お兄様」と言っただけ。やっぱりそこまで驚く要素はないはず。
「……変なシルヴァン様」
まるで雲の上の存在のように思っていた最近のシルヴァン様でも、驚くだなんて人らしいところがある。その様子が面白くて、そう知れたのが嬉しくて、小さく声を上げて笑ってしまった。
「……メイベル」
呼ばれて視線を向けた先のシルヴァン様は、気づけばいつものように笑っていた。いや、いつものようだけどそうではない。
「何ですか?」
その瞳には、今まで一度も見たことがない何かの感情が浮かんでいて、頬はわずかに赤く染まっている。目の前で跪いたシルヴァン様はわたしの左手を取った。
そして、薬指の付け根にキスを落とす。
「『ベル』と、呼んでもいい?」
真正面からこちらを見る金色の瞳には、真っ赤に染まったわたしが映っている。
シルヴァン様を「シル様」と呼ぶようになったのは、それからわずか数日後のことだった。
【「お兄様」とは呼びません】
—end.—




