花嫁は鳥籠の中へ
数多の宝石や金糸銀糸で飾られた婚礼服を着せられ、繊細な刺繍のヴェールを被せられた男の花嫁は、終始目を伏せたままであった。
そして、その隣に立つのは、華美な婚礼服に身を包んでいても少々目つきが悪いという以外に特徴らしい特徴のない顔立ちの花婿。
参列者の居ない静まりかえった神殿で、婚姻証明書へのサインと誓いの言葉だけという貴族にあるまじき簡素な婚姻式を済ませた新婚夫夫は、公爵家の紋があしらわれた馬車に乗って屋敷へと戻っていった。
時間にすれば1時間ほど。
花嫁の身支度の方が余程時間がかかったのではないだろうか。
「公爵家の名を汚さねば、好きに過ごして構わない」
屋敷に帰り着くなり、花婿アシュフォード・ネルベルクはそっけなく告げた。
申し訳程度に差し出されていたエスコートの手が花嫁から離れていく。
「好きにとは」
花嫁シルヴァール・ネルは小さな、しかしよく通る声で訊ねた。
高くも低くもない、神秘的な竪琴のような声音に、エントランスで主人とその花嫁を迎えるべく集まっていた使用人達は息を飲んだ。
「言葉の通りだ」
その端的な答えには何の感情も窺えず、彼らは『公爵夫人』となった美しい青年を少しだけ哀れみ、大いに面白がった。
誰もその感情を外に漏らしはしなかったが。
「彼の身支度を整えたのは誰だ」
公爵がエントランス内をぐるりと見渡すと、僅かな緊張が走った。
公爵の機嫌次第で『そうか、ならばお前はクビだ。すぐに出ていけ』と言われる可能性がある。
そこで、赤毛のまだ年若いメイドが一歩進み出て頭を下げた。
「私にございます」
本来なら公爵夫人となる花嫁には複数の侍女が付くものだが、花嫁の支度はメイドである彼女一人で行ったと言う。
まさか公爵が使用人の実情を知らぬ訳はなかろうが、花嫁の侍女になど興味がないのか。
「そのまま彼の世話をするように」
「承知いたしました」
公爵は赤毛のメイドから興味を外すと、立ち尽くす花嫁と使用人達を順番に見渡してひとつ頷き、それ以上の言葉を掛ける事もなく従僕兼護衛を1人連れて自室に戻っていった。
いつも不機嫌そうな公爵が何を考えているのか、使用人に推し量れる者はいなかったので、当主の姿が見えなくなると使用人達の間に流れていた空気が緩む。
花嫁はゆっくりとメイドを振り返った。
頭を下げたまま微動だにしないその仕草はよく訓練されていて、公爵家に仕えるメイドに相応しい。
「奥様、お部屋にご案内致します」
しかしその声は丁寧なばかりでどこか冷たく、『男の公爵夫人は面倒だ』とでも言いたげだった。
「あなたのお名前は?」
花嫁の声がどこか縋るように響いたのは気のせいだろうか。
「……ジャネットと申します」
メイドの返答に、やはり温かみは感じられない。
「そうですか」
花嫁はまた足元に視線を落とした。
『妖精の生まれ変わりのような美しい男がいる』と、ジャネットも聞いた事があった。
それは誇張だろうと思っていたのに、実際の花嫁は噂以上の美貌の持ち主だった。
これでは性別など些細な問題に違いない。
多くの求婚者が様々な贈り物を持って生家に押しかけたというのも、でたらめではないだろう。
だが、いやだからこそ、ジャネットの気持ちがささくれるのだ。
公爵家の使用人ともなれば、一番格下の侍女であっても、花嫁の生家より上位貴族の出自だ。
公爵が花嫁を連れてくると言った日から、彼女達はなぜ平民と変わらぬような男を公爵夫人と敬わねばならないのかという不満を口にし、あろう事か公爵夫人に仕えるべき役目を放棄した。
そうして一介のメイドであるジャネットに全てを押し付けたのである。
そんな経緯もあったので、ネルベルク公爵直々に役目を担されたメイドは、本来なら絶対に出してはいけない不満をその態度に滲ませてしまったのだ。
先代当主の頃であれば、ネルベルク公爵家に勤めるのは本当に名誉な事だった。
しかし現当主は『完璧な貴族』であった先代の弟であるはずなのに、何一つ似ていない。
使用人の多くは、主人である筈のアシュフォードに対して何らかの不満を抱いていた。
いつもしかめ面で、それでいて気分屋で、この2年の間にジャネットの朋輩も何人もクビになって追い出されていった。
彼女達が一体何をしたというのか。
2年前迄は先代当主が彼に睨みを利かせていたのだろう。
自分より勤めの長い先輩メイドには『アシュフォード様にはあまり関わるな』と言われていたので詳しくは知らないが、大人しく黙々と働いていたように思う。。
ジャネットは足早に花嫁を部屋に案内した。
美しくて重い、繊細な意匠の婚礼服を着ていても危なげなく歩いていて、どれだけ華奢に見えてもやはり男であるようだ。
案内したのは婚姻前、つまり昨日と一昨日に彼が使っていた客間だ。
正式に公爵夫人となったのだから、本来ならば主寝室の隣に案内するべきだろう。
多くの使用人が『公爵夫人』の部屋を整えるために奮闘していた。
しかしその実、現公爵家の使用人は誰一人として花嫁がこの部屋に相応しいとは思っていなかった。
先々代当主からネルベルク家に仕える老齢の執事長と侍女頭も、元の客間に花嫁を案内する段取りを何も言わなかったし、公爵は『世話をしろ』とだけ。
その『世話』には花嫁の『監視』も含まれているのだろうか。
この美しい花嫁は、今夜どんな目にあわされるのだろう。
花嫁衣装を脱がせながら、艶やかな白磁の背中を睨み付ける。
貴族同士の婚姻は家格が上がるほどそういうものになるものだとしても、公爵の素っ気ない態度からは花嫁への愛情は少しも感じられなかった。
いや、これは婚姻とは名ばかりの体のいい身売りで、この美しいだけの男は見目の悪い公爵に弄ばれて、飽きたらすぐに捨てられてしまうかもしれない。
きっとそうに違いないと思うと、ほんの少しすっとした。
そして、婚礼服の裾に縫い付けられていた宝石を何食わぬ顔でひとつ毟り取ってポケットに押し込める。
花嫁は今夜の事で頭がいっぱいなのか、その様子には気が付いていないようだった。
どうせお金で買われた花嫁でしょう。この男だって好きにしろと言われていたのだし。
「お食事はこちらにお持ちしますので、このままお部屋でお休みください」
言外に部屋から出るなと言い置いて、ジャネットは深々と頭を下げた。