メイドは王子様より強い
「あなたが新しくアレクシス王子様に仕えるメイドです」
その言葉が、私の運命を変えた。
まるで剣の切っ先が胸に突き刺さったかのような感覚が、一瞬だけ背筋を走り抜けた。空気中に漂う薫香の香りさえ、その時は妙に鮮明に感じられた。
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「エリン、あなたには特別な任務を与えるわ」
ミスリル王国の王宮メイド長のマーサ夫人が、厳格な表情で私を呼び出したのは、春の陽光が石畳を温め始めた朝のことだった。宮殿の奥深く、東の塔にある使用人たちの小さな応接室。窓から差し込む光が、マーサ夫人の銀色に輝く髪を優しく照らし、古い木の家具から立ち上る微かな埃の匂いが鼻をくすぐる。
「アレクシス王子様の専属メイドとして務めていただきます」
その言葉に、部屋の隅で書類を整理していた他のメイドたちの手が一瞬止まった。羊皮紙の触れ合う音まで止み、部屋に張りつめた緊張が満ちる。そして、同情の眼差しが私に向けられる。アレクシス王子様——ミスリル王国第二王子様の気難しさは、王宮中に知れ渡っていた。
「承知しました」と私は静かに答えた。自分の声が、予想外に落ち着いていることに、少し驚く。
マーサ夫人の目が少し見開かれた。耳をつんざくような金属の落下音でも聞いたかのように。おそらく、もう少し躊躇いを見せると予想していたのだろう。
「準備はいいですか?」
「はい、今すぐにでも」
私は平静を装った。けれど内心では、遠い記憶が蘇っていた。父の言葉。強く、まっすぐな背中。王家に仕える誇り。
父ローランドは王家親衛隊長として名を馳せた人物だった。五年前に病で亡くなるまで、国王陛下の影のように寄り添い、守り続けた男。私は幼い頃から、父の背中を見て育った。そして密かに——誰にも知られることなく——父から剣術を教わっていた。
「女の子が剣など振るう必要はない」と母は言った。その言葉は今でも耳に残っている。けれど、父は違った。
「エリン、いつか役に立つ日が来る。そのとき、どんな立場であれ、王家に忠誠を尽くすのだ」
父の遺言は、今も私の心に深く刻まれている。その言葉を思い出すたび、彼の手ほどきを受けた剣の握り方、その重みと冷たさが手のひらに蘇る。
王家に仕えるため、私はメイドとなった。地味な道。目立たぬ道。けれど確かに、王家の近くにいられる道。私の手を包むメイドの手袋の下には、剣で鍛えた手のひらの硬い皮が隠されている。
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アレクシス王子様の私室に案内されたとき、最初に目に入ったのは散らかった書類と、床に無造作に置かれた剣だった。部屋には朝陽が射し込み、埃の舞う光の筋が見える。複雑な香水の香りと、未開封の文書に使われた蝋の匂いが混ざり合っていた。
「新しいメイドか」
振り返った王子様の声は、予想通り冷たかった。冬に凍る湖面のような、どこか遠くをさまよう響き。彼は窓際に立ち、外の景色を眺めていた。二十三歳。私より三つ年上。金色の髪と青い瞳——確かに絵画のように美しい貴公子だった。けれど、その目には何か影のようなものが宿っていた。
「エリンと申します。本日より仕えさせていただきます」
私は丁寧に一礼した。素肌に感じる制服の生地の感触が、私を現実に引き戻す。王子は一瞥しただけで、また窓の外に目を戻した。その横顔に朝日が反射し、影と光のコントラストが彼の輪郭を際立たせている。
「まず、この部屋を片付けろ。それから昨日の訓練報告書をまとめろ。昼食は一時間後に持ってこい。茶は熱すぎず冷たすぎずだ」
次々と命令が飛んでくる。声のトーンは平坦だが、その裏に潜む緊張を私は感じ取った。試しているのだろう。新しいメイドがどこまで耐えるか。
私は黙って仕事に取り掛かった。書類を整理し、床の剣を丁寧に拾い上げる。その動作で、剣の重みが手に馴染んだ感覚が蘇った。懐かしい感触。冷たい鋼の握り心地、手のひらに伝わる重さのバランス。
剣を適切な台座に置こうとしたとき、私は気づいた。刃こぼれしている。そして手入れが行き届いていない。かつて父が毎晩丹念に手入れしていた剣とは大きく異なる扱いだ。
「剣の手入れはされていないようですね」
思わず口にした言葉に、王子様の視線が鋭く私を射抜いた。窓から差し込む光が彼の瞳に反射し、一瞬青い閃光を放ったかのようだった。
「余計なことを言うな」
その声には怒りよりも、どこか焦りのようなものを感じた。興味深い。羞恥に近い感情だろうか。彼の声が少し震えていたのは、私の気のせいではないはずだ。
昼食の準備を整え、戻ると、王子様は机に向かって何かを書き込んでいた。その横顔は真剣そのもので、先ほどの高慢な態度とは別人のようだった。筆がパピルスに走る音だけが部屋に響き、彼の集中力が生み出す緊張感が空気を満たしていた。近づくと、それが剣術の動きを記した手記だと分かった。
「失礼します。お食事をお持ちしました」
私が声をかけると、王子様は慌てて書類を隠した。羊皮紙が擦れる音がいつもより大きく聞こえる。そこに描かれていたのは、基本的な剣術の動きと、それを修正した形跡。自分の技術に自信がないのだろうか。第二王子様という立場。周囲からの期待と比較。見えない重圧が彼を押しつぶしていることが、少し理解できた気がした。
若いバラの香りがする紅茶を差し出すと、彼は微かに眉を上げた。気に入ったようだ。
その日の午後、庭園の清掃を任されていた私は、噴水の近くでひそひそと話す声を耳にした。水音に混ざって、陰謀めいた言葉が風に乗る。
「第二王子様は剣術がままならぬようだな。それが彼の弱点だ」
声の主は、よく知られた宮廷貴族、ヴァンス卿だった。青と金に彩られた豪華な衣装は、宮廷での地位を誇示するかのようだ。彼は側近と共に、木陰で密談をしていた。日差しを遮る木々の揺れる影が、彼らの顔を不規則に照らす。
「王族として致命的な欠点。これを利用しない手はない」
冷たい笑みを浮かべるヴァンス卿の姿に、私の心は警戒で固まった。父の言葉が再び蘇る。
「時に敵は、最も近くに潜んでいる」
私はメイドとして静かに仕事を続けながら、その場を後にした。春の庭に咲く桜の花びらが、私の足元でそよ風に揺れていた。これから先、アレクシス王子様の側で何が起きるのか、しっかりと見極めなければならない。
私の手は、今も剣の感触を覚えていた。冷たい鋼の触感が、まるで警告のように私の肌に残っている。
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それから三日が過ぎた。私はアレクシス王子様の日常を静かに観察していた。彼の習慣、好み、そして何より——弱点を。
朝の陽光がミスリル王宮の大理石の窓枠を照らす頃、私は王子様の朝食の準備を整えていた。パンの焼ける香りが部屋に広がり、初夏の朝の清々しい空気と混ざり合う。その合間に、窓から訓練場を眺める習慣がついていた。その日も、貴族の若者たちが集まり、朝の稽古が始まろうとしていた。鎧がぶつかる金属音と、若者たちの掛け声が、かすかに風に乗って届く。
「エリン」
振り返ると、王子様が正装に身を包み、剣を腰に下げて立っていた。いつもより姿勢が正されている。その目に決意の色が宿っているのを見て、私の心臓が一拍早く打った。
「訓練場まで付いてくるように」
意外な命令に、私は黙って頷いた。彼の表情に、何か決意のようなものが見えた気がした。不安と覚悟が入り混じるその眼差しは、私の胸に妙な高揚感を呼び起こした。
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訓練場は、朝の光を浴びて活気に満ちていた。若い貴族たちが剣を交える音が、清々しい空気に響く。汗と革の匂い、そして甲高い金属音が、この場所の活力を物語っていた。
「おや、アレクシス殿下もご参加ですか」
ヴァンス卿の息子、ジェラルドが皮肉めいた口調で声をかけた。彼の周りにいた貴族たちが、意味ありげな笑みを浮かべる。その笑みの裏に潜む薄ら寒い敵意が、私の背筋に冷たさを走らせた。
「当然だ」
王子様の声は冷静だったが、その手が僅かに震えているのを私は見逃さなかった。彼は緊張している。恐れている。その指先が微かに震え、剣を握る手に力が入りすぎているのが、私には手に取るように分かった。
訓練は、予想通りの展開となった。ジェラルドとの模擬戦で、アレクシス王子様は見事に敗北した。技術ではなく、恐怖に足を取られた形だった。剣と剣がぶつかる度に、王子様の体が強張り、リズムを失っていく。汗が額から滴り、呼吸が乱れる。
「さすが第二王子様だ。剣よりペンの方がお似合いかと」
ジェラルドの嘲笑に、周囲から忍び笑いが漏れる。その声は春の風よりも冷たく、王子様の耳に突き刺さる。遠くで見ていたヴァンス卿の満足げな表情が、私の目に入った。その目に燃える野心の炎が、不穏な予感を強める。
王子様の顔に浮かんだ屈辱の色。それは怒りというより、深い自己嫌悪のようだった。彼は何も言わず、訓練場を後にした。その背中は、王族の威厳を保とうと必死に見えた。
私は静かに従った。王子様の部屋に戻る道すがら、彼の背中は小さく見えた。朝の陽光が彼の金髪を照らし、その艶やかさと対照的な沈んだ雰囲気が、なぜか私の心を締め付けた。
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その日の午後、王子様の武器庫を掃除していた時のことだった。春の陽射しが小窓から差し込み、剣や盾に反射して、部屋の中に踊る光の粒を作り出していた。
床に置かれた剣が僅かに傾いていた。無意識のうちに、私は手を伸ばして剣の位置を正した。父に教わった通りの角度に。剣は常に刃を上に向け、正しい角度で保管する。それは父の口癖だった。「剣は主の魂。その扱いは、自分自身の扱いと同じだ」
「なぜそうするんだ」
振り返ると、王子様が部屋の入り口に立っていた。彼の声は先ほどとは違い、純粋な好奇心に満ちていた。私の動作を見ていたらしい。
「刃の重みが均等にかかるようにするためです。片側だけに負荷がかかると、長い目で見れば刃のバランスが崩れます」
言葉が自然と口から出た。剣について語る時、私の声には普段とは違う確信が宿る。王子様の目が鋭く光る。その青い瞳に、燃えるような興味が灯った。
「メイドがなぜそんなことを知っている」
逃げ場のない問いだった。王子様の呼吸が僅かに速くなったのが、静かな部屋では明らかだった。
「父から少しだけ教わりました」
「父?」
「はい。かつて城で働いていました」
それ以上は言わなかった。王子様の視線が私の顔を探るように見つめる。その瞳の奥に、何か閃くものがあった。認識か、それとも別の何かか。
「ならば、お前の知識を証明してもらおう」
王子様の口調に、私は身構えた。彼の声は低く、しかし決意に満ちていた。その声色の変化に、私の心はどきりとした。
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翌朝、再び訓練場。しかし今度は、朝日が昇る前の静けさの中だった。夜明け前の空気は冷たく、呼吸が白い霧となって漂う。訓練場に並べられた木製の人形たちが、朧な明かりの中で不気味な影を作り出していた。
「私の剣術教師と模擬戦をしろ」
王子様の命令に、老齢の教師が驚いた顔をした。メイドの服装のままの私を見て、彼の顔に戸惑いの色が浮かぶ。その目に疑いと侮りが混在しているのが分かった。
「殿下、それは…」
「命令だ」
王子様の声に迷いはなかった。彼は私を試そうとしている。あるいは、辱めようとしている。しかし、その眼差しには昨日の模擬戦後のような屈辱ではなく、何か別の感情があった。期待、あるいは希望。
教師が渋々、訓練用の木剣を私に差し出した。その手に触れた瞬間、懐かしさが全身を包んだ。木の肌触り、握りの形、重さのバランス。全てが記憶を呼び起こす。父との訓練。厳しくも温かい指導。体に染み付いた動き。
「始めなさい」
王子様の合図で、教師が動いた。彼は手加減するつもりだったのだろう。緩やかな動きで私に向かってきた。その足音は自信に満ちていた。
その瞬間、私の体が勝手に動いた。
五年間、封印していた感覚が一気に蘇る。体が覚えていた。血が覚えていた。筋肉の一つ一つが、父の教えを思い出したかのように、完璧な調和で動いた。
三秒と経たないうちに、教師の木剣は宙を舞い、私の剣先が彼の喉元に向けられていた。その時の感覚は鮮明だった。自分の呼吸、相手の驚きに見開かれた瞳、そして背後で見守る王子様の存在。全てが一つの絵のように脳裏に焼き付いた。
訓練場に静寂が広がる。朝露の香りだけが、空気中に漂っていた。
王子様の目が見開かれていた。そして、その瞳に浮かんだのは怒りではなく——驚きと、何か別の感情だった。尊敬、そして希望。その眼差しを受け、私の胸は暖かくなった。
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「父はかつて王家に仕えていたと言ったな」
王子様の私室に戻ると、彼は穏やかな声で尋ねた。窓から差し込む朝日が、部屋を金色に染めている。怒りに任せた命令を下すと思っていた私には、この静かな口調は意外だった。
「はい」
「彼の名は?」
「ローランド・カヴァリエ」
名前を言った瞬間、王子様の顔色が変わった。彼の唇が微かに震え、瞳に驚きの色が広がる。
「王家親衛隊長だったローランド卿の…娘?」
「はい」
静寂が部屋を満たす。アレクシス王子様は窓辺に歩み寄り、遠くを見つめた。その横顔に朝日が射し、彼の整った顔立ちを浮き彫りにしていた。
「私が幼い頃、彼は時々、私たち王子様にも剣の手ほどきをしてくれた。優しい人だった」
意外な言葉に、私の胸に温かいものが広がった。父を覚えていてくれたのだ。あの頃の、子供たちに囲まれ、優しく微笑む父の姿が脳裏に浮かぶ。その記憶が、突然鮮明によみがえった。
「なぜメイドに?」
「父の遺志です。どんな立場であれ、王家に忠誠を」
王子様は長い間黙っていた。窓から見える王宮の庭には、早咲きの桜が風に揺れていた。その花びらが舞う様子を、彼はじっと見つめていた。そして突然、決意に満ちた声で言った。
「私に剣を教えてくれ」
その言葉に、私は一瞬、耳を疑った。王子様の声に含まれる切実さが、私の心に響いた。
「殿下?」
「秘密の訓練だ。誰にも知られず、私を強くしてほしい」
彼の青い瞳に、真摯な願いが浮かんでいた。その瞳は今、朝の空のように澄んでいた。そこに見えるのは、純粋な決意だけ。高慢さも、焦りも見当たらない。
「私は…第一王子様のように生まれつき剣の才能に恵まれていない。だが、弱いままではいられないんだ」
初めて見る、王子様の素直な姿。仮面の下に隠されていた本当の顔。その表情に、私は心を動かされた。彼の指が窓枠を強く握りしめ、その手に力が入るのを見て、私は彼の真剣さを感じた。
「一つ条件があります」と私は言った。
王子様の目が驚きに見開かれる。メイドが王子様に条件とは。彼の呼吸が一瞬止まったのが分かった。
「私をメイドとしてではなく、一人の指導者として敬意を持って接してください。訓練の間だけでも」
長い沈黙の後、彼はゆっくりと頷いた。朝日を背にした彼の姿は、凛として見えた。
「約束する」
その瞬間、二人の間に何かが生まれた気がした。単なる主従を超えた、新しい絆の始まり。彼の声に込められた誠実さに、私の心は軽く震えた。
こうして、私たちの秘密の訓練が始まった。
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夜明け前の静寂の中、王宮の古い塔の一室。使われなくなった兵器庫を、訓練場として使うことにした。壁に掛けられた古い武具から漂う金属と革の匂い、床から立ち上る埃、そして早朝の澄んだ空気が混ざり合う。
「基本姿勢から見直します」
私は厳しい口調で言った。この場所では、私はもはやメイドではない。父の娘として、剣術の師として立っていた。
「今のあなたの立ち方では、重心が後ろに傾きすぎています。それでは防御に固執するしかなく、反撃の機会を逃します」
王子様は素直に私の指示に従った。普段の高慢な態度はどこにもない。彼の真摯な眼差しに、私は父の面影を見た気がした。同じ瞳の輝き、同じ決意の色。
「こうですか?」
彼が姿勢を正すと、私は彼の腕に触れ、微調整を行った。その時、彼の肌から伝わる温もりに、一瞬戸惑いを覚えた。メイドでありながら、王族に触れるという不思議な状況。しかし、この空間では私たちは師弟だ。
「あなたはジェラルドより体格で劣りますが、それは必ずしも不利ではありません。小柄な方が動きは俊敏になります」
毎朝の訓練。王子様の汗。そして、少しずつ変わっていく彼の姿勢と目の輝き。刀を振る彼の動きが日に日に洗練されていくのを見るのは、不思議な喜びをもたらした。彼の小さな成功に、私自身が心から嬉しく思う自分がいた。
時には厳しく、時には励ますように。父が私にそうしてくれたように、私は王子様に接した。最初は、単なる師弟関係だった。しかし、日を追うごとに、何か別のものが芽生え始めていることに気づいていた。彼の真剣な眼差しに、私の心が奪われる瞬間が増えていった。彼の汗に濡れた前髪、集中する姿、わずかな進歩に見せる嬉しそうな表情。それらすべてが、私の中に新しい感情を育てていった。
訓練の合間の休憩時間。彼が水を飲む横顔を見つめる私。その気持ちに名前をつけることを、私はまだ恐れていた。
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「お前の父は、どんな人だったんだ?」
訓練を終えた後、汗を拭いながら王子様が尋ねた。彼の息は少し荒く、頬は運動で上気していた。これまで、彼が私の個人的なことを聞くことはなかった。その質問に、私は少し驚きながらも、心が温かくなるのを感じた。
「強く、優しく、そして何より、誠実な人でした」
父の記憶が鮮やかに蘇る。朝霧の中での訓練、夕暮れ時の帰り道に語ってくれた物語、大きな手のひらの温もり。
「彼は言っていました。『剣は人を守るためにある。傷つけるためではない』と」
王子様は黙って聞いていた。彼の瞳に、何か思索めいたものが浮かぶ。窓から差し込む夕日が、彼の横顔を赤く染めていた。
「あなたはなぜ、そこまで剣に執着されるのですか?」
大胆な質問だった。だが、この二週間の間に、私たちの間には不思議な信頼関係が生まれていた。師弟を超えた、何か別の感覚。互いを理解し合おうとする姿勢。
「第一王子様は、生まれながらの才能の持ち主だ。政治も戦も、彼には向いている」
王子様の声は静かだった。その言葉の奥に、長年の葛藤が見え隠れする。
「私は…そうではない。だから証明したいんだ。自分にも価値があると」
その言葉に、心が揺さぶられた。表面的な高慢さの下に隠された、彼の本当の姿。不安と焦り。そして諦めない心。彼の素直な告白に、私の胸は切なくなった。
「あなたには、剣以外の才能もある」
思わず口にした言葉に、王子様は驚いた顔をした。夕日に染まる彼の表情に、少年のような無防備さが見えた。
「あなたの書いた政策提案書を読みました。とても洞察に富んでいました」
掃除の際に見かけた書類のことだ。民の生活を改善するための細やかな提案が並んでいた。それは剣とは別の才能、民を思いやる優しさと鋭い洞察力の証だった。
「それは…見るべきではなかったものだ」
王子様は少し赤面した。その頬の薔薇色が、私の心をくすぐった。
「王族の価値は、ただ剣の強さだけでは測れません」
私の言葉に、彼は初めて柔らかい笑顔を見せた。それは、朝日が雲間から差し込むような、温かな光だった。彼の心が少し解放されたかのような、純粋な微笑み。その笑顔を見た時、私の中で何かが変わったのを感じた。師弟以上の、特別な感情が芽生えていることを、もはや否定できなくなっていた。
「ありがとう、エリン」
彼が初めて私の名を呼んだ。その声音に、私の心臓は早鐘を打った。
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春の訪れとともに、王宮では儀式の準備が始まっていた。春分の日に行われる伝統行事。王族が剣術の模範演武を披露する場でもある。ミスリル王国の重要な祭典で、国中から貴族や民が集まる一大イベントだ。
宮殿内は華やかな装飾で彩られ、新しい制服に身を包んだ従者たちが忙しく行き交う。空気自体が祝祭の高揚感に満ちていた。
「アレクシス王子様は儀式で何か失態を演じるだろう」
廊下で、ヴァンス卿の側近たちがひそひそと話す声が聞こえた。その声には底意地の悪い期待が滲んでいた。
私の警戒心は日に日に強まっていた。王子様の周囲での不審な動き。入れ替わる衛兵たち。そして、ヴァンス卿の満足げな笑み。全てが、暗い影のように王子様を取り巻いていた。
全てが、春の儀式に向かって進んでいくようだった。桜の花びらが舞う光景は美しく、しかし、その美しさの裏に潜む危険を私は感じ取っていた。
「もうすぐ儀式ですね」
訓練の合間に、私は王子様に言った。早朝の光が、古い武器庫の埃っぽい空気に金色の筋を作り出していた。
「ああ」
彼の表情には、以前のような恐れはなかった。代わりに、静かな決意が宿っていた。この数週間の訓練の成果だ。彼の立ち姿は確かに変わった。自信を持ち、背筋を伸ばし、目に力が宿っている。
「私は…見ています」
言葉にならない思いを、そう伝えた。応援したい、守りたい、あなたの成長を見たい。そんな複雑な感情を込めて。王子様はじっと私を見つめ、微笑んだ。その笑顔に、私の心は高鳴った。
「わかっている。お前がいてくれるから、怖くはない」
彼の言葉に、私の心は揺れた。師弟の絆を越えた何か。メイドと王子様。越えられない壁があるはずなのに。しかし、彼の瞳に映る私の姿は、単なるメイドではなく、一人の女性として見つめられているようだった。
窓から差し込む夕日が、二人の間に長い影を落としていた。その影の中で、私たちの気持ちは確かに通じ合っていた。
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春の儀式の朝が訪れた。
薄明の光が私の小さな部屋の窓から差し込み、静かに目を覚ました私の心は、不思議なほど穏やかだった。今日という日を、ずっと前から予感していたかのように。窓の外から聞こえる鳥のさえずりと、遠くで準備に忙しい人々の話し声が、新しい一日の始まりを告げていた。
父の遺した剣を取り出し、静かに撫でる。鞘から半分だけ抜いた刀身に朝日が反射し、一瞬眩いほどの光を放った。「今日こそ、あなたの教えを活かす時かもしれません」と心の中でつぶやいた。冷たい鋼に触れる指先から、父の存在を感じた気がした。儀式では給仕を担当することになっていたが、父の教えを思い出し、私は肌着の下に薄い革の胸当てを装着した。その感触が肌に馴染み、妙な安心感をもたらした。
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ミスリル王宮の大広間は、春の花々と貴族たちの華やかな衣装で彩られていた。窓から差し込む陽光が、床に敷き詰められた赤い絨毯を鮮やかに照らしている。甘い花の香りと、貴族たちの香水の香りが混ざり合い、祝祭の雰囲気を一層高めていた。
儀式は厳かに始まった。国王陛下の挨拶、第一王子様の演武。そして——アレクシス王子様の番が近づいていた。緊張感が会場に満ち、私の胸の鼓動も次第に速くなる。
給仕の合間に、私はヴァンス卿の動きを注視していた。彼の側近たちが、妙に落ち着かない様子で広間の四隅に配置されている。不自然だ。彼らの手が、常に装飾的な袖の中に隠れていることに気づいた。そこに隠された武器の存在を、私は直感的に感じ取った。
アレクシス王子様が広間の中央に現れた時、私の心臓が高鳴った。これまでとは違う威厳が彼から感じられた。背筋をまっすぐに伸ばし、凛とした表情で剣を構える王子様の姿に、広間からささやきが漏れる。その姿は、まさに王族の風格そのものだった。
彼の演武が始まった。
私たちが密かに練習してきた動き。基本に忠実でありながら、彼自身の個性が光る剣さばき。流れるような動きと、一瞬の鋭さが絶妙に組み合わさり、見事な調和を生み出していた。剣が空気を切る音だけが広間に響き、観客からは驚きの声が上がる。あの不器用だった第二王子様が、こんなにも流麗な剣術を披露するとは。
静かな誇らしさが私の胸を満たした。彼の成長を間近で見てきた者として。そして…もっと個人的な、複雑な感情も。心の奥で、「これが本当のあなたです」と呟いていた。
演武の最後の動きに入った時、それは起きた。
王子様の足元から突然、床板が割れ、仮面をつけた男が飛び出してきた。木材が砕ける鋭い音と共に、広間が悲鳴に包まれる。恐怖と驚きが入り混じる叫び声が、王宮の天井に響き渡った。
「殿下!」
私の声が、自分でも驚くほど響き渡った。その瞬間、時間がゆっくりと流れるように感じた。
アレクシス王子様は、身構えるのに一瞬遅れただけだった。訓練の成果だ。彼は侵入者の最初の攻撃を見事に受け流した。剣と剣がぶつかる金属音が、鋭く広間に響いた。
しかし、それは始まりに過ぎなかった。
広間の別の場所からも、仮面の男たちが現れた。計画的な襲撃。そして、その混乱に乗じて、ヴァンス卿が王子様に近づいていくのが見えた。彼の袖から何かが光る——短剣だ。その鋭い刃に広間の燭台の光が反射し、不吉な輝きを放っていた。
「もう迷いはない」
私は手にしていた銀の給仕盆を床に落とした。その音が広間に響き、一瞬、全ての動きが止まったように感じた。金属が大理石の床に当たる鋭い音が、時間の流れを分断したかのようだった。
その隙に、私は走った。
父から教わった全ての技術を解き放ち、私は最短距離で王子様の元へ。制服のスカートが風を切る音がする。途中、給仕用のナイフを手に取り、それを武器に変えた。その感触が手に馴染み、身体が自然と剣士の姿勢をとる。
アレクシス王子様は複数の刺客と戦っていた。彼は私の教えを活かし、見事に身を守っていた。汗が彼の額から滴り、呼吸は荒いが、目は冷静さを失っていない。だが、背後から忍び寄るヴァンス卿には気づいていない。
「後ろです!」
私の警告と同時に、私の体が動いた。メイドの服が風を切る音。ドレスの裾が舞い上がる。私は空中で一回転し、ヴァンス卿と王子様の間に滑り込んだ。回転する瞬間、世界がスローモーションのように見え、全ての感覚が鋭敏になった。
ヴァンス卿の驚愕の表情。そして、彼の短剣が私の持つナイフで弾かれる金属音。火花が散り、鋭い衝撃が私の腕を走った。
「メイド?!」
彼の混乱を利用し、私は父直伝の技で短剣を弾き飛ばした。続けざまに回し蹴りを放ち、ヴァンス卿は床に倒れ込む。彼の体が大理石の床に叩きつけられる音が、満足感を持って私の耳に届いた。
周囲から驚きの声が上がる。一介のメイドが、どうしてこのような技を? 髪が乱れ、制服が風で揺れる私の姿を、貴族たちは信じられない表情で見つめていた。
アレクシス王子様も振り返り、一瞬呆然としていたが、すぐに我に返った。私たちは背中合わせになり、残りの刺客たちに立ち向かった。彼の温かい背中が私の背に触れ、心強さと同時に不思議な親密さを感じた。
「信じられないな、エリン」
王子様の声には、驚きと共に笑みが含まれていた。戦いの最中にもかかわらず、彼の声には明るさがあった。
「私も自分でも信じられません」
応える私の口元にも、不思議な解放感からか、微笑みが浮かんでいた。長い間隠してきた自分の力を、ついに解放できた喜び。そして、彼と共に戦う満足感。
衛兵たちが到着するまでの短い時間、私たちは共に戦った。王子様と一介のメイド。しかし、その時、私たちは対等の戦士だった。息づかいを合わせ、互いの動きを読み、絶妙のタイミングで攻撃と防御を繰り広げた。まるで長年の戦友のように。
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儀式の混乱から三日後、私は国王の謁見室に呼ばれた。
重厚な彫刻が施された扉を開けると、そこには荘厳な空間が広がっていた。床から天井まで続く窓からは、王都の景色が一望でき、春の陽光が部屋全体を明るく照らしていた。
心臓が激しく脈打つ中、私は父が何度も立った場所に立っていた。国王の玉座に向かい、ゆっくりと一歩一歩進む。靴底と大理石の床が触れる音が、緊張感を高める。
国王は穏やかな目で私を見つめられた。その目は深く、知恵に満ちていた。
「エリン・カヴァリエ。ローランド卿の娘よ。なぜ、その力を隠していたのだ?」
真実を語る時が来たのだ。私は深く息を吸い、父の教えを思い出した。
「父の遺志でした。どんな立場であれ、王家に仕えること。目立たぬよう、静かに見守ること」
国王はゆっくりと頷かれた。彼の目に理解の色が浮かぶ。
「忠誠心と勇気を称えよう。あなたの父は、私の親友でもあった。彼の娘が、また王家を救ってくれるとは」
その言葉に、私の心は温かさで満たされた。父の友人である国王から、このような言葉をかけられるとは。
そして、意外な言葉が続いた。
「アレクシスがある提案をしてきた。親衛隊に女性を加えることが前例のない話ではあるが…」
私の心が躍った。親衛隊——父の歩いた道。その可能性に、私の血が高鳴るのを感じた。
「もっとも、アレクシスはそれ以上のことを望んでいるようだが」
国王の目に、温かい笑みが浮かんだ。その言葉の意味を理解した瞬間、私は頬が熱くなるのを感じた。心臓が早鐘を打ち、手の平に汗がにじむ。国王の慈愛に満ちた目が、全てを理解しているかのようだった。
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王宮の庭園。桜の花弁が、静かに舞い落ちる中、アレクシス王子が私を待っていた。薄紅色の花びらが風に舞い、その一部が彼の金髪に留まっている。その光景は絵画のように美しく、この瞬間を永遠に記憶にとどめたいと思った。
もはやメイドの服ではなく、王家親衛隊の制服に身を包んだ私を見て、彼の顔に笑みが広がる。制服の生地は新しく、まだ体に馴染んでいないが、不思議な誇りを感じさせてくれた。
「似合うよ、エリン」
「ありがとうございます、殿下」
「いつもの名で呼んでくれていい。少なくとも、二人きりの時は」
風が吹き、桜の花弁が私たちの間を舞った。その一瞬が永遠のように感じられた。
「これからどうなるのでしょう…アレクシス」
彼の名を呼ぶのは、まだ慣れない。舌の上で不思議な感触をもたらす彼の名を発することに、密やかな喜びを感じた。
「それは、あなた次第だ」
彼が一歩近づいた。その瞳には、今、迷いのない輝きがあった。
「父上は、前例のないことだと言った。だが、前例を作るのは、私たちの役目でもある」
王子と元メイド。越えられない壁があるはずだった。しかし、儀式の日、共に戦った時、私たちはその壁の向こう側を垣間見たのかもしれない。彼の言葉に、私の心は確信で満たされた。
「父が見ていたら、何と言うでしょう」
「誇りに思うだろう」
彼の声は確信に満ちていた。その声の温かさが、春の陽光のように私を包んだ。
「あなたのように直接戦う王族の妻となり、共に国を守る。ローランド卿は、それを誇りに思うはずだ」
妻——その言葉に、胸の奥が熱くなる。心臓の鼓動が耳に響くほど強くなり、頬が熱を持つのを感じた。
桜の木の下で、アレクシス王子は私の手を取った。その手は、剣を握る時と同じく、力強く温かだった。彼の手のひらが私の手を包み込む感覚に、安心感と高揚感が入り混じった。
「返事はすぐに求めない。だが、覚えておいてほしい。あなたは私より強いかもしれないが、私の心はあなたに完全に敗れている」
その言葉に、私の目から涙がこぼれた。温かいものが頬を伝い落ちる感覚。風が桜の花びらを舞い上げ、私たちの周りを包み込む。
誰にも見えない場所で、密かに芽生えた感情。それはいつしか、桜の花のように美しく咲き誇っていた。毎朝の訓練、互いの成長を見守った日々、共に戦った瞬間——全てが今、この場所につながっていた。
剣と忠誠と愛。父が教えてくれた全てのものが、この瞬間につながっていたのだと思う。
メイドは王子より強いかもしれない。しかし、二人の力が一つになったとき、どんな敵も恐れる必要はない。
そう、私は確信していた。
## エピローグ
ミスリル王国の歴史書に、初めて女性親衛隊長の名前が刻まれたのは、アレクシス王子との結婚から三年後のことだった。
王宮の訓練場では、今日も若い剣士たちが汗を流している。その中心で指導するのは、かつてメイドだった女性。そして、彼女の隣で共に指導するのは、国政の合間を縫って訓練場に立つ王子だ。
「もっと軸をしっかりと。剣は単なる武器ではなく、心の延長だ」
エリンの声が、朝の訓練場に響く。彼女の指導は厳しいが、公平で温かい。その眼差しには父親譲りの優しさと、自分自身の強さが宿っている。
「各々の強さがある。重要なのは、それを見つけること」
アレクシスの言葉に、若い剣士たちは真剣な表情で頷く。かつての臆病な第二王子は、今や国内外から尊敬される存在となっていた。剣の腕前は一流とまではいかずとも、その政治的手腕と民への慈愛は、多くの人々の心を掴んでいた。
訓練の後、二人は宮殿の庭を歩く。満開の桜の下、共に歩む姿は絵のように美しい。
「おかしいな」とアレクシスが言う。「最初は私が教えを請うていたのに、今では二人で教えている」
エリンは微笑む。「それが私たちの強さです。互いを補い合うこと」
彼らの足元で、四歳になる王女が桜の花びらを追いかけて走り回っている。彼女の手には小さな木剣。その姿に、夫婦は温かい視線を送る。
「彼女には、自分の道を選ばせたい」アレクシスの声に、父としての愛が満ちている。
「ええ。どんな道を選んでも、私たちは見守るでしょう」エリンは娘の姿に、かつての自分と父の姿を重ねていた。
風が吹き、桜の花びらが舞い上がる。その光景は、あの日の告白の場面を思い起こさせる。
メイドは王子より強かったかもしれない。だが今、彼らは共に歩み、共に成長し、共に王国を守っている。それは父が教えてくれた究極の忠誠の形。
そして、互いへの深い愛の証だった。
桜の花びらが、三人の周りを優しく舞い続けていた。
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