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<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔ガールズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

終わりの戦場で君と

作者: SHIPPU

 蒼井楓は、硝煙で鈍く光る銃身に頬を寄せた。

 12.7mmの反器材狙撃銃。彼女の肌は鉄の冷たさに慣れている。いや、正確には「感じなくなっている」と言うべきか。この三年間、銃を抱えて眠る日々で、体温というものを忘れた。


「アルファポイント、異常なし」

 無線の雑音が耳を掻く。スコープ越しに見える廃墟の街は、常に薄墨色に霞んでいる。崩れたビルから垂れ下がる鉄骨が風に呻き、遠くで爆発音が地鳴りのように響く。彼女は無意識に左手小指を噛んだ。鉄錆の味がした。


「蒼井、そちらは?」

 隊長の声に、彼女は機械的に答える。

「影の動き、静止中。推定数20」

「了解。15分後にCルートで撤収だ」


 指先で弾丸の数を確認する。残り18発。必要ならば18の死を分配できる。楓は硝子のように乾いた目で、500m先の道路を横切る影の頭部を追った。灰色の皮膚が剥がれ落ちた頬、眼球が溶け出した穴――感染者が「人間だった痕跡」は、彼女の引き金を引く理由にはならない。


 風向きが変わった。

 突然、腐った果実のような甘い臭いが鼻腔を刺す。彼女の瞳孔が収縮する。この匂いは――


「全員注意!第二種変異体が混じっている!」

 無線が悲鳴のように炸裂する。次の瞬間、彼女のスコープに映った影の群れが不自然に痙攣し始めた。背骨が蛇のようにうねり、四肢が蜘蛛の脚のように伸びる。


「くそっ…!」

 楓が狙撃銃を構え直す刹那、背後で砂利が軋む音がした。

 彼女は反射的に側転し、脇差しを抜く。しかし、そこにいたのは人間だった。


 白いコートの裾が泥まみれの床を撫でる。長い黒髪の女性が、楓に向けて驚いたように目を見開いている。胸元の名札に「桜庭 葵」とある。


「危ない場所だ」楓は刃を収め、再びスコープを覗いた。「医者は地下シェルターに」


「でも、あなたの腕が……」

 葵の指差す方向に、楓は初めて左腕の裂傷に気付いた。どうやら鉄筋で擦ったらしい。黒い軍服が血を吸っている。


「死ぬ傷じゃない」

「放置すれば敗血症になりますよ」


 葵は躊躇いなく近寄り、医療キットを開いた。消毒液の匂いが戦場の腐臭を一時的に覆う。楓は眉をひそめた。この女、危機感がなさすぎる。


「なぜ戦場に?」楓が冷たく問う。医師の指先が傷口を縫合する感触が、奇妙に生暖かい。


「私の姉が…このウイルスの研究者だったから」

 葵の手が微かに震えた。

「彼女が遺したデータを完成させたいの」


 無線がけたたましく鳴る。

「緊急事態!変異体が北西ルートを突破!」


 楓は医療キットを蹴り飛ばし、銃を肩に担いだ。「撤収だ。ついて来られるか?」


 葵は青い顔で頷く。彼女のコートの裾には、変異体の粘液が飛沫のように付着していた。


 廃墟の廊下を疾走する足音が不協和音を奏でる。楓は3歩ごとに振り返り、葵が脱落してないことを確認する。医師の呼吸が乱れている。非戦闘員の足では、このペースは酷だろう。


「遅れるなら置いていく」

「…平気…よ」


 階段を下りきった時、変異体の吠え声が頭上で爆発した。天井のパネルが崩落し、楓は葵を壁際に押し倒す。鋭い鉤爪が彼女の肩甲を掠め、血しぶきが葵の顔に跳ねた。


「走れ!」

 楓が葵を突き飛ばす。変異体の牙が床を穿つ。彼女は狙撃銃を捨て、セカンダリーを引き抜いた。至近距離での轟音が鼓膜を破り、肉片が壁に貼り付く。


「楓さん!」

 葵の悲鳴が背中を押す。楓は変異体の屍を跨ぎ、医師の手を引っ張った。その掌に、生きている人間の汗を感じた。


 地下通路の分岐点で楓は立ち止まる。左は最短ルートだが瓦礫で塞がれている。右は燃料貯蔵庫経由の危険な迂回路だ。


「右だ」彼女は消火器を蹴り飛ばした。「30秒遅れる」


 葵の足が竦む。燃料貯蔵庫の扉からは、黒い液体が床を這っていた。変異体の体液とガソリンが混ざり、毒煙のような蒸気が立ち上る。


「目を閉じろ」

 楓は閃光弾を投げ込む。爆発と同時に走り出す。熱風が首筋を焼き、葵のコートが焦げる臭いがした。


「あと…100メートル…!」

 楓の叫びが咽喉で砕ける。前方から新たな影の群れが現れた。銃を構える腕が重い。弾丸残数4。


 葵の手が突然、楓の軍服の背中を抓んだ。

「ダメ…!あの子たち…!」


 楓は目を見開いた。影の群れの中央に、小さな人影が佇んでいる。赤いリボンのついたワンピース。


 感染者となった少女が、ぐにゃりと首を傾げていた。


「撃てないの…?」葵の声が震える。「まだ…人間に見えるから…?」


「バカが」楓は銃口を上げた。「感情など」


 引き金を引く指が、1/100秒だけ止まった。

 その隙に、変異体の触手が葵の足首を巻いた。


「――ッ!」

 楓がナイフを投擲する。触手が切断され、葵が床に崩れ落ちる。少女の影が笑いながら襲いかかる。


 弾丸が正確に頭蓋骨を貫く。

 赤いリボンが舞い上がり、楓は空の薬莢を踏みつぶした。


 撤退用トラックのエンジン音が近づく中、葵が楓の袖を引く。

「あの子…撃たなくても…」


「撃ったのは『それ』だ」楓は銃を分解し始めた。「人間じゃない」


 トラックの荷台で、楓は初めて自分の手の震えに気付いた。葵が黙って包帯を巻き直す指先が、なぜか痛々しく見えた。


「…撃つ時」葵が囁くように言った。「楓さん、ずっと息を止めてるね」


 楓は窓外の廃墟を見つめたまま答えた。

「生き残る技術だ」


「でも、苦しそう」


 トラックが激しく揺れた。葵の額が楓の肩に触れる。彼女はすぐに距離を取ったが、戦場では珍しい洗剤の匂いが、鉄臭い空気に混ざって残った。


 隊長が運転席から叫んだ。

「今日のMVPは蒼井!だが医者を危険に晒した分、今夜の酒はお前がおごりだ!」


 楓は苦々しく舌打ちした。隣で葵がくすりと笑う。

「私は…お酒強いですよ?」


「飲むな」


 夕焼けが血のように車内を染める中、楓は気付かなかった。

 自分が銃の手入れをしながら、無意識に葵の安否を視界の端で確認していることに。


 ——————————————————————————


 基地の地下医療室は、常に蛍光灯の痙攣する音に満ちていた。

 楓がドアを蹴開けた時、葵がストレッチャーの上で朦朧と目を開けていた。点滴のチューブが鎖のように腕に絡まり、青白い肌に生気が戻りかけている。


「72時間の観察終了」

 楓は書類をベッド柵に叩きつけた。紙片が舞う隙間に、葵の指がそっと彼女の袖に触れる。


「心配してた?」

「任務だ」楓は触れた部分を振り払う。「お前が持つデータが戦略上重要と判断された」


 嘘だった。実際には司令室で3回も観察解除を迫り、ついに医務官を拳で壁に押し当てた挙句、強引に引き取りに来たのだ。葵はそのことを知っているように微笑み、ゆっくりと起き上がった。


「姉さんのデータ…見せてあげる」

 彼女が取り出したUSBメモリは、戦闘で凹んだ痕が痛々しい。楓はモニターの前に立ち、暗号解除を待つ間、背後で咳き込む葵の息遣いに神経を尖らせていた。


 スクリーンに浮かび上がった分子構造図が、楓の目を揺さぶった。

「これは…」

「ウイルスのコアタンパク質」葵の指が波形グラフを追う。「姉さんが発見した『光』の粒子…これを増幅できれば…」


 突然、警報が鳴り響いた。

『変異体群を確認。第3防衛ライン突破。全戦闘要員、直ちに配置につけ』


 楓は即座に銃を手に取った。しかし、葵の手が彼女のベルトを掴む。

「私も」

「ダメだ」

「このデータ解析には現場サンプルが必要」葵の目が熱を帯びる。「楓さんが守ってくれるなら…!」


 司令室のドアが爆破音と共に吹き飛ぶ。隊長が血相を変えて叫ぶ。

「蒼井!お前のチームで西ゲートを死守しろ!医者は…」

「同行させろ」楓が遮った。「戦力にする」


 隊長は葵のUSBメモリを見て、歯軋みした。

「60分だ。その後はこいつの頭蓋骨ごと燃やす」


 装甲車の車内で、葵が楓の防弾チョッキを調整する。消毒液の匂いが弾薬の油臭に混ざる。

「生存率82%…でも、心拍数が通常より12%上昇してる」

「余計なことを」楓は窓外を見つめた。


 夜の戦場は悪夢そのものだった。紫色に発光する変異体の血管が地面を這い、廃ビルの窓ガラスに映る月が不気味に歪む。楓は葵を車両中央に置き、4人の隊員で囲んだ。


「移動中に三つ約束を守れ」楓が葵に銃を渡す。「一つ、絶対に離れるな。二つ、撃つ時は目を閉じろ。三つ…」

 彼女の声がわずかに澱む。

「…私が死んでも、振り返るな」


 突撃開始の合図と共に、地獄が始まった。


 変異体の触手が装甲を削り取る音。隊員の絶叫。楓は葵を壁際に押し付けながら、両手の銃口から火の粉を撒き散らす。曳光弾が跳ねる光の中、葵が叫ぶ。


「11時方向!発光箇所が弱点です!」

 楓が指示通りに撃つ。変異体の核が爆ぜ、蛍光色の体液が天井に飛沫する。


「次は…」

「下だ!」

 楓が葵を抱えてジャンプする。床を貫いた触手が、彼女のブーツの踵を削り取る。


 二人の呼吸が同期し始める。楓の戦術と葵の解析が融合し、次第に戦況が好転していく。隊員たちが驚異的な生存率を維持していることに気付き始めた時――事件は起こった。


「蒼井!東側防衛線が崩壊した!」

 無線からの叫びと同時に、天井ダクトが蛇のように蠢き始めた。楓が葵を投げ飛ばす。


「逃げろ!」

 巨大な口器が楓の立ち位置を飲み込む。葵の悲鳴。硝煙の中、楓が変異体の消化器内部からショットガンを撃ち抜く。肉壁が爆裂し、彼女が血まみれで這い出てくる。


「楓さん…!」

 葵が駆け寄ろうとするのを、楓は銃床で制止した。

「触るな」彼女の右腕を覆う紫色の粘液が、ゆっくりと皮膚を侵食していた。「…感染した」


 隊員たちが後ずさる。葵だけが前へ出る。

「消毒剤を…!」

「遅い」楓が冷静に左手で安全装置を外す。「標準手順に従い、私を処分せよ」


 葵の瞳に涙が浮かぶ。彼女は楓の銃口を自分の額に押し当てた。

「それなら私も」

「馬鹿か!」

「姉さんの研究…あなたの抗体が鍵かもしれない!」


 変異体の咆哮が近づく。隊員の一人が叫ぶ。

「隊長!こいつら撤退を始めやがった!」


 楓の腕の紫色が脈打つ。葵が顕微鏡で細胞サンプルを確認する手が震える。

「…増殖速度が通常の1/10…楓さん、あなたの血液に何か…!」


 装甲車の爆発が二人を吹き飛ばす。楓は本能的に葵を庇い、背中に熱風を食らった。


 転がり込んだ瓦礫の陰で、葵が楓の防弾チョッキを剥がす。

「出血してる…!」

「構うな」楓の唇から血が零れる。「今すぐ私を撃て」


 葵の涙が楓の傷口に落ちる。

「私が必ず救う…姉さんが遺した光を…楓さんが教えてくれた戦い方を…!」


 その時、楓の腕の紫色が突然褪せ始めた。葵が顕微鏡を覗いた息が止まる。

「ウイルスが…不活性化してる…?」


 遠くで轟音が響く。変異体の群れが奇妙な律動で撤退を始めていた。楓の血液サンプルがモニターで淡い光を放つ。


「分かった…」葵が楓の手を握る。「楓さんの体内で抗体が…!」


 しかし喜びは刹那で消えた。楓が銃で葵の眉間を押しつけた。

「離れろ」彼女の目が充血している。「今の私を…信じるな」


 変異体の血が楓の神経を侵していた。理性と本能がせめぎ合う。葵がゆっくりと楓の銃口に額を押し当てる。


「信じてる」

「なぜ…!」

「だって…」葵の微笑みが闇を裂く。「楓さんが、私を投げ飛ばす時に…手の平で頭を守ってくれた」


 楓の視界が揺れる。記憶の断片が甦る――確かに、あの瞬間、医者の脳みそが潰れないよう、意識的に手の角度を調整していた。


 弾薬切れの警告音が銃から鳴る。楓が虚脱状態で膝をつく。葵が彼女の汗まみれの前髪をそっと撫でる。


「大丈夫…」

「…油断するな」楓の呟きは、既に拒絶ではなくなっていた。「お前は…本当に…厄介な女だ」


 夜明け前の闇が、瑠璃色に変わり始める頃――

 二人の影が一つになった瓦礫の山で、楓は気付かなかった。自分の傷口から滴る血が、砂地に落ちた瞬間、微かな青い光を放っていることを。


 ——————————————————————————


 実験室の青白い照明が、楓の裸の背中に刑務所の鉄格子のような影を落としていた。

「耐えて」葵の声が震える。注射器の針が楓の脊椎の間に突き刺さる。彼女の背筋が痙攣し、拘束具が軋んだ。


 司令室のモニター越しに、将軍たちが饗宴のような視線を送る。

『驚異的な抗体生成速度だな…こいつを量産できれば』

 電子音のような笑い声が、防音壁にぶつかって跳ね返る。


 葵の涙が楓の背中で砕ける。

「ごめん…ごめんなさい…」

「…お前の手は」楓の喘ぎ声が床を這う。「…震えてるぞ」



 深夜3時。非人道実験の合間に訪れる奇妙な休息時間。監視カメラの死角で、葵が楓の独房に忍び込む。白衣のポケットから変形したチョコレートを取り出す手が震えている。

「西側廃棄物搬入口…明後日の夜…」

「何度言えば」楓が壁の黴を剥がす。「お前の未来に死人はいらん」


 突然、警報が鳴り響く。二人の影が分断されるように赤い警告灯が点滅した。

 葵が闇に消える直前、楓は彼女の手首に残った注射針の痕を見た。自分と同じ量の実験薬物を、密かに体で確かめていたのだ。


 次の検体抽出時、楓は意図的に暴れた。

「制御不能!鎮静剤を!」

 研究者たちが殺到する隙に、葵が実験データのハードドライブをスワップした。モニターに映った偽りの数値が、将軍たちの怒号を誘う。


『抗体濃度が急低下!』

『このクソ野郎…!』


 夜の2時。死体運搬車の腐臭にまぎれ、二人は地下水路へ潜る。

 葵の懐中電灯が、壁に這う変異体の卵嚢を照らす。楓は無言で銃の安全装置を外した。


「500メートル先に出口が」葵の指先が地図をなぞる。「でも、ここは…」

「産卵場だ」楓のサバイバルナイフが粘液を斬る。「変異体の巣」


 水の滴る音が不自然に響く。楓が葵を背後に護りながら前進する。突然、無数の蛍光が点滅し始めた。壁の卵嚢が一斉に脈動し、中から人間の胎児のような生物が腕を突き出す。


「目を閉じろ」楓が閃光弾を投げる。

 爆発と悲鳴が混ざり合う。二人が走る足元で、卵から這い出た幼生が葵の足首にかみつく。


「離せ…!」

 楓が幼生を引き千切る。紫色の血液が噴き出し、天井の卵嚢が怒りのように膨張する。


「早く!」

 出口の梯子に掴まった瞬間、水底から巨大な触手が葵の腰を巻いた。楓が全弾を撃ち込むも、分厚い外殻を貫けない。


「楓さん…行って…!」

「黙れ!」


 楓は梯子を蹴り、葵と共に水没する。触手の拘束が解けた隙に、彼女は水中で葵の口に酸素ボンベを押し当てる。暗闇で触れ合う肌が、最後の体温を交換する。


 排水処理場へ浮上した時、彼らは砲撃の音に気付いた。

 基地が炎上している。反乱軍の戦車が、将軍派の防衛線を蹂躙していた。


「データさえあれば…」葵がUSBメモリを握りしめる。

 楓は遠くの炎を見つめながら、自分の左腕が再び紫色に変色しているのを隠した。


 廃教会を仮の隠れ家にした夜、葵が楓の腕の異変に気付く。

「なぜ黙ってたの…!?」

「必要ないからだ」楓が崩れた聖像に寄りかかる。


 突然、教会のステンドグラスが砕け散る。銃弾が楓の肩を貫く。

「アルテミス第七小隊…!」楓が葵を床に押し倒す。「裏切り者が…!」


 元同僚の兵士たちが、冷たい手順で包囲網を縮める。隊長の声が拡声器で響く。

『蒼井は処分。医者は生け捕りだ』


 楓は笑った。血の気が引いていく感覚の中で、初めて葵に真実を告げる。

「あの夜…変異体が撤退した理由を…知ってるか?」

 葵が震える首を振る。

「私の血の匂いを…恐れてるんだ」


 窓外から、変異体の大群が地平線を覆い始める。人為的な爆発音に誘導されたように。

 楓は最後の弾丸を込め、葵に微笑んだ。

「お前の光を…見せてくれ」


 葵がUSBメモリを起動する瞬間、楓は単身で敵陣へ飛び込んだ。

 特殊部隊の銃口。

 変異体の牙。

 自分という存在を二つに裂く暴力の狭間で、彼女は初めて葵への言葉を探した。


 ──愛してるとか

 ──感謝してるとか

 そんな綺麗事では、この戦場の血は拭えない。


「生きろ…!」

 叫びと共に、彼女は自らの腕を噛み千切った。紫色の血潮が噴霧し、変異体の群れを狂わせる。


 葵の操作する発電機が起動する。USBから解き放たれた青い光が、教会を宇宙船のように包み込む。変異体の皮膚が剥がれ落ち、特殊部隊の銃器が溶けていく。


「楓さん…!!」

 葵の叫びを追いかけるように、楓の肉体が光を吸収し始める。彼女の銀髪が結晶化し、地面に落ちた血が星屑のように輝く。


「これが…姉さんの光…」

 葵が抱きしめたのは、すでに人間とも変異体ともつかない楓の半身だった。右半身は透明な水晶に、左半身は紫色の外殻に覆われている。


「お前…綺麗だな…」

 楓の声が電子音に歪む。彼女の眼球がレンズのように収縮し、葵の涙を光学データとして記録する。


 光の洪水が収まった時、教会には無数の結晶が残された。

 楓の最後の姿勢は、明らかに葵を守るための盾の形をしていた。


 葵が結晶の欠片を胸に抱き、炎上する戦場を歩き出す。

 彼女の新しい抗体が世界を変える光となるまで――

 どれほどの時間がかかるだろうか。


 ただ一つ確かなのは、彼女が二度と笑わなくなったこと。

 凍りついた頬に、楓の結晶が永遠の涙のように煌めいている。


 ——————————————————————————


 最終防衛線と呼ばれた場所は、子供の描いた落書きのような砲台跡だった。

 葵が結晶化した楓の欠片を胸に押し当てながら登った展望台には、かつて戦艦の主砲が置かれたらしい。崩れた瓦礫の上で、彼女は注射器に自分の血を吸い上げた。


「楓さん…見てて」

 抗体含有率98.7%——自らの臓器を削りながら完成させた血清が、月光に青く輝く。遠くで蠢く変異体の大群。彼らが恐れるものは、今やこの小さな液体だけだ。


 突如、地面が震えた。

 かつての仲間たちが、戦車を先頭に要塞へ突入してくる。隊長の声が拡声器で歪む。


『抗体を渡せ!さもなくば——』

 応答代わりに、葵が血清の入ったアンプルを地面に叩きつける。割れた破片から立ち上る蒸気に触れた雑草が、紫色から緑へと戻っていく。


「効く…」

 葵の笑顔が、炸裂する砲弾で引き裂かれる。


 彼女が転がり込んだ壕舎で、懐中の結晶が微かに震えた。楓の残した思念らしきものが神経を掠める。かつて二人で戦った廃ビル。変異体の巣の最深部。光る地下水脈。


「そうか…ここが…」

 葵が血まみれの地図を広げる。最終決戦の場は、彼女たちが初めて共同戦闘を行った地下水源だった。


 夜明けを待って突入する。

 水脈の入り口で、葵は楓の結晶を額に押し当てた。

「お願い…最後の力を貸して」


 結晶が脈動し、彼女の視界に青い光が溢れる。変異体の群れが道を開き、まるで楓が守っているようだ。


 最深部で待っていたのは、人間の原型を保った変異体の女王だった。その顔は——葵の姉、桜庭咲希に似ている。


「姉さん…?」

 葵の声が洞窟に反響する。女王の触手が震え、腐敗した声帯が鳴る。


『葵…』

「違う!姉さんは…姉さんは光を遺したんだ!」

 葵が血清投与器を構える。


『愚か…者…』

 女王の触手が突き出る。その刹那、葵の懐から結晶が飛び出し、刃のように触手を切断した。


「楓さん…!」

 空中で回転する結晶が、楓の形へと再構成される。ただし、完全な人間でも変異体でもない——ガラスのような肉体が内部の星光を脈動させている。


『離せ…』

 楓の声が電子合成音で響く。彼女が葵を庇い、女王と対峙する。


「一緒に…戦う」

 葵が血清を投与器にセットする。

「姉さんを…解放する」


 戦闘は美しかった。

 楓の結晶の剣が放つ光の軌跡。葵が散布する血清の霧が虹を描く。女王の叫びに混じって、遠い記憶の歌声が聞こえるような気がした。


 決着は、水源最深部の祭壇でついた。

 女王の心臓部に埋まっていたのは、咲希のものと思われる白骨化した腕だった。握り締めたUSBメモリが、楓の結晶と共鳴して青く光る。


「姉さんは…ずっと…抗体を作り続けてた」

 葵が涙で曇ったゴーグルを外す。女王の肉体が崩れ落ち、咲希の骨が優しく地面に横たわる。


 突然、楓の結晶が突然砕け始めた。

「なぜ…?」

 葵が慌てて破片を集める。


『論理的帰結』楓の声が冷静だ。『この結晶体は抗体拡散の媒体になる』


 つまり——散華するように消えることが運命だ。


 葵が注射器を自分の心臓に突き立てる。

「私の体で拡散すればいい」

『拒否』楓の光が激しく閃く。『お前は、生きる』


「楓がいない世界なんて…!」

 彼女の叫びが水脈を震わせる。


 次の瞬間、楓の結晶が葵を優しく包み込んだ。ガラスのような唇が、本物らしい温もりで彼女の額に触れる。


『愛してる』

 電子音にも拘わらず、それが最後の本心だとわかった。


 葵が目を開けた時、洞窟は星空になっていた。

 天井も壁も消え、変異体の残骸が銀河の塵のように舞っている。真ん中で楓が微笑みながら崩れていく。


「待って…まだ…!」

 葵が手を伸ばす。指先が触れるたびに楓の身体が星屑に変わる。


『見えるか』

 楓の指差す先に、現実の洞窟が重なる。血清の光が変異体を人間の死体に戻していく。兵士たちが呆然と武器を落とす。


『約束だ』楓の声が遠のく。『生きて…笑って…』


 最後の欠片が消える時、葵の頬に触れた。

 本物の涙の感触だった。


 戦争は終わった。

 葵が目覚めた病室の窓から、戦後初の雪が降っていた。彼女の首から下げた結晶のペンダントが、静かに輝く。


「…笑えって言われても」

 窓ガラスに映る自分の顔は、ちっとも笑っていない。


 ポケットから取り出したUSBメモリには、楓の戦闘データと共に、一行のテキストファイルが隠されていた。


『お前の泣き顔も見たかった』


 その夜、葵は星空の下で初めて泣いた。

 雪と涙が混じる頬を、透明な結晶が優しく撫でていく気がした。







拙文を読んでくださりありがとうございます<(_ _)>


本作は別の執筆中の作品からこぼれたようなものです。

百合のシーンは少ないので、少々詐欺な気もしますが、作者がこういったジャンルを書くのは初めてなので、ちょっとバランスが取りづらいです。(そもそも小説を書き始めて間もないです)


誤字脱字&誤った表現があれば優しく教えていただければ幸いです。

感想&レビューお待ちしております!


今は余力がありませんが、本作を気に入ってくれる方が増えると、長編リメイクも考えています。

ただ、短編にも短編の良さがあると思います。

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